第110話「暗闇の中で……」★
「ぶはぁッ! ゲホッゲホッ!!」
泉の水底から水面へと顔を出し、激しく咳き込みながら荒い呼吸を繰り返す。
びちゃびちゃと血の混じった水を吐き出しながら、息も絶え絶えに必死になって泳いで岸に辿り着くと、地面に倒れ込んで全身を震わせた。
「はぁ……はぁ……はぁ……! こ、この楼桃汰様が……あんなクソガキに殺されかけるとは……ッ!」
だが、所詮はあの平凡な亜音の弟だ。
本人は本気で俺の命を刈り取る覚悟を決めたつもりだったのだろうが、僅かに急所を外していた。
おそらく一度も人を殺めたことがないだろう。頭や心臓に拳を打ち込めば即死だっただろうに、その甘ちゃん具合が仇になったというわけだ。
あのとき、俺は咄嗟に持っていたポーションに魔術のマークを付け、攻撃を喰らった瞬間に中身が口の中に流れ込むようにしていた。
さらには身体が泉の中に沈む前に、水面に小さなゲートを作って呼吸を確保し、水中でも息ができるようにしておいたおかげで、溺死を免れることが出来たというわけだ。
普通であればあの状況で生き延びるなんて不可能だっただろう。だが俺は違う。俺は特別な存在なのだ。
それでも水底まで死体を確認しに来られたらマズかったが、あの凡夫のクソガキはそこまで頭が回らなかったらしい。
加えて、直前の奴の攻撃で周辺一帯のモンスターたちが全て消し飛んでしまっていたのも僥倖だった。この状態で襲われていれば、相手が雑魚であれ確実に死んでいただろうからな。
運すら俺に味方している。
「し、しかし……。うぐ……ゴホッ!!」
咳き込むと同時に、大量の鮮血が口の中から噴き出し、ぼたぼたと地面に滴り落ちた。
奴の攻撃で一瞬意識を飛ばしてしまった影響で、ポーションを全て飲み干すことが出来なかったのだ。
死は免れたものの、依然として肋骨が何本も折れたままで、肺や内臓にも損傷を負っている。全身の火傷も未だに治らないままという瀕死の状態だった。
早く回復薬で治療しないとマズい。だが戦闘中に全て使い切ってしまったので手持ちはもうない。
「そ、そうだ……! 確か奴の次元収納袋を奪ったはずだ……!」
血まみれの手でワンパン野郎から奪った次元収納袋の中をまさぐると、低級ではあるがポーションの瓶を一本見つけ出すことができた。
慌てて蓋を開けて口に含もうとするが、あまりの痛みと貧血でぐらりと眩暈を感じ、そのまま倒れ込んでしまう。
瓶から零れ落ちたポーションは砂利に染み込んでいき、無情にも消えていった。
「か、身体がいうことを……! ば、馬鹿な……まさか、俺……が、こんなところで死ぬ……?」
徐々に全身の感覚が薄れていき、急速に意識が遠のいていく。
何か、他に何かないかと必死に奴の次元収納袋の中を探り続けると、白銀に輝く容器のようなものを見つけ出した。
蓋部分には、『オークション出品用。勝手に開けるな!』と書かれた紙が貼られている。
「オークション出品用? レアアイテムか!?」
震える手で蓋を外し、中にある物体を確認する。
そこには明らかにレアモノと思われる、大量の魔力が凝縮された黄金のイカのようなものが入っていた。
「食材か!? ちくしょう! 回復薬じゃねぇのかよッ!」
鑑定しないで食べ物系のアイテムを口にするのは危険を伴う行為である。下手をすれば毒などで即死する可能性もあるからだ。
だがもう一刻の猶予も許されない状況だ。それにオークション出品用として厳重に保管されていたということは、かなり価値のあるものなのは間違いない。
毒や呪いの類ではなく、パワーアップ系のアイテムである可能性が高いはず。少なくとも今の状態より悪くなるということは考えにくいだろう。
俺は覚悟を決めて、黄金のイカを勢いよく口に運んだ。
「っ! うおおおおぉぉ――ッッ!!!!」
それを食べた瞬間、全身を貫く熱い衝撃波のような快感に襲われ、体中に蓄積されていた疲れや負傷が嘘のように癒えていくのがわかった。
同時に今まで味わったことのない多幸感が全身を駆け巡り、絶頂を迎えたときのような甘美な感覚が脳髄を刺激する。
「は、はは……! 凄ぇ!! 俺は更なる高みに到達したってのか!? 素晴らしいぞォォ!!」
気が付けば、身体は完全に回復しており、全身に漲る活力と新しい力の気配に酔いしれる。
あの雑魚が持っていた以上、大した性能ではないと思っていたが……まさかこんなに価値のあるアイテムだったとは……!
まるで生まれ変わったかのような全能感だ。少し動くだけでも凄まじい柔軟性を感じられ、体操選手を遥かに凌駕する可動域を見せつけてくる。
しばらく恍惚とした表情でその場に佇んでいた俺だったが、すぐに冷静さを取り戻し、ふっと鼻で笑うと立ち上がった。
「あの野郎……! お前が大切に持っていたこの食材も、結局は俺を生かすための材料にしかならなかったってわけだ……!! こんなに美味しいレアモノを譲ってくれたんだ。礼ぐらいはしてやらねぇとなぁ……!」
もちろん、礼とはあの世で大切な姉と再会させてやることだが。
おそらく奴はセーフティエリアに向かったはずだ。血の跡が点々と続いているので、追うことは容易だろう。
俺は愉悦に満ちた笑みを浮かべると、喜び勇んで獲物の追跡を始める。
そうやってしばらく最深部を進んでいると――
『ジュルルッ! グジュルルッ!』
「ちっ、気色悪いやつが居やがるぜ……」
前方に巨大ななめくじのようなモンスターが蠢いているのが見えた。
醜い中年親父のような顔面と、ヌルヌルした粘液質な体表、それに全身から伸びるいくつもの触手。"人面ローパー"だ。
強さは自体は大したことないが、女を捕らえて苗床にするという醜悪極まりない習性を持っているし、見た目が最悪なので多くの探索者に嫌われているモンスター。
まあ、男に対しては直接的な害はないので放置しておいてもいい――
『グジュルルルッ!!』
「――なっ!?」
俺を見つけるや否や、奴は突如全身から触手を伸ばしてきたので、咄嗟に回避行動を取る。
「どうなってやがる!? なんで男の俺を襲ってくんだよッ!?」
『ジュルルルゥゥ~~ッッ!!』
聞く耳など持たず、執拗に触手で俺を絡め取ろうとしてくる人面ローパー。
くそったれ! 頭のイカれた特殊な個体か? こいつを素手で殴るのは気が引けるが、仕方ない。一撃で葬ってやる!!
右腕に魔力を収束させ、強烈な右ストレートを撃ち込もうとするが――
「ッ!? ま、魔力が練れない……だとッ!?」
どういうわけか、どれだけ集中しても魔力を練ることが出来ない。
なんだ? どうなってやがるッ!?
『グジュルルルゥゥッッ!!』
「ぐあぁぁぁぁ!?」
困惑している間に、触手に身体を絡め取られて身動きが取れなくなってしまう。
や、やばい! まさかあのイカを食べた副作用か!?
肉体が超人的に変化したことによって、一定時間魔術や魔力が使えなくなるのかもしれない!!
『ジュルルルルッッ♥』
「おぼぁぁーーーッッ!?」
人面ローパーは嬉しそうに鼻息を荒げると、ヌルヌルの表面で俺の全身を締めあげていく。
そして、大量の触手が一斉に伸びてきて、耳や鼻や口の中に侵入し始めると共に、凄まじい勢いで何かを注入してきた。
「あがぁッ!? や、やべろ……!!」
こ、こいつ! まさか俺を苗床にする気なのか!?
この俺が! こんな醜いだけの雑魚モンスターの餌食になるなんざ……有り得るはずが……ッ!
ま、ず、い……意識が朦朧としてきた……。
魔力が使えるようになるまであとどれくらいだ? 一時間? 二時間? それとも一日か? 早くしないと取り返しのつかないことになる!!
俺を拘束したまま、ずるずるとその巨大な身体を動かしてどこかに運んでいく人面ローパー。
やがて醜いモンスターは、薄暗い穴倉のような場所まで移動すると、その中へと俺を引き摺り込んでいく。
するとその先には……異様な光景が広がっていた。
『『『『『グジュルルルーーーーッッ!!』』』』』
暗闇の中に、いくつもの光る瞳と長い触手が見える。
一匹や二匹ではない。何十匹もの人面ローパーが、俺を歓迎するかのように大きな咆哮を上げていたのだ。
……た、耐えるんだ。ジョセフさんたちが助けに来るか、魔力が使えるようになるまで!
だが、もし仮に……何らかの原因でジョセフさんたちが助けに来なかったら? 魔力が一日やそこらで使えるようにならなかったら?
もし……誰も助けに来ないまま……海底神殿が沈んでしまったら……?
ゾっとする未来が頭をよぎる。
『グジュルル……』
醜いモンスターの群れは、異臭を放ちながらゆっくりと近づいてくると……数え切れないほどの触手をチロチロと舌舐めずりをするように突き出してくる。
「だ、誰か……誰か助けてくれぇ……」
暗闇の中で……俺の悲痛な叫び声だけが虚しく響き渡った。
黄金のイカの効果を忘れた人は、第094話「黒糸黒子」を確認しよう!




