マーケティング継続中
今日もまた。殺風景なビルの一室で、マーケティング調査の仕事が始まる。
明智は、自分のふがいなさと、唐沢の怒気を含んだ口調に怯え、朝食もろくに喉を通らなかった。
出勤して、自分の席に座る。女性の上司からの説明があり、アンケート調査の内容や、タブレットの端末操作方法について、一通り教わった。
明智は、彼女が直属の上司ならば、どんなにか仕事がバラ色になるだろうと空想していた。
名札を見ると菊池とだけ書いてある。
やがて空想の中で、菊池は未来のお嫁さんになった。
不思議なことに空想中の表情は、仕事に集中しているような真剣な顔つきだったので、唐沢の目に留まることもなく時間が過ぎた。
さっそく、新しい電話帳が渡されて、作業に取り掛かる。
電話機のダイヤルは最大にしているのだが、明智には意味をなさない。
いくらボリュームを上げようが、相手の発音が不明瞭で聞き取れない。
明智の耳の聞こえなさは今に始まったことではない。
街中や電車の中では、何度も相手に聞き返していた。
どうやら世間では“感音性難聴”や“聴覚処理障害(APD)”と呼ぶものだとネットで知った。
しかし、健康診断の聴力測定では異常がないのが悩みの種でもある。
明智の訴えはいつも「気のせい」だと言われて、うやむやになる。
「こりゃダメだわ。耳が聞こえないって言うのはなんとかなねえのかよ」
「わしも原因が分からぬゆえ、ん十年も困っておる」
「音のうるさい作業場は、避けた方がいいみたいね」
「耳くそが溜まっているだけではないか。なーお」
他のパート社員が調査を完了する中、明智は中々結果を出せないでいた。
「話し方がまずいのだろうか」
悩みつつ彼は、声のトーンを高くしてみた。
「もしもし、マァーケェティーングちょおぁさの……」
「はぁ?! 」
裏声が出てしまい電話の相手がびっくりしてしまった。即電話を切られる。
今度は低音で攻めてみた。
「どなた、よく聞こえないんだけど」
慌てて普通の高さに戻すと
「あんた、ふざけてるのかい」と叱られて電話を切られた。
どうやら小手先のテクニックだけでは通用しないようだ。
「なんだろう、僕の心が試されているってことなんだろうか」
明智は今度は心の中で「お客様は神様です」と唱えながら電話番号を押した。
「ガチャ」
電話に出る前に切られた。神や仏はいないように感じられた。
「もう見てられねぇや。こりゃとっとと転職した方がいいんじゃねえの」
「人生は修行の場ゆえに、もう少し粘って欲しいんだが」
「登録制だからうまく潜り込めたけど、あんまり結果を出せないようじゃ居心地が悪くなるわ」
「だから生活保護にしろとあれ程。なーご」
明智が悪戦苦闘していると、菊池が近づいてきて助け船を出した。
「あなたの声は早口すぎるみたいね。もう少しゆっくりと話してみて」
「ああ、はい」
「それと、時々怒ったようなしゃべり方になるから気をつけてね」
どうやら彼女は、明智の特性に気づいたようでもある。
気を取り直して、電話番号を押す。なるべく落ち着いた言葉で丁寧に話してみる。
怒ったしゃべり方にならないように気をつける。
いきなりのガチャ切りはなく、相手もじっくりと回答しているようだ。
ところどころ、つっかえながらもマニュアル通りの質問を繰り返す。
ついに、最終質問までたどり着き、質問事項はすべて完了した。
「やったー! 」
明智は思わず声を上げた。
やってきたのは菊池ではなく、唐沢だった。
「完了したなら、完了ボタンを押した後、ここをクリックして閉じること。最後までやらんか」
結局最後は、怖い上司に怒られるオチだった。
「ちょいと光明が差してきたな」
「だが、怒りっぽい上司との折り合いが悪いゆえ、転職の可能性も十分あり得る」
「この成功体験が次に続けばいいけど」
「まぐれだまぐれ。なーご」
明智は少しやる気が出てきた。唐沢は怖いけど、次の成功体験をしてみたくなった。
自分の仕事に対して、少し本気で取り組みたくなった。




