逃避行
一五四三年 尼子孫三郎豊久
「兄者!兄者はおられるか!」
父を失った。最期の言葉を交わすことは出来たが死に目に会うことは叶わなかった。
この乱世だ。
覚悟をしていたつもりだったがそれでも目から零れる涙を止めることは能わなかった。
状況的にも死に目に会えぬことは当然だと思う。だが無理なことは分かってはいながら、本当はその場から離れたくなかった。一緒に戦って死ねと言われれば従っただろう。だが父はそれを許しはしなかった。恐らくあの父の事だ。大暴れして死んだのだろう。
尊敬出来る、偉大な父だった。戦では無類の強さを誇り近隣から恐れられた自慢の父だった。その雄姿をこの目で見たかった。だがその機会は二度と訪れることは無い。それが寂しい。
だが父上が稼いでくれた時間のおかげで私はこうして新宮谷まで辿り着くことが出来た。奪った馬を庭先に乗り捨てる様に飛び降りると急いで兄を探した。だがどういう事か、人の姿が見当たらない。
まさか三郎(尼子詮久)は既に新宮谷までその手を伸ばしていたのか。胸に嫌なものが込み上げてくるのを必死に見ないように声を張り上げて兄を探した。
だが声を上げても返事は帰ってこない。屋敷を探しても、誰とも会わないことなどあるのか。
まさか…!
一室だけ襖に締め切られた部屋があった。だが物音ひとつしないその部屋がこの屋敷最後の部屋だ。そこは我等新宮党が評定を開く際に使っていた部屋だった。
息を一つ飲み込みながら静かに、中を窺う様に開ける。
上座には兄者が目を閉じて座っていた。そして再び息を呑む。
甲冑姿だった。兜までは被ってはいないものの膝の横には鬼の顔の前立てが付いた兄上の兜だ。そして座っている兄者のその雰囲気は戦前のものだった。
「あ、兄者…」
恐る恐る、兄者を呼ぶ。否、戦前の雰囲気以上だ。いつもの不敵な笑みでぎらぎらとしている兄ではない。これ程までに張り詰めた兄者は見たことがなかった。だが一体何事か。何故、甲冑姿なのか。他の皆はどうしたのか。
「よう、孫三郎」
私の声に反応した兄者はそっと目を開ける。表情はいつもの猛々しさがない能面の様な顔だ。だが声はいつもの兄上だ。その兄上の姿を見ただけで私も安心してしまったのか再び視界がぼやけてくる。私自身も父を失い気を張っていたのか。
「父上が…」
「死んだんだろう、親父は」
「!…何故、それを」
静かな声だった。ほんの数刻も経っていないにも拘らず兄上は父の死を知っていた。何故知っているのか。目を見開いて兄を見ていると兄はさらに口を開く。
「お前も親父も三郎を分かってねェんだよ。三郎の事だ、毛利の策略だと分かってても俺たちを潰そうとしただろう。なのにのこのこと、馬鹿親父が」
そう呟き兄者は小さく溜息を吐いた。兄はこうなることを見通していたのか。だったら何故止めようとしなかったのか。兄が止めていれば父とて死なずに済んだのではないか。
「おい、孫三郎。俺を睨むんじゃねェよ。恨む相手は俺じゃねェだろうが」
私の心を読んだかのように兄がさらに言葉を重ねた。いや、表情に出ていたのかもしれん。指摘され視線を床に落とす。先ほどから感情が上手く制御出来なかった。色々なことが目まぐるしく起きたせいか、その不満を吐き出すように私はいつの間にか大声を上げていた。
「分かっていたのなら、分かっていたのであれば何故!兄者は父上をお止めしなかったのですか!」
「止めて何になる。親父は親父なりに考えて、その自分の考えに従った結果、三郎に討たれたんだ。本望じゃねェか」
「ですが!」
「それに俺は親父に言ったぜ?三郎を討とうってな。お前もその場に居たろうが。それに今回の城に登城することだって付いて行くか聞いたんだ。それを親父は拒否した。案外親父も予想してたんだろうよ。それともやっぱり自分は殺されねェと高を括ってたか。どちらにせよ親父はもうこの世にいねェ。そうだろ孫三郎?」
「…っ」
言い返そうにも言葉は無かった。兄上も遠回しに父を案じてたのだ。だが父自身がそれを拒んだ。恐らく本当だろう。兄だけが三郎詮久を警戒していた。
この尼子新宮党の跡継ぎである兄が生きてさえいれば父の血は残る。だからこそ拒んだんだろう。そして、父一人では怪しまれると私を連れた。所詮私は次男だ。死んでも一応下に弟の小四郎敬久がいる。だが、理屈がそうであれ実の父を失ったのだ。もっと悼むくらいはあってもいいではないか。
「おい、何時まで床を睨んでやがる。そろそろ行くぞ」
「…行くとはどこに」
「新宮谷じゃどのみち俺たちは全滅だ。何せ出雲は三郎の手に落ちてんだろうからな。いつここが攻められるか分かったもんじゃねェ。親父と約束した通りに美作に行く」
そう言うと兄上は萎烏帽子の上から兜を被り緒を締めた。
尼子式部少輔誠久
部屋に入ってきた弟の声を聞いただけで何となく、いや、起こるべくして起こったであろうことを理解した。いや、俺自身は必ずこうなると思っていた。
俺が親父の死を告げると驚いたように孫三郎は目を見開いて俺を見ていた。孫三郎は殺されるとは思ってなかったらしい。まったくどいつもこいつも甘ェんだよ。三郎を甘く見過ぎだ。
あいつはずっと血が繋がっていようが親族衆だろうが俺たちに心を許してなかった。それが何故かは知らねェし、知りたくもねェが、下野守の大叔父(尼子久幸)すら蔑んだ目で見ていた。ひょっとしたら爺さん(尼子経久)すら許してなかったんじゃねェか。そう思う位にあいつの目は親族には殊更冷たかった。
俺が年も近く一緒に居ることが多かったから気付けたのかもしれねェが、まあ、今更だな。
「ほら、行くぞ孫三郎」
兜の緒を締め立ち上がると呆けたように立ち竦む孫三郎の背中を思いきり掌で叩いた。こいつはいつまでぼけっとしてやがんだ。そんな余裕なんてねえだろうに。
恐らく三郎はすぐにでも兵を出してくるだろう。時間の勝負なんだ、いい加減しっかりしてくんねェかなこいつ、ったく。
「皆は?皆はどちらに行ったのです?」
「あ?んなもんとっくに美作に出発させたに決まってんだろう。俺の兵を使って無理矢理な。小四郎が指揮を執って美作に向かわせてる」
どいつもこいつも平和ぼけしてやがんのか、なかなか動こうとしなかったから兵に命令して無理矢理行動を起こさせた。親父からの命令だと嘘もついた。死人に口なしだからな。それに結果としては俺の予想通りだったわけだし親父も許してくれんだろう。
俺一人ならいくらでも逃げ切れるだろうから先に行かせたが正解だったな。親父が死んだと本当に分かったらもっと悲惨なことになった。この事は美作に着くまでは誰にも言えねエな。
外に出ると五十人ほどの俺の馬廻りが控えていた。待機させていたが孫三郎が戻ってきたことに気付いて駆け付けたんだろう。孫三郎の甲冑も用意されていた。
命令して兵たちは孫三郎に甲冑を着させる。馬の脚ならそれほど時を掛けずに小四郎に追い付けるはずだ。
馬に跨り、進発する。新宮谷もこれで見納めだろう。だが別に愛着があるわけでもないしそこまで感慨深くはならなかった。だが兵たちや孫三郎たちは何度も後ろを振り返っては離れていく新宮谷を見ていた。
親父が死んだのもそうだ。
寂しいは寂しいが、孫三郎みたいに目に涙を溜めるほどの事じゃない。
どうせいつかは死ぬんだ。親父はそれがほんの少しばかり早まっただけ。俺にとってはただそれだけの事だった。
強いて言えば面倒だ。こんなことをいちいち考えるのは正直ただただ面倒だった。
親父が死んだ以上は俺が残った一族郎党を纏めなくちゃならねェ。だがそれが本当に面倒臭かった。
俺がしたいのは戦だけだ。命を懸けて命を狩り合う。それだけをしていたかったのに。親父が死んだせいで余計なもんを背負わされた。見捨てちまうかとも思ったがそこまで不義理を果たす気にもならなかった。恐らくここで俺が見捨てる選択肢を取ったら兵たちは付いて来ないだろう。兵がいなきゃ大きい戦も出来ねェ。だから先に美作に逃がした。
親父はどんな風に死んだんだろうな。冷静ぶっちゃいるが親父も根っこは俺と同じだ。大暴れしただろう。命が尽きるまで暴れて最後は死ぬ。本望だったろう。爺みたいに畳の上じゃなく殺し合った中で死ねたんだ。
それにこうして俺たち跡継ぎも残せたんだ。万々歳じゃねェか。羨ましい限りだ。俺も死ぬならそう死にてェもんだ。
死んだら死んだであの世とやらで鬼相手に暴れりゃいいんだしよ。
「父上は、逃げたりしないでしょうか」
「あ?」
馬を走らせながら親父を羨んでいると隣で馬を走らせていた孫三郎がそんなことを言いだした。何を期待してんだか。まだそんな馬鹿なことを言ってんのか。美作に辿り着くまでは油断出来ねェんだから本当にしっかりしてくれよ。
「父上ならば敵の包囲を破って逃げることも出来るのでは」
「三郎が逃がすわけねェだろ。親父が死んだことを認めろ馬鹿が。いい加減しっかりしろや」
「…申し訳ありませぬ」
ただこいつにはまだ働いてもらわなきゃなんねェし、何て言や意識をしっかりさせることが出来るか。親父のことを気にしてやがるわけだから、逃がされたことが気に入らねェのか。失ったことが辛ェのか。後者だな。ならその辺を意識させるか。
「親父に託されたからお前はここに居んだろう。だったらしゃんとしやがれ馬鹿が」
これならどうだ。孫三郎にはこういう言い回しが効くんじゃねェか?反応を確かめる様に孫三郎を見ると孫三郎が何かに気付いたような、目を見開いた顔でこっちを見ていた。
「…そうでした。私は父上のおかげでこうして生き延びたのですから、前を見ます」
「それでいいんだよ」
孫三郎はそう言って籠手で被っている自分の兜を一発二発殴ると首を左右に振った。目は先ほどよりも生気が戻ったように見える。これなら大丈夫か。
「兄者、父上からの遺言を預かっていました。今の今まで忘れていたようです。『好きに生きよ、思うままに駆けよ』。父上はそう伝えよと言っていました」
「…そうか」
『好きに生きよ、思うままに駆けよ』か。親父がいなきゃそんな風に生きらんねェじゃねェか。親父がいつもどんと後ろに居てくれたから俺は今まで好き勝手に振る舞えたし、戦に出れたんだ。そう思うと鼻の奥が急につんとした。親父が本当に死んだんだと今実感した。情けねェや。口では孫三郎に偉そうなことを言ったが俺自身も何処か信じてなかったらしい。見られたくねェから少し前を走るか。
それにしても好きに生きろ…か。重い荷物背負わせながらよく言うぜ親父。馬鹿野郎が。自分はさっさと死にやがって良く言うぜ。
でもどうすっか。美作一国守るなら守れるだろう。
とはいえせっかくの乱世だ。やるなら守勢より攻勢に出たいが美作だけならそれも難しいだろうな。
毛利と休戦している以上三郎は執拗にこっちを狙ってくんだろう。三郎と遊ぶのは楽しそうだが、美作で集まる兵数は多く見積もって四千から五千程度。無理して集めりゃこれくらいはいくか。
美作守(川副久盛)の守る林野城は西と南に川が流れて守るのに都合がいい。余程の事がない限りは守れんだろう。じゃあその後は。
俺が国主?…柄じゃねェな。そんなもんになっちまったら前線に出れなくなっちまう。手っ取り早いのは毛利に下っちまうことだが、下っちまうと毛利と遊べなくなっちまうしな。あそことの戦は骨があっていいんだよなァ。そこと戦えなくなんのは嫌だな。
でも今この近隣で一番乗りに乗ってんのはあの家だ。攻める機会は多いだろうし…。それにこっちからわざわざ下ってやるのは癪だな。
今まで敵対していた家だ。状況が状況とはいえそう簡単にほいほい下りたくはねえ。
まあ、十中八九毛利は接触してくんだろう。敵の敵は味方だ。
今回のことで俺たち新宮党は尼子本家と敵対した。原因は毛利家だが実際に手を下し親父を討ったのは三郎だ。どっちを恨むかで言やあ三郎の方が憎いのが心情だろう。仇を取りたい気持ちが無い訳じゃねェ。
それに毛利がこんな手を打ってきたのは尼子を食うためだろう。気に食わねェが流石の手前だ。
この停戦が解けたら確実に動き出すはずだ。いや、あの家ならすでに動いてんだろう。
なら間違いなく何かしらの接触はある筈。
それに対した時に決めるか。誰が使者に来るか、その反応を見てからでも遅くはないだろう。
一度美作守とも相談したい。あー、クソ。本当に面倒だ。こんな面倒なことをなんで俺が考えなきゃならねェんだ。こんなもん早く誰かに押し付けちまいたい。孫三郎じゃねェが親父生きて帰ってきてくんねェかな。
「兄者」
「あ?どうした孫三郎」
考え事をしている最中に隣を走る孫三郎が話しかけてきた。なんだよ、いい所だったのによ。
孫三郎は無言で後方を親指で指している。見れば微かに騒がしい。もう来やがったか。三郎もせっかちじゃねェかおい。
「どういたしますか兄者」
俺が理解したことが分かったんだろう。追手をどうするか、孫三郎が確認してきた。その表情は既に憔悴している様子はない。立ち直ったみてェだ。
それにしても追手か。微かに上がる砂埃から見てもそれほど数はいないだろう。だったら答えは一つしかねえだろうが。自然と口角が上がるのを抑えられねェ。
「人様の親父殿を殺したんだ。新宮党の恐ろしさを三郎には味わってもらわなきゃならねェ。お前ら、そうだろう!」
「応!応!」
「親父の弔いには少しばかり数が少ねェが親父が寂しくないようにお供を付けてやらねェとな。孫三郎、半分を引き連れてこのまま速度を抑えめに走り続けろ!俺はもう半分を引き連れて一度道から外れて奴らの後ろに回る。出来ねえとは言わねえだろうな!」
「言われるまでもありません!私とて新宮党の一員、敵を引き付けて御覧に入れます」
「良し、それじゃ景気よくやっちまうか。親父に心配かけさせんじゃねえぞ!」
「はい!」
孫三郎の返事を聞き俺は手綱を引いて馬首を返した。付き従う騎馬武者二五人ほどを引き連れて道から外れていく。やっぱ面倒くさいことを考えるより戦のこと考えてる方が楽でいいやな。
親父、極楽か地獄か分からねェが見てろよ。言われた通り、この乱世を目一杯駆けて親父を楽しませてやるからよ。どうせ親父も死ぬ前に大暴れしたんだろう?なら俺にも分け前貰ったって罰は当たらねェよな?なんとなく見上げた空は既に赤みが差し始めていた。
【新登場人物】
尼子小四郎敬久 1525年生。尼子国久の三男。誠久、豊久の弟。+5歳




