誰かが侵入してきたようです
「広すぎる⋯⋯」
僕は、大浴場に浸かるとその広大な露天風呂を見渡して、つい言葉を漏らしてしまった。
本館にある大浴場は広大で、室内、露天共に開放感に満ちている。
かぽーん
と効果音が聞こえてきそうな浴場は、ここが日本の旅館だと言われても信じるだろう。
客は少なく、露天風呂に浸かる者は数人程度だ。
まだ時間が早いということも関係あるのかもしれないが、混み合うよりは断然良い。
それとも、やはり裸で見知らぬ人と風呂に入るということは、この世界の文化でも抵抗感があるのだろうか。
「エラリアの浴場にも行ったけど、あそこはスパみたいなものだったしなぁ」
僕は、エラリアで入った浴場のことを思い出す。貸し出される入浴用の肌着を着ることが義務付けられていたため、開放感という意味では物足りない。
それにしてもと、トナミカの町並みと海を見下ろしていると、かなり遠くへ来たなという実感が湧いてくる。
ここから馬車で3日の距離はなかなかに遠い。
距離にすれはおよそ200キロ程はあるだろう。
僕は一部囲いのない海を眺められる場所まで、石造りの浴場の湯船の中を歩いていく。
岩に手をついて身を乗り出すと、雄大な大海原が一望できた。
海から吹いてくる潮風が気持ちいい。
「二人とも、部屋で風呂に入ってるのかなぁ?」
僕がいる場所は勿論男湯だ。
しかし、イスカもフーシェも人前で肌を晒すのは気が引けるといって、大浴場には行かないという。
それならばと、部屋に客室露天風呂があることを知った僕は、女性陣には部屋で風呂を堪能してもらうことにして、僕の方は大浴場へと足を運んだのだ。
うーん、イスカと一緒に入れたら最高だけど、それは下心がすぎるよね。それに、フーシェもいるのだから女の子同士の方が気兼ねしないだろう。
──そろそろ1時間くらいのんびりしたし、上がるかな。
僕はザバッと最後に湯に浸かったあと、浴場を出るために立ち上がった。
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部屋に帰ると、イスカとフーシェも風呂を上がっており、蒸気させた顔で窓辺のリクライニングチェアーに座って、夕涼みをしていた。
二人とも浴衣に身を包み、イスカは髪を上げたうなじが色っぽい。
フーシェは切ってしまった髪のため、ショートカットの髪をサラサラと風になびかせている。
「お帰りなさい」
「ん。おかえり」
二人共、何かアイスキャンディーのような氷菓を口にしながら、とろんとした瞳で海を見つめている。
「なんだか、夢の世界にいるみたいです」
僕に取っては、この世界そのものが夢の世界の様に感じるのだが、この世界に住むイスカにとっても、このような宿は別世界のように感じてしまうのだろう。
その時、コンコンと部屋をノックする音が聞こえた。
僕が襖を開くと、そこには僕達を部屋に案内してくれた男性従業員が立っていた。
「ユズキ様、そろそろお食事の準備をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
うーん、昼に食べすぎたせいか、僕のお腹はそんなに空いていない。
もう少し待ってもらおうかな⋯⋯。
その思いは、後ろを振り向いて即座に却下することになった。
振り返れば、目を楽しみに輝かせている二人がいるのだもの。僕に断るなんてことはできない。
「──お願いします」
その声に、男性はにっこりと微笑む。
「かしこまりました。では、お隣の部屋で準備を致します。しばらくお時間を頂きますので、よろしければ先に食前酒をお持ち致しますが⋯⋯」
「はいっ!私、メニューにあった『深層清酒』というものを飲んでみたいです!」
うーん、なんだかイスカさんはまたも酒に飲まれそうだけど大丈夫だろうか?
そういった風に、僕達の夕食は始まろうとしていた。
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「も、もう食べられない」
「私も⋯⋯」
「ん。頑張った⋯⋯」
夕食を限界まで食べた僕達の感想はこれだった。
ちなみに、この部屋は大きく3部屋に分かれており、リビング、ダイニング、寝室と構成されている。寝室は、畳が敷き詰められており純和風。寝床も布団が並べられている。
リビングとダイニングは和洋折衷。特にダイニングには正座やあぐらに慣れていない客のために椅子とテーブルが設置されていた。
そこで、出てきた食事は想像を超えていた。
舟盛り、鍋料理の他にも小鉢が震え上がる程の量が揃えられており、肉料理の際は、わざわざシェフが部屋に料理台を運んできて目の前で鉄板焼きを作り始めるという手の入れようだ。
結論、美味しすぎた。
美味しすぎるために、残したくなかったのだ。
ただ、完食するには量がありすぎる。
僕の目の前では、テキパキと片付けをしていた先程の従業員が苦笑しながらこう言うのだ。
「まさか、食べ切られるとは驚きました。ここのお客様方は好きな物だけを選んで食べる方もいらっしゃれば、多様な好みがございますので、我々としても様々な食習慣に対応できるよう、予め食べきることを前提にしていない程の食事をお出ししているのです」
そんな料理を、必死になって食べてしまったのは貧乏臭いと思われるだろうか?
恥ずかしさで顔が真っ赤になったが、男性従業員は満面の笑みでこう答えてくれるのだ。
「残されて喜ぶ料理人はおりません。私もこのことが嬉しくて料理長に報告できますよ、お若いお客様方が完食されたって!」
その言葉を聞いて、僕達の方こそ嬉しくなる。
ちなみに、イスカは食事に夢中になったのでそこまでお酒を飲まず、フーシェは16歳になったばかりのためお酒は飲めず、もっぱら山葡萄の炭酸水が気に入って何杯もおかわりをしていた。
二人とも完食していたけれど、本当に凄いとしか言い表せられない。
こうして、ムラクモの食を堪能しつつ時は過ぎていくのだった。
そんな楽しくも苦しい夕食から時間は過ぎ、僕は今こっそりと、一人部屋の客室露天風呂に浸かっていた。
僕達は食事の後、吸い込まれるように布団へ移動すると、本当に沈み込むように眠りについてしまった。
太陽の光をふんだんに浴びた布団はフカフカで、雲に抱かれているような心地だった。睡眠魔法にかけられたかのように寝てしまうのも無理はない。
ただ、少し早めの就寝と隣に眠るフーシェから、ドカンと脇腹に寝相による蹴りをもらったお陰で目が一度覚めてしまえば、再び眠りにつくのは困難だった。
おまけに、最高級の布団で眠ったせいか目覚めがすこぶるに良い。
再び眠りにつく前に、どうせなら月見風呂と洒落込もうとリビングの隣にある客室露天風呂への入り口を開け、湯船に浸かりに来たのだ。
「ううっ」
少し乳白色の湯は、見た目とは異なり泉質はサラサラとしており心地よい。
思わず伸びをした僕は、天空に浮かぶ月を眺めて、地球じゃないだけあって、見えるクレーターの形も全然違うなとぼんやりと考えていた。
吹き付ける風は少し冷たく、まだ夏は遠いようだ。
トッ、トッ、トッ
突如、部屋の方から足音が聞こえた。
「──!?」
イスカか?フーシェか?
その足音に僕は、二人のどちらかが来たのではと心臓がドクンと早まるのを感じた。
二人とも熟睡していたのに、起きてしまったのだろうか?
──とりあえず、タオルは巻いている。よし。
僕は何となくソワソワとしてしまい、肩まで湯船の中に沈めた。
トッ、トッ、ガチャ
室内からここへ繋がる扉が開かれる。
「イスカ?フーシェ?」
⋯⋯
僕の問いに帰ってきたのは沈黙だった。
その沈黙が、恥じらいから来るものなのか?
いや、待てよ。
フーシェなら「ん。フーシェ」とか言いそうだ。
何も返答がないというのはイスカなのか?
僕は、紳士たる者として絶対に後ろを振り向かない。
いや、本当は振り返る勇気がないだけなんだけどね。
ドッドッドッと、高鳴る胸の鼓動は水中に響き渡っているのじゃないかと思ってしまう。
チャプ
僕の左側に、そっと白いほっそりとした足が湯船へと差し込まれた。
──やっぱりイスカなのか?
僕は誘惑に負けて、チラと左に視線を向けてしまった。
その眩しい足から少しずつ視線を上げると、太ももが露わになる。
しかし、その上はバスタオルを身に着けているのだから、さすがイスカさん。
──バスタオルなら安心か。
僕はイスカに声をかけるために顔を上げる。
そこには、バスタオルを身体に巻いた見知らぬ女性が恥ずかしそうに左手で胸元を押さえ、右手には⋯⋯え?鎌?
まるで死神が持っている、そうデスサイズと呼んでも差し支えのないような大鎌を携えて立っていた。
恥ずかしそうに立つ彼女に、僕は驚きから情けない顔をしてしまいこう言うのだ。
「え、誰?」
やっぱり、僕のゆっくり過ごしたいというフラグは、こうしていとも容易く壊されることとなるのだった。




