40 自分にないもの
その日、ぼんやりとしながら何度目かのため息をつくと、ちょうど夕飯の下ごしらえを済ませた悠希くんに声をかけられた。
「今日は書かないんですか?」
「んー……」
だらしなくテレビの前で転がったまま、はっきりしない返事を返す。
「何かあったんですね?」
きっと悠希くんのことだから、最初から浮かない様子の私に気づいていたと思う。
だけど、すぐに聞き出すことはせず少し間をあけて話し出しやすいように、頃合いを見計らって声をかけてくれたんだろう。
私はやっと決心して体を起こすと、おずおずと口を開いた。
「あのね、悠希くん……。っ!」
呼びかけてハッと口に手を当てた。
「何でしょうか?」
そんな私ににっこりと笑顔を向けながら、とりあえず話を聞こうとしてくれる悠希くんに思わずホッとしてしまった。
あれから、ベッドの上ではしっかりと『悠希』と呼ばせる練習をさせられているけれど、普段の会話では今のところは大目に見てくれている……。だけど、彼のその笑顔がちょっと怖いのは内緒だ。ちなみに、まだちょっと心臓に悪いので私の名前も普段の会話では、今までどおりにしてもらっている。
まあ、今はそんなことより、私は気を取り直すとあらためて口を開いた。
「実はね、こっそり応募していた小説が落選しました……。わざわざ報告するような事でもないかもしれないけれど、一応、そういうことです……」
彼と再会してから書き上げた短編、物は試しと思って悠希くんにも内緒でこっそり応募してみたけど、あえなく落選してしまった。
「そうでしたか……」
気遣わしげな視線を送る悠希くんに、あわてて言葉を繋げる。
「た、確かに、ちょっとは残念な気持ちもあるけれど、あの短編は久しぶりに書けて良かったって思えた作品だったから、私の中ではそれだけで十分満足している気持ちの方が大きいの。だから、すごく落ち込んでいるとかじゃないんだけど……」
その気持ちにウソはないはずなのに、心にモヤモヤとしたものがかかっていてなかなか晴れないでいた。
すると、そんな私の顔をジッと見つめていた悠希くんが、少しおどろいたように目を見開いたので、何だろうと不思議に思った瞬間、頬にツーッとつたうものがあった。
「あれ……? 違うの、これは……」
自分でも気づかないうちに、いつの間にか涙が流れ出していた。
そんな私を悠希くんがすかさず抱き寄せてくれたけれど、何だか余計に涙が込み上げてきてしまった。
しばらく悠希くんがなだめるようにぽんぽんと背中を撫でてくれて、私はやっとモヤモヤとした思いをぽつぽつと吐き出していく。
「あの時の小説ね……。本当は、まったくのパクリじゃなかったの……」
「あの時というのは、もしかして大学の時の……?」
悠希くんの言葉に、コクンと小さくうなずいた。
「うん……。台詞の言い回しとか新しいエピソードの追加とか、話の構成も大胆に変わってた箇所もあって、私の書いた作品をすごく編集されたものが投稿されてたの……」
ずっと心の奥に仕舞い込んでいたとある思いが込み上げてきて、とうとうあふれだしてしまった。
「私が、書いた小説は……落選したのに……。沙織が編集した作品が出版社の目に止まったのが、すごく、悔しくて……。今回の短編も書けて良かったと思えたのは、本当なのに……。でも、何か自分にないものがあの子にはあって、結局、自分の書いたものじゃ、届かないのかなって思っちゃって……」
これまでもいくつも作品を応募したりしていた、中には1次選考を通過した作品もあったけれど結局、届かなかった……。あれは確かに自分が書いた物語だったのに、嫉妬心でぐちゃぐちゃになった感情が私をどうしようもなく蝕んでいく。
「僕はいつも朱里さんがそれに一生懸命向き合って、創り上げている姿を知っています。誰がどんな評価をつけようと、朱里さんの作品が素晴らしい物だという事には変わりはありません。僕がちゃんと見ていますからね」
きっと、こういう醜い感情はこれからもずっと消えずに抱えていくことになるんだろう……。
だけど、泣きながら悠希くんのかけてくれた言葉を、じっくりと反芻させていく。暗い感情に飲み込まれないように、彼が見ていてくれているのなら、これからも自分らしく書き続けていきたい、しゃんとした自分でありたいと願いながら。
悠希くんの腕の中で彼の鼓動を聞いていると、少しずつ落ち着きを取り戻していくことができた。やがて、ひとつ小さく息を吐きほんの少し身動ぐと悠希くんからソッと体を離した。
「何か、思わず泣いちゃって……ごめんね」
手の甲で涙を拭い、彼を見上げながらそう言った。
「朱里さんが謝ることなんて、いっこもないですよ。辛い思いを肩代わりしてあげることはできませんが、朱里さんが泣きたい時に、やっとこうやってそばにいることができて、良かったと思っています」
悠希くんの言葉に、たまらなくなってまた彼に抱きついてしまった。
彼に出会ってほんの少し頑張れる自分になれたような気がするけれど、そのぶん甘えたがりにもなってしまったような気がする。私の方が2コも年上なのに……。
「朱里さん?」
いつになくぎゅうぎゅうと抱きしめる私に、悠希くんが優しく声をかけてくる。
「ちょっと、充電中……」
「じゃあ、元気が出るおまじないでもしましょうかね」
悠希くんがそう言うと、ふいに私の顎をそっと持ち上げると身をかがめてキスをする。
「ちょっとは、元気が出ましたか?」
柔らかい笑顔でそう聞いてきた悠希くんに素直にコクンとうなづいたけれど、こういう時私はほんの少し複雑な気持ちにもなってしまう……。
だって、さっきまであれだけ落ち込んでいたはずなのに、悠希くんのキスひとつであっという間に元気になってしまうと、これまですごく悩んでいたのが何だったんだという気持ちにもなってくる……。
だけど、そのおかげで私はどんなことがあってもまた前を向いて歩き出せることに、心から感謝している。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼がしばらくジーッと私の顔を覗き込んできて、涙でちょっと腫れぼったくなった目元を指の腹で優しくなでると……。
「んー。まだ足りてないみたいなので、もっと充電しておきましょうね」
あれ? 何だか、前にもこれと似たような流れで、たくさんキスをされたことがあった気がする……。
けれど、それを思い出す前に悠希くんからの口づけで、私の頭の中は彼でいっぱいになるのだった。




