熊谷直
一五四六年 熊谷直
結局、一睡も出来なかった。
次郎(吉川元春)様はもう帰ってしまったかな。
昨日の夜のことは、夢だったかもしれない。だってあたしなんかに夫婦になってくれ、なんて。あたしの目の前にいたのは本当に次郎様だったのかしら。そんなこと有り得ない。これはあたしの妄想だ、きっと。都合のいい妄想が夢になって出てきただけ。でも思い出すと頬がまた熱くなってきた。駄目、こんなことを考えていたって何の意味もない。でももし夢なら、夢の中でくらい次郎様と夫婦になりたかったな。…もう一度眠ろう。またその夢が見れるかもしれない。
そんな事を考えていると足音があたしの部屋に二つ近付いてきた。随分乱暴な足音だけど、きっと父上(熊谷信直)と兄上(熊谷高直)の足音だろう。その二人の足音が今聞こえるという事は恐らく、次郎様が帰ってしまったという事だ。少し残念な気持ちになる。
そして襖が襖が勢いよく開かれるとそこには案の定、次郎三郎兄上が、その後ろには父上が立っていた。
「おい、直。お前一体何をしたのだ」
そう言いながら兄上が険しい顔をして私の前に腰掛けた。続いて父上が兄上の隣に座る。普段は滅多に怒らない優しい兄上が珍しい。父上の表情は読み取れなかった。あたしはまだ寝着のまま着替えてすらいないのに。
それに何をしたって、何?何のことだか分からない。兄上は何を怒っているのかしら?
昨夜のことで寝不足で上手く頭が働かないのに。私が口を開かずに小さく右側に首を傾げそうになりしまったと思った。すぐに気付けたおかげで傾げる方向を左に出来た。二人には怪しまれなかったみたい。父は兄上に注意するように口を開いた。
「次郎三郎、落ち着け。それでは直が分からぬだろう」
心なしか父上は嬉しそうな声をしている様な気がする。それを見て兄上が呆れたような顔をすると再び口を開いた。
「帰り際に次郎様が仰った。直殿にもよろしく伝えてくれ。日を改めてまた来ると」
「!」
驚いた。昨日も驚いたけど、また驚いた。そのおかげで目が覚めた。やっぱり昨日のことは夢じゃなかったんだ!…でも喜んじゃ駄目。昨日次郎様に答えた返事が全てよ。
あたしが驚いていると兄上が言い募ってきた。
「お前、昨日次郎様にお会いしたのか?何を話した?」
「決まっておろう、次郎様はそなたを嫁にしたいということよ。でなければまた後日、日を改めて来るなどという訳が無いではないか。しかも直を名指しじゃぞ?」
私が答える前に父上がそう言った。そして我慢出来ないといった様子で今にも踊り出しそうなほどの満面の笑みを浮かべ始めた。最初、表情が伺えなかったのはこのだらしない顔が出ないように隠していたからだ。それを見た兄上が注意する。
「父上、あまり喜ばないで下さい。糠喜びですそれは。それに直を名指しした訳ではありません。ただよろしく伝えてくれと言われただけですよ」
「何を言うておる次郎三郎。ならばその後すぐにまた来るという訳なかろうが。あれは間違いなく直に会いに来ると言うておるに違いないわ」
あたしに事情を聞きに来たのだろうけどそのあたしをよそに今にも二人が言い争いでもしそうな雰囲気。正直もうあたしはうんざりだわ。普段は腫れ物を扱うようにあたしに接してくるくせに。あたしは次郎様の事を考えるだけで苦しいのに。
「煩い」
思わず思っていたことを口にしてしまった。言い争っていた二人がその言葉でぴたりと口を噤む。『すまん』『すまない』と二人があたしに神妙な顔をして謝った。少しいい気味だわ。あたしが頷くと兄上が改めて話し始めた。
「それで、父上はこう言っているが、もう一度聞く。実際に直は次郎様に会ったのか?」
「会いました」
我ながらぶっきらぼうな言い方だなと思う程だ。でも二人とも咎めないからきっと問題ない。そう言うと父上はまた嬉しそうな顔をした。逆に兄上は冷静だ。さらに言葉を重ねた。
「何を話した?」
早くあたしは寝たい。夢の続きを見る。とっとと終わらせたい。もう全部話してしまおう。あたしの妄想かもしれないけど知るもんか。
「会ったのは偶然です。私が夜更けに月見台へ行って月を眺めていたら、いつの間にか次郎様が居たのです。それで、次郎様が突然その場に座り込むと頭を下げて私に『夫婦になってくれ』と仰られました」
あたしがそう説明すると父上がほれ見たことか!と言わんばかりにまた笑顔になった。逆に兄上は天を仰いだ。
でもすぐに兄上は手で父上を制する。一応はそれで父上も喜びを抑えたようだけど明らかに嬉しいのが見て分かった。あたしが断ったの知ったらどうするつもりなのかしら。逆に兄上は険しい顔をしている。
あたしの気持ちを知っているからなんて答えたのか分かったんだ。ごめんね、兄上。
「それで、勿論直は同意したのだろう?昔からそなたは次郎様を好いて…」
父上の口にした言葉を聞いて途端に悲しくなってきた。涙が滲んできたような気がして、それを二人に知られたくなくて俯いた。
いつまでも治りそうにない傷に、更に塩を塗られた様なじくじくとした痛みが胸に走る。
「父上!…それ以上はお止め下さい」
その瞬間、兄上が父上に大きな声を出した。大きな声は一瞬だったがその大きな声に驚いた父上は口を塞ぐ。父上の言葉が止まったのを確認したのかその後再び兄上が話し始めた。
「直、済まなかったな、ありがとう。さ、父上、直は疲れたようです。もう行きましょう」
さっき大きな声を出したのが嘘のように柔らかな、優しい声で兄上がそう言う。小さく頷く。それが今あたしに出来る返事だった。
兄上はこれ以上あたしが話さなくても済むように、そしてあたしを気遣うように立ち上がり部屋から出ようと父上に声を掛けた。だが父上は納得した様子はない。
「いや、次郎三郎。まだ直は」
「私から話しますから。行きましょう」
更に言い募ろうとする父上を再び兄上が制してくれた。それで父上も何かを察したようでゆっくり立ち上がった。だがまだ納得している様子はない。ちらちらとあたしを見ているのが分かった。でもあたしは顔を上げられない。その様子を見て取ったのか父上も諦めたようだ。
「すまなかったな、直」
部屋を出る時に、父上の声がそう響いた。そして二人が部屋から出ていく。部屋はまた、あたしだけになった。
父上は次郎様を気に入っていた。小さな頃の次郎様の槍の稽古から始まり、次郎様が何かする度に父上が次郎様の面倒を見ていた。最初は大変そうだったけど、すぐに楽しそうにするようになった。
家に帰って来る度、父上は次郎様の話を良くあたしにしてくれた。その話を聞いている度、あたしより小さいのに頑張ってて可愛い、すごいって思った。最初はそれくらいだった。
実はあたしは次郎様に会ったことがある。まだ次郎様が元服する前、鶴寿丸様と呼ばれていた時の話。
当時あたしは七歳くらい。好奇心旺盛だったあたしは屋敷を抜け出して、吉田郡山城の城下町で一人で見て回っていた。母上や侍女に連れられて買い物をしたことがあるから、当時のあたしは一人で問題ないと思った。
でも色々なものを見て夢中になっている内に知らないところに来てしまい、迷ってしまった。
色々な町の人が声を掛けてくれたけど、当時のあたしは『人攫いがいるかもしれないから知らない人に声を掛けられたら大声で助けを呼びなさい』って教わっていたから、話し掛けてくれる人全員が怖い人に思えて、でも大声を出す勇気も無いから逃げ回った。
今思えば吉田郡山城はとても治安がいいから人攫いなんていないし、声を掛けてくれた町民たちも親切心から皆、声を掛けてくれたのだと分かるけど、当時はとにかく怖かった。
やみくもに逃げ回ったから更に道が分からなくて、途中で転んで膝を怪我して、とにかく心細くて、疲れて、動けなくなった。泣きながら物陰に隠れるしか出来なくてあたしはこのまま死んじゃうのかもしれないって思ったら本当に怖くて。
そんな時だった。
『大丈夫か?』
物陰に隠れていたからきっと誰にも気付かれないって思っていたのに急に声を掛けられて、また逃げようとした。でもその声が幼いことに気付いて、不思議に思って振り返ったら小さな男の子がニコニコして立っていた。
目付きは少し怖かったけど、笑顔が本当に印象的で可愛くて。それに見覚えのある家紋の入った着物を着ていたから、それを見たら安心して、安心したら力が抜けてその場に座り込んじゃって、涙がいっぱい出てその時のあたしはその場でわんわん泣いた。
そしたらその子があたしの頭をぎゅって抱きしめてくれて『怖くない、大丈夫だ』って言ってくれた。
小さい子なのにしっかりしてて、小さい手でぎゅって頭を抱きしめられると取っても頼もしくて、それがすごく大人に見えた。
あたしが泣き止むと今度は膝を怪我しているのに気付いてくれて、持っていた手拭いでその傷を覆ってくれて『これなら痛くないだろ』ってまたあの笑顔で笑ってくれて。それを見た瞬間にその子が大好きになった。
手を繋ぎながら屋敷の近くまで案内してくれた時は怖いなんてもう思わなくて、ただただその子と手を繋いでいることが嬉しくてたまらなかった。
その子は町のことに凄く詳しくて、あそこの屋台は美味いとか、ここの桶屋はいい桶を作るとか、あそこの反物屋は高いが綺麗な反物を扱っていて人気だとか、帰る道中も色々な事をあたしに教えてくれた。
でも屋敷が近付いてくるにつれて、家を抜け出したことが怒られるって思い出した。その小さい子にあたしが怒られてるところを見られたくなくて、家族にあたしが小さい子に助けられたことを知られたくなくて、その時は『もう大丈夫』って勝手に手を放して逃げるようにその子の元から去った。
案の定、家に帰ったら父上からも母上からも怒られたけど、あたしはその男の子と出会えたことが嬉しくて気にしていなかった。鶴寿丸と名乗ったその子が毛利家の次男だと知ったのはそれからすぐ後だ。
次郎様は当時のあたしが誰なのか知らない。次郎様にあたしは名乗るのを忘れていたし、迷子になって助けてもらった事を父上にも母上にも話さなかったから。もしかしたら次郎様自身もその時のことを覚えていないかもしれない。あたしより幼かったし。
だからきっとこの思い出はあたしだけのもの。あたしだけの秘密。
その日からあたしはいつかその子に嫁ぐんだって母上の手伝いを頑張って、その子に家を託されてもしっかり守れるように剣の腕を磨いて、頑張ったのに。
すぐ側に置いてある化粧箱の小さな引き出しをそっと開けた。中にはあの時膝に巻いてくれた手拭いが入っている。いつか返そうと思ってあたしが頑張って洗った次郎様の手拭い。結局返せずじまいであたしの手元に今もまだ残っている。
「痛っ」
不意に顔の右側が引き攣るように痛んだ。まるで思い出すなと言ってるみたいだった。あの日からあたしの生活はいっぺんに変わってしまった。
もう考えるのは止めよう。考えてたって辛いだけなんだから。化粧箱に手拭いを大事にしまうと、そのまままた掛けていた着物に顔を突っ伏す。涙が溢れてきた。
「次郎様…」
一五四六年 熊谷次郎三郎高直
「直が断っただと!?」
「父上、声が大きいです」
直の部屋から出た後に父上の部屋に行き、直が断っただろうという事を父に話した。予想通り父は信じられないと言いたげに目を見開いて驚いている。その声の大きさを咎めるとすぐに父は『すまん』と声を小さくした。船上ではよく響く父の声も普段使われてはまた直の耳に入り直を傷つけかねない。
「何故じゃ。直は次郎様を好いておったではないか」
「半ば父上が刷り込んだところもありますよね」
当時、父は幼い直に毎日のように次郎様の話をした。それこそおとぎ話のようにだ。父は次郎様を気に入り、直を次郎様の正室にしてもらおうと考えていたようだ。
母はそんな父の行動を、『あんたの狙い通りに行く訳が無い』と一笑に付していた。私も同感で、父の思い通りに行くはずがないと幼心ながらに思ったものだ。
だが私たちの予想を裏切り、直は父の努力の甲斐あって、父の想定した通りいつからか次郎様に嫁ぐことを夢見るようになっていた。
私がその事を指摘するが父はふんと鼻を鳴らした。
「儂は当時から次郎様の傅役としてすぐ側にいたのだ。いくらでも直を押せる立場にあった。それに次郎様も当時は満更でも無さそうだったのだ」
「それはあくまで父の主観でしょうに」
まあ、父の言わんとしていることも分からないでもない。熊谷家は安芸国の中でもそれなりに有力な家だ。父自身は次郎様に心酔しているが、勇猛で知られる熊谷家をしっかり味方に付けたいと当時の御隠居様(毛利元就)が思っていてもおかしくは無い筈。
もしかすれば父が押しに押せば次郎様も直を嫁に貰ってくれたかもしれない。
だがそれはもう今となっては夢のまた夢だ。私は直の気持ちを代弁するように言った。
「今の直は次郎様に嫁ぎたいと思ってはいません」
「何故じゃ。直は次郎様を好いており、次郎様も直に惚れた故に夫婦にとまで言ってくれたのだろう?」
駄目だ。父は自分の願いを優先し過ぎて直の気持ちに気付いてない。
私が自分の右側の顔を手で覆って父を見た。最初、父は何をしているのか分からなかったようだがすぐに察してくれたようだ。だが、まだ納得していない。
「…まさか。だが直はもう気にしておらぬと」
ああ、その直の言葉を鵜呑みにしていたのか。父は女心が分かっておらぬ。
「それは私たちに心配を掛けないように言った方便でしょう。嘘なのです、父上。直は女子なのです。気にしない筈がないでしょう」
私がそう言うと父が『うぬぬ…』と小さく唸った。まだ自分を納得させられていないのか、ちらちら私を見ている。私を見ても仕方ないでしょうに。
「駄目か?次郎様に正直に打ち明ければ」
「打ち明ければ確かに次郎様は気にしないと言うかもしれません。あの方はそういったところに頓着がありませんから」
「ならば」
立ち上がろうとする父を手で制した。今にも次郎様に打ち明けたそうだ。確かにそろそろ登城する時間だ。
「もし次郎様が受け入れなかったら如何致します。直は恐らく自害致しますよ」
私の言葉に父が驚愕する。
「そこまでか…?」
「直は今の自分が次郎様に相応しくないと考えているのです。そして今の自分では愛される訳が無い、嫌われると」
「そんなもの、分からぬではないか」
父が絞り出すような声が響く。
「分からない儘がいいのです、直は。少なくとも知られなければ直は嫌われずに済みます」
結局のところそこなのだ。直は次郎様に嫌われるのを恐れている。当然だ。
父に刷り込まれた想いとはいえ直にとって次郎様は愛する人なのだ。今でさえあの快闊だった直が部屋に引き籠もりっきりになってしまった。もしこれで本当に次郎様に拒絶されてしまえば直は本当に自分を害しかねない。
「…なればどうする。次郎様は直を知ってしまった。しかも直に惚れてしまったのだぞ」
漸く父も地に足が付いたようだ。私が悩んでいたことはまさにそこだった。
今や毛利家は大きくなった。勿論私たち家臣が毛利家を盛り立てて共に大きくなったが、そのせいで昔のように自由が利かないし、家臣同士の意思の統一も儘ならないだろう。
もしこの事が公になった時、次郎様の名に瑕が付く。しかもその名に瑕を付けるのは外でもない私たち熊谷家なのだ。
次郎様との良好な関係も崩れるだろうし、何様だと他の家臣達からも忌避されるようになるだろう。
しかも今は機が悪い。
次郎様にはまさに今、多くの縁談が舞い込んでいる。今回の件で熊谷家のおこぼれで縁談が纏まったなどと風潮されれば毛利家での居場所が無くなりかねない。少なくとも閑職に追いやられるのは間違いないのだ。
父もそこに考えが至ったのか顔が青ざめてきた。
「今ならばまだ話は私たちしか知りません。この後、登城した際に次郎様にお話しするしか無いでしょう。直は世俗に嫌気が差し、出家を考えていると言えば次郎様とて諦めてくれるはず」
「そこまでか、いや、そこまでせねばなるまいな。…まさか儂のせいで直を苦しめてしまう事になろうとは」
『すまん、すまん』と小さく悔い謝る父がいつもより小さく見えた。泣いているのかもしれない。
「直のことを思うなら決して直に謝ってはいけませんよ。あの子が更に傷付きます」
「…分かっておる。だが、あまりにも不憫だ」
鼻を啜る音と共に父が袖で目を拭った。父の泣く姿を初めて目にして私も何故だか泣きたくなった。不憫、確かに不憫だ。直の想いがせっかく成就したにもかかわらずそれが叶う事はない。
「参りましょう、父上。そろそろ城に行くお時間です」
「ああ、そうだな…」
城に行くことがこれ程気が重いのは初めてだ。だが直の為にもしっかりしなければ。




