元春と直
一五四六年 吉川少輔次郎元春
「はぁ…」
朝から何も手に付かない。いや、勝手に身体は動いてくれている。習慣付けされた動きは考えていなくても勝手にこなしてくれるらしい。
朝は疾風号に揺られていつの間にか屋敷に到着。すぐに最初に木刀を握って素振り。終わったら井戸水を頭から被って汗を流して身体を拭う。
用意された朝食は、多分食ったはず。そして城に来ると必要な書類に目を通し俺の決裁が必要な書類には名を書いて、いつの間にか昼になっていた。城にいる皆と昼食を食べて色々話した気はするが何にも覚えていない。そしていつの間にか自室に戻っていた。
気が付くと考えていることは常に直殿のことだった。誰だよ史実で不美人とか記録残したやつ!めちゃめちゃ綺麗じゃねえか!一瞬で恋というものに落ちて、そして、まあ、一瞬で振られた。あの時は動揺していきなり夫婦になってくれ、なんて。
「……ぐ、ぐあああぁぁぁぁぁぁあぁあぁぁあああああ……!!」
恥ずかしさと情けなさでグチャグチャだ。見悶えるように床を転がる。誰にもこんな姿見せられん。声に出ちまってるから小姓に気味悪がられる恐れがあるけど、でもこうでもしなきゃ羞恥心でどうにかなりそうだ。
でも、もし俺の勘違いじゃなきゃ、あの時直殿は顔を赤らめてなかったか?月明りしか無くてはっきりは見えなかったけど。
いや、これも俺が都合よく考えてるだけで、本当に嫌悪されてたらどうしよう。はあ、もう、本当に俺は何してんだよ…。くそ、俺なんてゴミだ。俺なんかが吉川元春だなんてやっぱり烏滸がましいもんなんだ。ちきしょう。俺のクソ、俺のカス。
「次郎様、あの、よろしいだか?」
ああ、今日は権兵衛(佐東金時)が小姓の代わりをやる日だったか。
尼子家の戦が終わった後、勝手な行動をした権兵衛を俺は叱った。でも権兵衛のおかげで前線を崩したのも事実だ。だから罰は罰でも少し変わった罰を権兵衛には課した。それは吉川家のあらゆる業務に関わることだ。
今している小姓の仕事もそうだし、兵庫頭(熊谷信直)に付けて訓練にも参加させるし、少輔七郎(市川経好)に付けて政務にも携わらせている。
当然権兵衛には最初の事だから何がなんやらだろう。特に政務なんてずっと首を傾げている。文字も読めないから今は文字の練習からだ。
だが権兵衛自身もただ自分を鍛えるだけじゃ俺を守るのにも限界があると思ったらしく本人のやる気はすごくある。それに権兵衛自身その素朴さと人懐こさから他人に好かれやすいのもあり周りも協力的だ。特に兵から慕われており、いずれは俺が動かす部隊を一つ任せたいと思っている。
権兵衛自身は指揮するのはどうすればいいのかと頭を悩ませているが正直権兵衛は黙って戦っている姿を兵達に見せるだけで兵達の士気を上げられるからとにかくその背中を見せてやれと教えてやった。
うん、権兵衛のおかげで少し回復してきた気がする。恐らく権兵衛は俺の謎の呻き声を聞いたんだろうが権兵衛なら聞かれても大丈夫だろう。でも、あの時の直殿綺麗だったなぁ…。…おっと、いかんいかん。今はそれを考えちゃダメだ。
「どうした権兵衛?」
努めて明るい声で返事をする。最低でもそれくらいは意識しないと。相手は何も関係ないんだ。俺の機嫌で左右するのは良くない。
「兵庫頭様と、次郎三郎(熊谷高直)様が、次郎様に話があるって、言って来てるみてえなんだけども、どうするだか?」
うぐっ…。さっき考えるなって念じたばかりなのに、まさに火中の人間が向こうから来るなんて。いや、ダメダメ。兵庫も次郎三郎も直殿の家族なだけだ。関係ない。
「分かった、ここに通してくれ」
「んだ。したら呼んでくるだよ」
そう言って権兵衛が部屋から離れていく気配があった。今のうちに落ち着こう。深呼吸深呼吸。吸って、吐いて、吸って、吐いて…。よし。
俺が落ち着く頃に権兵衛が戻ってきた。『二人をお連れしましただ』という声が部屋の外から聞こえてきたので、『入れ』と声を掛ける。すると熊谷家の二人が部屋に入ってきた。
「お忙しいところ、申し訳御座いませぬ」
「いや、気にするな。それで、話ってのは何だ?」
次郎三郎が話し始めた。珍しいな。二人で来るときは基本兵庫頭が代表して話し始めるのに。それにしても、まさか今朝のことじゃねえよな。いやね、まさかそんなね。
「はっ、実は我が家の直のことでお話が御座います」
ぐふっ…。こんな時に勘が鋭い俺。いや、まだ大丈夫。俺はこれでも多少は戦国時代に慣れてきたんだ。これくらいで動揺するわけにはいかん。笑顔は保ててる。問題ない。
「直殿か。今朝は突然、直殿によろしく、また会いに来るなんて伝えちまって驚かせただろう。悪かったな。それで、その直殿がどうしたんだ?」
努めていつもと同じ調子で話してるつもりだがいつもこんな感じだったか。まずい、動揺してないつもりだが動揺してる。負けるな俺、ゴミならゴミなりの覚悟を見せる。
「実は、次郎様が帰られた後、言葉の真相が分からず直と直接話をしました。有難いことに次郎様は我が妹の直と夫婦になりたいと申して頂けたとか」
ま、まあ、そりゃね?家族だもんよ。俺が動揺して帰り際にいきなりあんなこと言われたら本人に確認するのは当然だわな。
「いやあ、恥ずかしい話だけどあの夜に月を見ていた直殿を一目見て、その美しさに惚れちまったんだ。まあ、断られちまったんだけどな。でもどうしても諦めきれなくてな、もう一度だけ会わせてもらえないかと思って言ったんだよ」
相手に余計なプレッシャーを与えないように明るい口調でそう告げる。
…うん、口にしてみたがやっぱりあの一回だけの会話じゃ自分を納得させられない。完全に惚れちまってる。
「その申し出は大変ありがたいことです」
うんうん。
「ですが」
うん?
「直は随分と前より現世に嫌気が差しておりまして、常日頃から仏門に帰依したいと言う様になっていました」
うぇ?!…は?え?何だよその話。聞いてないんだが?!
「次郎様も申し出は大変ありがたいことでは御座います。ですが直もお気持ちには答えられない、申し訳ございません。と申しておりました。熊谷家としては大変名誉なお話で御座いましたが、次郎様におかれましては他の縁談を進めて頂きますよう、伏してお願い申し上げまする」
「ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと待ってくれ。…頼む、少しでいいから…」
「え?…あ、ははっ」
やばい、狼狽えすぎて久々にテンパっている。こんなに狼狽えたの久し振りだ。情けない、こんな姿見せるべきじゃねえのに。
いや、待て。この流れは何だ。どうしてこうなった?
史実では元春が熊谷直を貰う事で熊谷信直が感謝し忠誠を尽くすって割かし美談として語られる話だろ?勿論史実とは流れが違うにしても、ここまで熊谷家全体からごめんなさい食らうことってあるか?
駄目だ、ただ狼狽えていたって何も解決なんかしない。ここは落ち着いて考えよう。そもそも拒絶されてる理由ってなんだ?俺だから駄目って感じではない、よな?熊谷家としては名誉だと次郎三郎も言ってる。
そもそも仏門に帰依って尼になるってことだろ。尼にまでなりたくなるほど何か嫌なことがあったってことか?
直殿に関しての情報が少なすぎて何故そこまで思い詰めたことになってるのか分からん。もっと事前に情報を仕入れておくべきだった。これは俺が縁談を先延ばしにしてうだうだしていたツケだな。
それとも仏門に帰依したいって言えば俺が諦めると思って言ってるって可能性は?
熊谷家に知らず知らずのうちに嫌われて…ってのは考え辛いな。自惚れでもなんでもなく事実として熊谷家は伯耆国にまで俺に付き合ってくれてる程に俺に忠義を尽くしてくれてる。元安芸武田の臣下だった熊谷家が毛利家の中でもそれなりの家になったのは俺の下で懸命に尽くしてくれたからだ。そんな家が今更俺に嘘を付く理由はないはずだ。
主筋、つまり俺に嫁を出せば熊谷家は今以上に安泰になる。子供でも生まれれば熊谷家の血の入った子だ。吉川家中でしっかりとした基盤が築けるし家のことを考えれば好待遇だと言える。この時代にそれをわざわざ蹴るってのは考えられん。
ということはやっぱり原因は直殿自身…か?仏門に帰依したいってのは本心?てか政略結婚で道具のように使われるこの時代で娘の考えを優先してやるってどんだけ熊谷家の家族愛深いんだ?いや、この時代、女性は表の仕事をしないだけでそれなりに発言力はある。女性側から離婚して実家に帰るって話もままある話だ。つまり直殿がこの話を通そうとして兵庫頭や次郎三郎が折れた…か。推測だな
。どちらにしても直接話も出来ないんじゃ理由が分からん。
兵庫頭も次郎三郎もこんなことをわざわざ話に来るってことはそれ程に覚悟をもって話してくれてる筈だ。
うわぁ、権力でごり押ししてぇ…。しちゃいけないって分かってるけどごり押ししてぇ。でも採算が合わないって理性では分かってる。でも本能では採算が合うって言ってんだよなぁ…。
いや、駄目だ駄目だ。ここで俺が権力で無理強いすればせっかくの良好な熊谷家との関係が壊れちまう。それは駄目だ。個人的にも熊谷家中の人間は好きだし、兵庫頭を中心に熊谷家が抜けると伯耆国の運営にも戦にも深刻な支障が出る。それにここで無理強いして権力を笠に横暴なことをすれば親父や兄貴に迷惑をかける。それは絶対出来ない。
「…手紙を直殿に届けてもらうことは出来るか?」
踏み込み切れない。伯耆国の主になった手前、昔みたいに身軽にほいほい思った通りに行動すると何処に歪みが出来るか分からない。面倒を見なきゃならない家が増えたんだ。これ以上熊谷家に拘ると贔屓だと見られるかもしれん。
なら出来ることはこれくらいか…。悪足搔きだが何もしないよりはいい。
「…」
考えるように次郎三郎が俯く。兵庫頭は何か言いたそうな顔をしているようだがこの場は次郎三郎に任せているのか口を開きそうにはない。
「これは俺の我が儘だ。強制はしない。読んで貰えずともいい。例え読んで貰えなくても熊谷家に何も咎はねえ。これまでも忠義を尽くしてくれたし、今後もお前たちは俺の頼りだ。そこは変わらん。一筆認めてもいい。だから、俺の我が儘を聞き届けてはくれないか?…頼む」
我ながら女々しいな。一人の女性にここまで執心するとは。でもここで手紙すら断られればそれはそれで手が無いのだと、一応の踏ん切りも付けられる。受け取って貰えても返事が無ければ脈が無いのだとフラれた自覚が持てる。既に振られている身だ。二回もフラれれば流石に諦められる。かなり、そりゃもう、かなり引きずるだろうけど…!
その場で頭を下げた。主が簡単に頭を下げるなって口を酸っぱく言ってたのは兵庫頭だったな。でも下げるしか出来なかった。次郎三郎が動く気配があるが頭を下げているから見えない。恐らく兵庫頭に確認しているのかもしれない。
「次郎様、頭をお上げ下され。貴方様の頭はそんな軽いものでは無いと前にお伝え致しましたぞ」
兵庫頭の声が聞こえた。その声に下げていた頭を上げる。
「お手紙はお預かり致します。ですが返事を返すかどうかは直次第、ということでも構いませぬか?」
「届けてくれるか兵庫。次郎三郎も良いのか?」
俺が次郎三郎の方へ視線を移すと渋々といった様子だが一応次郎三郎も頷く。
「…父が申した通り、返事は直次第、それさえ飲んで頂ければ、ですが」
良し!少なくとも直殿に手渡してはもらえるってことだ。ここで断られたら熊谷家全体の総意だってことだが、受け取ってもらえるってことはつまり問題はやっぱり直殿にあるってことだ。それならまだ望みがあるかもしれん。これで返事がないならやはり俺が嫌われてるんだろう。それはそれでかなりショックだがいっそのこと手酷くフラれた方が踏ん切りも付く。
「それでいい。すまん。無理を押し付ける。今すぐ認めるから少し時間をくれ。一応、直殿の気持ちもあるだろう。もし返事を書く気になってくれる可能性があるなら5日待つ。それでも返事が無いならその時は縁が無かったのだと俺は引き下がる。それでどうだ?」
「臣下の身でありながら本当に申し訳ありません。にも関わらず過分なご配慮、誠に忝う御座います。熊谷家はこの縁談の良し悪しに拘わらず次郎様へ今後も尽くします…!」
そう言って熊谷親子が深く頭を下げた。とは言え本当は直殿を嫁に貰えるのが一番なんだけどなぁ。はぁ、本当に何でこうなった?いや、こうなりゃ出来ることを必死にこなして足掻けるだけ足掻こう。お袋(毛利美伊)の話に出てた縁談を蔑ろにしちまってるな。親父に好きにしろって言っては貰ってるが。
熊谷親子を一度退室させて筆を手に取る。とはいえ何て書こう。ラブレター、恋文。こんなこと書く戦国武将いるのか?いや、書かねばならん。直殿を射止める最後のチャンスだ。
何て書こう。ここは素直に相手に対する気持ちを、想いを書こう。
一五四六年 熊谷次郎三郎高直
最低限の仕事はこなせただろうか。今、私の手元には二つの紙があった。
一つは次郎様が妹の直へ認めた手紙、そしてもう一枚が、今回の件で熊谷家に害が及ばぬことを約した起請文だ。次郎様の手元には熊谷家が今後も次郎様、毛利家に忠誠を尽くす起請文を渡した。父と私が連名で書いたものだ。わざわざここまでして頂き恐縮するばかりだ。
正直、次郎様が相手ならこれだけの事はして貰えるかもしれぬ、便宜を引き出せる、という確信が無い訳では無かった。今回我等が取った行動は無礼だと非難され、次郎様が相手でなければ見初められたのだからと妹の直を差し出せと言われてもおかしくはない。そしてそれを拒絶するのも本来はあり得ぬことだ。
だが次郎様は身内には殊更優しく、そして気を遣われる。だからこそ直の事を盾にすれば身を引いてくれるのではないかと考えてしまった。そしてそこに付け込んでしまった。
今更ながら自己嫌悪に陥る。幼い頃より友のように接して下さった次郎様を妹可愛さに蔑ろにし、要望を断ってしまった。この手紙を届けるのはせめてもの罪滅ぼし、にもならぬであろうがここまでのことを熊谷家の為にさせてしまったのだ。今後も今まで以上に忠勤に励まねばならん。
「次郎三郎は手紙の内容を検めたか?」
「…はい」
城から出た後、馬に揺られて歩いていると、後ろを歩いていた父(熊谷信直)がそう零した。その言葉に同意の返事を返す。
次郎様の方から手紙の内容に問題がないかどうか確認しろと言われ、内容は事前に確認した。
あれほど真摯に、婚前の女性に対して気遣いをなされる手紙があるかと思わせられるほどの手紙だった。
あそこまで書いて頂きながら、それでも直と次郎様の願いが成就することはない。世の中とは何故こうも理不尽なのだろう。
次郎様がいつか言っていた。もし神や仏がいたとしても人をわざわざ救ったりはしない。神仏は人に嫌がらせしかしないものだと。そしてその嫌がらせは人が必ず跳ね返せる訳では無いと。
その時の私は神仏はお救い下さるものだと盲目的に信じていたから、次郎様の仰ることに同意は出来なかったが今にして思えばまさにその通りなのだと思う。
「不憫だ。娘も、そして次郎様も。直が心変わりしてくれれば良いのだがな…」
まさにその通りなのだが、難しいだろう。一番辛いのがその直なのだ。その直自身がこの縁談を拒んでいる。それでも、この手紙を読めば、あるいは。
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