マーケティングの仕事始動
そのオフィスは街の中心部に位置していた。
変哲のないビルの4階に、教室サイズの一室があり机が均一に並べられていた。
手元には電話機と小さなパソコンの端末のようなもの。いわゆるタブレットだ。
いつも大きい画面でパソコンを見ていた明智には小さな字はとても見づらいものだった。
「ここが新しい職場ね」
「拙者にはいまいちパソコンというものが分からぬ。これはテレビとどこが違うのだ」
「黙って見てろよ。明智が叱られたら失敗。褒められたら成功ってことだろ」
「経験上、褒められることはめったにない。なーご」
上司から説明があり、電化製品についてのアンケートを行う。
質問は多岐にわたり時間は20分もかかる。
このため、最後まで答えてくれる協力者が中々いないようだった。
質問内容はパソコンに内蔵されており、ペン状の器具でクリックして進む形式だった。
電話は電話帳から順番にかける。そのため各自、分厚い電話帳を渡された。
まず電話帳の指定された「な」行からダイヤルを押した。
「もしもし、@×▲※ですが」
コールして明智は気づいた。昔から人の声がよく聞こえなかったのだ。
電車の中や、雑踏の中で会話するのに困難を極めていた。
静かな場所なら普通に聞けるが、ここは職場で他者のコールの音が耳の聞き取りの邪魔をする。
「もしもし、どちらの方ですか」
電話は切られた。自分で電話しておいて尋ねるなんてイタズラだと思われたのだろう。
明智は上司を呼んだ。
「どうした」口調が怒っているように聞こえる。上司運の悪い男だ。
「電話がよく聞こえません」
「音量調節をすればいいだろう」
音量ダイヤルを大きくして電話を試みたが、聞こえづらさは変わらなかった。
明智は全てをあきらめた。
「もしもし、こちらはマーケティング調査の」
ガチャ。
すぐに切られることが続く。
中々アンケートに応じてくれる人がいない。
おまけにパソコンの字も小さくて見るのに苦労する。
いつの間にか棒状の器具の矢印が×印の所へ移動して、それをうっかりクリックしてしまった。
「すいません」
「なんだ」上司が不機嫌そうに答える。
「全部消えました」
上司は明智の机のそばへいくと、手際よく元の画面を復活させた。
「今度は気をつけろよ」
上司の言葉が終わるまで、明智はただただ怯えていた。
「相変わらず上司運の悪いやっちゃ」
「何せ彼は始終オドオドしている故、つい相手の語気が荒くなるのだと思える」
「見ててかわいそうだし、なんとかならないのかしら」
「叱られっぱなしで生きていた奴に、自信は育たない。なーご」
昼休み、パソコンの電源は切られ、周りが昼食を食べ始める。明智も弁当のふたを開けて茶を飲んだ。ソーセージに齧りついていると、隣の男と目があった。
「はじめまして」
「こ、こんにちは。ここ長いんですか」
「もう一年ぐらいになるかな」
「完了させるコツとかありますか」
「慣れだよ慣れ。最初は誰しも上手くいかないものさ」
「はあ」
ベテランの先輩の気楽さに比べて、自分はどうも重く受け止めすぎるような気がした。
「あの上司怖くないですか」
「えっ」
相手に驚かれたようだ。彼は別に気にもしてないらしい。
「唐沢さんね。ああいう口調なだけだよ」
「はあ」
昼食が終わり、また苦行の時間が始まる。
結論から言うと、明智は一件も終わらせることができなかった。
仕事に慣れていないと言うのもあるが、耳がよく聞こえないのが辛かった。
おまけに彼は、電話総数と進捗状況の総数の計算を間違えて、唐沢をあきれさせた。
「おまえは算数もできないのか」
「はい。すみません」
今回の仕事も暗雲が垂れこめているようだった。
「数字が並んでいるだけだと、間違って隣の行の数も足しちゃっているみたいね」
「今度から定規を当てて計算させるように閃かせよう」
「でも、今度のことでダメージ食らってるから、もう限界なんじゃねえのか」
「あとは明智次第。なーお」




