35 少しでも会いたくて
「伊藤。今日はもう帰っていいぞ」
時計の針も22時を回り、コーヒー片手に窓際でひと息ついていた織田課長から、ふいにそう声をかけられた。
「え? でも、せめてこの入力を今日中に済ませておかないと、このままじゃ初校出しに間に合いませんよ……」
いま手元に抱えている仕事の進捗状況を見る限り、ここしばらくは残業になる覚悟をしていた。
「大事な約束とかすっぽかしてないか?」
「いえ、特に予定は入れていませんが……」
織田課長にそう伝えるも、彼は窓の外を顎でクイッと向けたので、訝しげに思いつつとりあえず席を立って外を除いてみると……。
「ゆ……よ、吉沢さん?」
思わず名前を呼びそうになったけれど、課長の前なので寸前のところで苗字を口にしたものの、会社ビルから少し離れた位置に悠希くんが佇んでいてびっくりしてしまった。
仕事でここ数日帰りが遅くなることは事前に伝えており、ここのところ悠希くんの様子もおかしかったから、無理をしないように今週はお互いそれぞれの生活を優先しようと、一応、話し合って決めたはずなんだけど。
「あ、あの、織田課長、少し席を外しても……」
もしかして何か急用でも出来たのかと思い、そう言いながら課長に目配せすると、やれやれと言った顔つきで、無言で行って来いとばかりに手をヒラヒラさせた。
課長の厚意に甘えて、とりあえずスマホだけ手にしてあわてて会社を抜け出して悠希くんのもとへ駆け寄った。
「悠希くん! どうしたの? もしかして何かあった?」
小さく息を切らせながら彼に声をかけると、ほんの少しバツが悪そうな顔をして小さく答えた。
「いえ……お仕事の邪魔をしてすみません。ただ、少し顔を見れたらなと思って……」
その気持ちはありがたいけれど……。
「ごめんね、今日はまだ時間かかりそうだから帰りはタクシー拾って帰るし、悠希くんも明日まだお仕事なんだから、無理しないで早く帰って休んで」
悠希くんはいつだって私に合わせて時間を作ってくれようとしている、でも彼は自分の時間というものをちゃんと取れているのだろうかと心配しているのに……。
いつもの彼なら何だかんだ言いつつもちゃんと引き際は心得ているので、本当に仕事の邪魔になるような無理は通そうとはしないけれど、それでも今日はどこか諦めきれないような眼差しを向けてくるのだ。
悠希くんにそんな目をされると弱い私は、どうしようかとぐるぐる思い悩んでいると、ふいにスマホが鳴った。
『今日はもう上がっていいぞ。後は俺がやっとくから、心配するな。』
織田課長はただそれだけを言うと、私の返事も聞かずにプツッと通話が切れた。
困っている私を見かねてそう言ってくれたのだろうけど、だからといって上司に仕事を押し付けてしまっていいはずがない。
でも、どこか迷子になったような目をした悠希くんを、このまま帰してしまったら取り返しのつかないことになるような気がした。
「わかった。じゃあ、ちょっと来て!」
私は悠希くんの手を取って24時間営業のカフェに駆け込むと、ドリンクとフードを注文した。
「仕事が終わるまで、これ食べて暖かくして、待っててくれる? あと2時間……いや、1時間半で終わらせてくるから」
そう言うと、悠希くんは申し訳なさそうにしつつ、どこかホッとしたような表情も浮かべていた。
「無理を言って、申し訳ありません……」
「ううん。せめて、こうして待っててくれると、私も安心して頑張れるから。仕事が終わったらちゃんと話そうね」
ここ最近様子のおかしい悠希くんのことが気がかりではあったし、これまでちょこちょこ声をかけてはいたけれど、何も言わない彼に対して無理に聞き出すこともせず過ごしていた。
でも、この機会にちゃんと話し合おうと思った。
「はい……」
すると、悠希くんもやっと打ち明けることを決めてくれたのか、そう返してくれた。
そして、私は織田課長への差し入れも追加で注文して、一旦、会社に戻った。
「いいのか、彼氏ほったからして」
おそるおそる制作3課のフロアを除くと、いち早く気配を察した課長から声がかかる。
「ちゃんと話てきたので、大丈夫です。あの……ありがとうございました」
差し入れのホットドッグを献上すると、織田課長は「こんな時間に、重たいものを……」気が利かない奴だなという目つきをしながらも、ガザガザと包みを空けるとガブリと豪快にかぶりついた。
「ああいうタイプは、拗らせて根に持たれると面倒だからな」
織田課長がニヤリとしながら、ほんの少しからかうような口調でそう言った。
「か、彼は、そういう人ではないですから……」
私がそう言うと、織田課長がふいに真剣な顔つきになった。
「伊藤は貴重な人材だからな、彼がこれからのお前の妨げになるようだったら、俺も困る。いざという時は対応するからな」
仕事には厳しくても部下思いの上司である織田課長の言葉は、思わず胸にジーンときてしまった。
しかし、今は感動に浸っている余裕はないので、待っていてくれている悠希くんのためにも、猛然と仕事を片付けていくのだった。




