10 思いがけないカミングアウト
「……え?」
しばらくの沈黙のあと、彼が少し戸惑ったような声を上げた。
「あの……今、何て……」
だけど、さっきなけなしの勇気を振り絞ったばかりの私は、さすがにもうこれ以上、平然としてこの場にとどまる気力は残っていなかった。
「あ、私、ちょっとお手洗いに行ってくるね。あと、やっぱり迷惑かけるといけないから、実家に連絡して迎えに来てもらうよ」
せめて、いったんひとりで気持ちを落ち着ける時間が欲しくて、あわただしく待合室から出ていこうとしたけれど、後ろから吉沢くんに手首を掴まれて引き止められた。
「ま、待ってください。あの、これは……」
吉沢くんのどこか焦ったような声にも耳を貸さず、
「だ、大丈夫だから。ちょっとだけ時間ちょうだい……」
「いえ……! 何か、勘ちが……」
距離を取ろうとする私とそれを繋ぎとめようとする吉沢くんとの押し問答が何回か続き、
「あの、僕は、まだ……」
「今は離して、お願いっ……!」
とうとう吉沢くんの言葉をさえぎり、彼の手を強引に振り解こうと掴まれた手を引き戻そうとした時、それ以上の強い力で引っ張られてその反動でくるりと吉沢くんと向き合う格好になってしまった。
咄嗟に、身をよじって顔をそらせようとしたけれど、そんな私を逃がさないようにガシっと肩を掴まれると、有無を言わさず真正面を向かされ、吉沢くんと視線がぶつかった瞬間……。
「ぼ、僕はまだ、童◯ですからっ……!」
「……へ?」
突然のカミングアウトに、思わず涙が引っ込んだ目をパチパチと瞬かせてしまった。
「いえ、あの、違います。いや、違わないのですが……ですから、そんな状況が起こるはずがないということで、いや、世の中には様々な形の夫婦がいるので、断言は出来ませんが、あの、そうじゃなくて……ですから、とにかく、違うんです……」
しどろもどろの吉沢くん、こんなにテンパっている彼を見るのは初めてのことで、私も呆然として固まっていると、
「ああ、もう〜! 朱里さん、少し失礼しますっ!」
切羽詰まったような声を上げたと同時に、私は吉沢くんに抱き寄せられていた。
腰に回された手でグッと体を密着させられると、吉沢くんがマフラー越しに私の首元に顔をうずめて、
「あwdrgyじlp‘———っ!」
言葉にならない叫び声を上げると、一拍おいて彼が小さく息をついた気配がマフラー越しに伝わってきたかと思えば、スッと体が離された。
「いきなり、すみませんでした。少し、取り乱してしまいまして……」
やや落ち着きを取り戻した様子の吉沢くんだったけれど、一方の私は、わけも分からずいきなり抱きしめられて、心臓が壊れそうなくらいバクバクしたまま唖然としていた。
そんな状態にも関わらず、吉沢くんが今度は私の両手をギュッと握りしめたかと思えば、真剣な眼差しで見つめてきた。
「今から、しっかり説明するので、よく聞いてくださいね」
放心したまま、ただ黙ってそれにコクコクとうなずくことしか出来ない私……。
「では、僕はまだ『どくしん』です。ハイ!」
吉沢くんが力強くそう言ったあと、どこか訴えかけるような眼差しでジッと見つめてくるけど、すぐには意味が飲み込めず固まっていたら、もう一度、吉沢くんが繰り返した。
「僕は、まだ『独身』です。ハイッ!」
その『ハイッ!』の勢いに押されて、思わず復唱する。
「よ、吉沢くんは、まだ独身です……」
「よく出来ました。では、次」
――つ、次?
「出産里帰りしているのは、僕の姉です。ハイッ!」
「出産里帰りしているのは、吉沢くんのお姉さんです……」
「ちゃんと理解してくれましたか?」
「……ハイ。早トチリシテ、スミマセンデシタ……」
自分の勘違いだと分かった瞬間、色んな感情がドッと押し寄せてきて処理が追いつかずショート寸前の状態に陥ってしまった。
そんな私の様子に、吉沢くんがちょっぴり呆れたようなため息をついた。
「まったく、朱里さんのそのちょっと思い込みが激しいところも、変わりませんね。でも、そういうところも含めて僕は可愛いと……。いえ、そういうことはまたあとにして、次はもっと大事な……」
――ヴーッ、ヴーッ。
あらためて吉沢くんが何か言いかけようとしたタイミングで、今度は彼のスマホが鳴った。
一瞬、逡巡したような様子だったけれど、結局、大きなため息をついたあとコートの内ポケットからスマホを取り出した。
「はぁ……。父が到着したみたいなので、この話はまた今度あらためてお願いします」
その「また今度」という色々な解釈ができる言葉に頭を悩ませながらも、とりあえず今は無言でうなずくことしか出来なかった。




