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断る理由



一五四六年  熊谷直(くまがいなお)



「手紙は読んだか?」


「…はい」


次郎(吉川元春(きっかわもとはる))様から手紙を頂いた次の日、兄上(熊谷高直(くまがいたかなお))がまたあたしの部屋に来てくれた。あたしの様子を見に来てくれたみたい。


父上(熊谷信直(くまがいのぶなお))と兄上が今回の件で次郎様に直談判しに行ったその日のうちに次郎様からの手紙を渡された。

父上と兄上にはあたしのせいで危ない橋を渡らせてしまった。本当に感謝してもし足りない。あたしみたいな政略にも使えない女なんて放っといてもいい筈なのに。でもその恩を返すことなんて出来るのかな。生きてさえいてくれればいい、なんて言ってくれたけど。そんな父上と兄上の優しさに甘えてしまっている。


あたしが尼寺へ入ることを伝えれば次郎様は諦めてくれる。兄上はそう言って、あたしもそれに同意した。だから、それで終わり。そう思っていたのに…。

あの一件があってから夜になる度に胸が苦しくなりよく眠れない。眠る度に夢を見て、それは必ずと言って良いほど次郎様が出てきた。

あの夜、次郎様に遭遇しなければ楽しい夢を見たできっと済んだ。ただ遠くにいるあたしの初恋の人、憧れの人で終わっていたから。でも今は違う。次郎様はあたしに次郎様と夫婦になれるって可能性を見せてくれた。あたしの夢が現実になることを教えてくれた。そのせいでただ楽しかった夢が悪夢になってしまった。きっと欲が出てしまったんだ。だからこんなにも辛い。


今もあたしの手の中には次郎様の手紙がある。


「それで、お前はどうしたい?」


このどうしたいというのはきっと次郎様に会うか?ということ。手紙の最後の文面に直接会って、話がしたいという事が書いてあった。兄上はそのことを言っている。

会えるなら会いたい。そんなの決まってる。ずっと、ずっと会いたかったの。今だって本当は次郎様の胸に飛び込みたい。でも出来ない。

今のあたしじゃ次郎様のような素敵な殿方の隣にいることは相応しくない。


そんな曖昧なあたしの心が兄上にも伝わったのか、何も言わずに俯くあたしを見て『そうか…』と小さく呟かれた。


「まだ一日ある。次郎様もそれまでは待つと仰っていた。次郎様も急がねばならぬ身であろうにな」


分かってる。そんなことわざわざ口にしなくたって。次郎様の元に縁談の話が来ていることくらい、引きこもっているあたしの耳にも入ってきてる。

あたしの為に待ってくれてることも。


「次郎様は…、いや、何でもない。邪魔したな、直」


兄上はそう言って立ち上がると部屋から出ていった。最期に何か言い掛けてやめた言葉が耳に残る。きっと兄上はこう言おうとしたんだ。『次郎様ならお前を受け止めてくれる』って。

兄上も実際はあたしを吉川家に嫁に出したいに決まってる。父上ほどではないけど兄上も次郎様と過ごす時間は長かったはず。羨ましい。

それに吉川家と深い繋がりが出来れば熊谷家も安泰だ。

でももし嫌われたら?拒絶されたらあたしはどうすればいいの?それが怖くて何も出来ない。


どれくらい時間が経ったんだろう。いつの間にか外を見れば夕日の赤い色が空を染めていた。何をするでもなくもう夕方になってしまったみたい。


「直、いるかい?」


部屋の外から母上(熊谷清(くまがいきよ))の声が響いた。いつもの快闊な声ではなく、どこか優しい響きのする声だ。


「はい、います」


『入るよ』と声が聞こえて襖が開くと母上がそこに立っていた。優しい顔であたしを見ている。その姿を見た瞬間、何かが弾けたように涙が溢れた。どうしてもその涙が抑えきれなくて思わず母上に手を伸ばすとそのままあたしを抱きしめてくれた。母上の優しい匂い。恥も外聞もなく、ひたすら泣きじゃくった。


母上は何も仰ることなくあたしの髪を撫でてくれた。小さな頃から良く撫でてもらったな。

暫く泣き続けた後にようやく落ち着き、顔を上げた。母上はあたしの両頬を掌で包み込むと困ったように笑った。


「酷い顔だねぇ。うっすら隈も出来てるよ。折角の綺麗な顔が台無し」


「あたしの顔なんて元から、酷い顔だわ…」


「はぁ…、またあんたはそうやって自分を卑下して…。そんなだからいつまで経ってもぐじぐじと悩み続ける破目になんのさ」


次郎様の問題があってから、母上は今まで何も言ってこなかった。この問題に対して母上が何か言ってきたのは初めてだ。母上の言葉を聞きたくなくて視線を逸らそうとするが、両頬を包まれているため思う様に頭が動かせない。それどころか視線を固定されるように引き戻される。


「悩むくらいなら、次郎様と話しな」


「…でも」


それが出来るなら苦労はしない。こんなに悩む必要もない。それが出来ないからこんなに悩んでくるんでいるのに。それでも母上はお構いなしに言い募る。


「でもじゃない、あんたがうじうじしているせいでうちの男どもも頭を悩ませているんじゃないか。女が家の足を引っ張るような真似をしてどうするつもりだい。そんなんじゃ次郎様に見初められたって次郎様に迷惑を掛けるよ。どちらにしたってあんたじゃ次郎様には不相応さ」


頭がかっと熱くなる。母上だからって言っていい事と悪い事がある。頬を包んでいた母上の手を自分の手で払うと捲し立てる様に言葉を吐いた。


「分かってるわよ!それくらい!いつまでもうじうじしたって解決しないことくらいあたしにだって分かってる!でも今のあたしじゃ自信が無いの!次郎様の隣が相応しくないって思ってるの!何度も諦めようとしたわ、けど諦めきれないのよ!次郎様に嫌われたらって考えるだけで怖いの!」


「嫌われたら何の問題があるって言うんだい?」


「問題って!そんなの嫌われるのが怖いからに決まってるじゃない!」


今なら次郎様はあたしを好きなままでずっといてくれるかもしれない。いっそそのままの方が。


「ならあんたは、次郎様が別の姫と結ばれてもいいって言うんだね?この先、次郎様が別の姫と結ばれて、そのうち子を作って、幸せそうに家族団欒を過ごす中、あんたはそれをこの部屋で話にだけ聞いてる。そんな惨めな生活を過ごしていくんだね?今ならまだあんたにも次郎様の隣で過ごせる可能性がある。しかも一番あんたがその場所の近くにいるにも関わらず自分からその場所を譲るんだね?」


っ…!そんなこと言わなくたって。

一瞬で母上が言葉にした言葉を想像する。今よりも更に大きく逞しく、頼りになる次郎様、そのすぐ近くを燥いで走り回る次郎様の子。そして次郎様の隣にはあたし以外の知らない姫。

確かに今ならまだ、その知らない姫の場所があたしの場所になるかもしれない。でも…。


興奮していた頭がすーっと冷めていく。片方の顔にそっと手を当てる。興奮していたせいかやけにそこが熱い。


「でも、嫌われるの怖いよ…」


「どっちにしたって、このままあんたが何もせずに手を拱いてたら近い将来に次郎様の頭の中からあんたのことは消えちまうよ?たった一度の人生、そんなに臆病でしたいことも出来ない。そんな人生で終わるのかい?それに、あんたが惚れた次郎様はそんなにちっちゃい男なのかい?」


そうかもしれない。このまま見てるだけであたしは満足出来なくなってる。見てるだけならこの先、あたしの人生はただただ辛いものになっちゃう。

母上の問いかけに首を左右に振る。少なくとも話に出てくる次郎様はそんなに小さい人じゃない。向こう見ずな所があるそうだけど、毛利家の為、家臣の為にって頑張ってる。


「なら次郎様はあんたのここの事で嫌いになる男じゃないね?」


そう言って母上はあたしの右頬を撫でる。


「そうかも、しれないけど…」


「なあに、もしそれで次郎様があんたを受け入れないならその程度の器の男だったってことだけさ。そんな男ならこっちから願い下げさ。うちの直が勿体無い」


「でも、もし嫌われたら、あたし、生きていけない…」


「なら、その時はあたしも一緒に死んであげるよ」


「え、母上…?」


思い掛けない言葉に思わず母上の顔を見る。冗談で言ってるのかと思ったけど母上の顔は真剣だった。


「あんたには悔いを残して欲しくないんだよ。それに、あんたがこうなっちまったのは元はと言えばあたしのせいでもあるんだ。そこまで思い詰めて、あんたが生きているのが辛いって言うなら、あたしも一緒に死んであげるよ」


何でそこまで。あたしにしてくれるの?そんなの当たり前だ。こんなあたしでも母上は愛してくれているんだ。だからここまでしてくれる。あたしに後悔させないように動いてくれる。


それに対してあたしは何してるんだろう。母上にここまで言わせて、あたしは自分の事ばかり。情けない。

母上の言う通りだ。嫌われることを考えるのは後でいい。その時、死にたくなるかもしれないけど、それでも、次郎様が誰かに取られるのは嫌。あたしだけの次郎様でいて欲しい。


「分かった、あたし、次郎様に会う…」


あたしの言葉に母上が嬉しそうに笑った。そうだ、次郎様に会わなきゃ。






一五四六年  吉川(きっかわ)少輔次郎(しょうのじろう)元春(もとはる)



次郎三郎(熊谷高直)から返事を貰い、居ても立ってもいられずにその日のうちに熊谷邸に行くことを決めた。時間の制限ぎりぎりだ。でも直殿は会うと言ってくれたらしい。そこで再び直接フラれるのか。それともまだ好機が残っているのか。それは分からないが、少なくとも話せるチャンスはあるんだ。まだ諦める訳にはいかない。

もし取り付く島もない状態ならそれはそれでしっかり自分が振られたんだと納得出来る。かなり引きずると思うが。


縁談が幾つも来ている俺が今、女性問題を起こしては評判が下がりかねない。まだこの問題は当人以外の耳には入っていない筈だ。だからお忍びで夜更けにこうして熊谷家へと赴いた。宿直が権兵衛だったのも都合がいい。権兵衛は口が固いから絶対に言いふらしたりはしないだろう。


そんな小さな苦労を重ねながら熊谷邸に到着した。少しずつ緊張感が増してくる。今から生涯のパートナーが決まるかどうかの瀬戸際だ。初陣ほどじゃないが中々怖いな。


誰にも知られないようにするため到着するとすぐに次郎三郎が案内をしてくれた。


「こちらです。既に直は部屋で待っております」


「分かった」


いよいよか。小さく息を整える。落ち着かせるためだ。そして直殿が待つ部屋へ到着する。


「直、次郎様をお連れした。入るぞ」


次郎三郎が部屋の中に声を掛けると中から『どうぞ』と声が聞こえてきた。この声もグッとくる…!って違う。そんなことを言っている場合ではない。


返事を聞いてそのまま襖が開かれると中には頭を下げて待つ直殿の姿があった。次郎三郎に言われるまま部屋の中に入っていく。


「では私は隣の部屋でお待ちしていますので、お二人でお話になって下さい」


「え、あ…?」


思わぬ次郎三郎の一言に驚き引き止めようとしたが問答無用で襖が閉じられた。いや、婚前の女性と二人きりにするか普通?いや、ここは熊谷邸だから安心なのか?それとも俺への信頼?それにしたってあまり外聞が良くないんじゃないか?いや、誰かに知らせる訳でもないし、…ええい、ままよ。むしろ二人きりで話せるなら好都合だ。

いつまでも立っている訳にはいかない。大人しく直殿と正対するように腰を下ろした。

だが何から話せばいいのか。いざ相手を目の前にすると考えが停滞する。まずは、先日の謝罪からか?


「先日は突然の事に、驚かれたと思う。あの夜は不躾にあのような事を言ってしまい申し訳なかった」


そこで一度頭を下げた。か細い声で「いえ」とだけ辛うじて聞こえる。だが一向に頭を上げようとしないのは何でだ?


「直殿?頭を上げてくれないか?」


俺がそう投げかけるとまた小さな声で『いえ、このままで』と返事があった。この反応は予想外だな。嫌な予感がする。顔も見たくないってことか?


諦めの悪い俺に嫌気が差して止めを刺すために俺に会ってくれたってことか。思わず天井を仰ぐ。…あー、答えを直接聞かなくても堪えるな、これ。フラれるのを大人しく待つのか。死刑執行を待つ気分だ。やばい、ちょっと泣きそうかも。


いや、情けない姿は見せられん。最初から情けない対応をしてきたんだ。最期くらいは立派に散ろう。惚れた相手にそれくらいしか出来ないが。さあ、止めを刺してくれ。


「こうして会ってくれたということは、直殿自身の答えを聞かせてもらえるということだと俺は認識している。以前の告白は突然ではあったが、偽りない俺の本心だ。俺は貴方と夫婦になりたいと今も思っている。直殿はあの時、嫌だと言っていたのも知っているが諦められずまたこうして会う場を設けさせてしまった。…嫌なら嫌でいい。その時は潔く身を引く。勿論熊谷家に何か害を及ぼすつもりもない。兵庫頭も次郎三郎も俺の大事な存在だ。それが揺らぐことはない。だから、直殿は安心して本心を聞かせてくれないか?」


何を言い訳のようにつらつらと語ってんだ俺。最期まで女々しいな、全く。

でもここまで言ってやれば断りやすくもなるだろう。家には迷惑を掛けないと約束もしてるんだ。はぁ、聞きたくないことを聞くのはやだなぁ…。


「……」


だがしばらく時間が空いてるにも拘らずなかなか直殿が口を開こうとはしなかった。言い辛いのかもしれない。でもそうだよな。仮にも熊谷家を従える俺が相手なんだから気も遣うよな。

大丈夫。死刑執行だろうとも俺は待てる。直殿が自分のタイミングで話し出すのをちゃんと待とう。それくらいしか直殿にしてやれない。はぁ…、本当に迷惑ばっかりかけて何やってんだろう。


それにしても、本当に直殿綺麗だなぁ…。最期の見納めになるんだ。しっかりと目に収めておこう。




どれくらい待っただろう。漸く直殿が口を開いた。


「…私は、次郎様に、一つ、確認をしなくてはいけないことがあります」


確認しなければならない事ってなんだろう。その確認したいことって言うのが直殿にとって重要な事だというなら聞かなければならない。


「…聞かせてくれ」


そう俺が言うと、直殿が身動いだ。だがなかなか顔を上げようとしない。出来れば目を見て話したいんだけどな。そんなに顔を合わせるのが嫌なのか。あの夜に見た、直殿の顔はとても綺麗だった。


だが今度は顔を上げてくれるようだ。恐る恐るといった様子で少しずつ顔が上がる。そうしてようやく直殿の顔が見えた。あの時のように月明かりに朧げに照らされた顔じゃない。しっかりと行灯(あんどん)に照らされた顔だ。その顔はやっぱり綺麗だった。

だが表情が怯えている、のか?


「これを見ても、次郎様は私と夫婦になって下さいますか?」



そう言って不自然に髪で隠されていた右の顔を手で払った。そこに隠されていたのは赤く火傷で爛れた顔だった。


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