自己犠牲
テントの内側に招き入れられた私は、たったひとつしかない椅子を勧められて困ってしまった。私が断ってもジェイクは座らないし、もちろん他の騎士たちも座らない。「王子の勧めを断るなんて」と責めるような騎士たちの視線が痛くて居心地悪く思っていたとき、エラールがもう一度私に椅子を勧めてくれたので、私は今度こそ座ることにした。
ジェイクはテーブルの上に地図を広げると、私のすぐ横に立って地図に指を落としながら説明を始めた。
「報せが届いたのは、ほんの一時間前だ。アルバロ王国とルシオ公国との武力衝突、知ってのとおり、最前線はルシオ公国のアラキア、その門の前だ」
私はうなずいた。アルフォンソが徴兵されて行ったのもそこだった。
「アルバロ軍は宣戦布告と同時に、ルシオの民を強制避難させながら街を壊し、アラキアまで進軍した。その理由が、アラキアの街の前に陣取ることでルシオの軍を閉じ込め、出口をひとつに絞ることだった。我々の目的はルシオ公国を攻め滅ぼすことではなく、ガイナッシュへの資金を止めて友好国セタンタを救うことだからだ。だが……」
ジェイクの顔が苦渋に染まる。見れば、周りの騎士たちも渋い顔でため息をついている。
「うちのバカ姉、もとい第一王女が少数精鋭の小隊を率いて突出、ルシオ公国軍をめちゃくちゃに蹴散らして大損害を与えてしまった。最後はルシオの英雄、ルカ・デ・ロスに単騎で攻撃を仕掛け、重傷を負わせてしまった……」
身体からスーッと熱が引いていく気がした。兄さんが、重傷……回復魔法の使い手だから、きっと大丈夫と頭ではわかっているけど、何事にも絶対は、ありえない。
「……兄は、どうなってしまったんでしょうか」
「すまないが、情報がない。ロス卿の回復魔法のおかげで、今まではどちらの軍にも死者が出ていなかったというのに、今回ばかりはもしかしたら……」
ジェイクの声が重くなっていく。私は胸の前でぎゅっと手を握った。喉が塞がったように苦しい。私は声を振り絞った。
「私、私は……、お願い、私を前線に行かせて! 支援魔法じゃ何の助けにもならないかもしれないけど、こんなことを聞いてじっとしていられない!」
「ダメだ、危険すぎる」
「止められても行くわ! 兄さんだけじゃない、あそこには父さんもアルフォンソもいるのよ!? 私を人質にしたんだから、もう戦う必要なんてなかったのに……あなたのお姉さんのせいで、私は家族を失わなくちゃいけないの!?」
ジェイクは言葉に詰まった。その表情に胸がズキリと痛むけど、それでも言わずにいられなかった。
「ルシオの国民はみんな巻き込まれただけだわ。ガイナッシュへの支援はしていたけど、まさかそのお金すら使い込んでセタンタを侵略するなんて、そんなことわかるわけないじゃない! 戦争を止めたいと言ったって、そんなの武力に訴えたあなたたちに言えたことじゃないんじゃないの? どうしてルールに則ってルシオ公国に訴えないの? それかガイナッシュを攻めれば良かったじゃない! 私たちを巻き込まないでよ! 私の家族を……奪わないで……!」
ポロポロと涙がこぼれた。そう、ずっと私は不満を内側に溜め込んでいた。戦争にアルフォンソを取られたことも、私の母さんのせいでセタンタが崩壊の危機だと言われたことも。
いきなり拐われてここに来て、逃げようとして死にかけたこともあった。いくら丁重に扱われようと、王子様に愛を囁かれようと、巻き込まれてひどい目にあったという事実と心のダメージは消えたりしない。
「ヴァレンティナ……すまない」
ジェイクの手が肩に置かれた。私はいやいやをするように首を横に振ることしかできなかった。
「謝っても何かが変わるわけじゃない。でも、謝らせてくれ。本当にすまない……。でも、お前を前線に行かせるわけにはいかない。俺を殴って気が済むならいくらでも殴れ」
その言葉に私は顔を上げた。いつの間にそこには私とジェイクだけになっていて、入り口の幕が下ろされたテントの中は薄暗かった。私を見下ろすジェイクの表情は変わらず苦悶に満ちていて、歪んでいる眉の下のダークブルーの目は怖いくらい真剣だった。
「なぁに、それ。殴れだなんて……」
「俺は真面目だ」
「ふふっ。バカみたい……」
思わず笑いが口をついて出た。だって、私がジェイクを殴っても、私の手が痛くなるだけで、ジェイクには何のダメージもないじゃない。
……本当はわかってるの。この戦争に関して、ジェイクには何の責任もないことくらい。もしあるとしたら、私を拐ってくるように指示したことくらい?
それでもやっぱり、ジェイクのお姉さんが兄さんに大怪我を負わせたことは事実で、その襲撃のせいでアルフォンソも怪我をしたかもしれなくて。魔法の心得のないアルフォンソはもしかしたら、死んでしまったかもしれなくて。
「うっ…兄さん……、アルフォンソ……!」
「ヴァレンティナ! 泣くな、ヴァレンティナ……、泣かないでくれ……。お前の涙は俺をおかしくしちまう。歯止めが効かなくなったら、俺は……!」
「ジェイク?」
ジェイクは私の腕を掴んで立たせると、正面から抱きしめてきた。鎧が当たって少し痛かったけど、今の私に必要なのは、確かにこの力強い抱擁だった。
「お前のためなら何でもできる……。俺にその涙を止めさせてくれ」
「嘘よ、そんなの。だって、私を行かせてくれないクセに」
「ああ。だから代わりに俺が行く。自分の目で現状を確かめてくる」
「……どういう意味?」
「ルシオに行ってくる。どうせ俺は王子と言っても妾腹の落ちこぼれだ、顔も知られてねぇし、一般人のフリすればどうにかなるだろ」
「まさか、武装を解いて行くつもりなの!? ありえない、無茶よ! 魔物だっているのに、あなただってわかってるでしょ!?」
ジェイクは見上げる私に、ニッと勝ち気な笑顔を見せた。本気なんだわ、このひと……。
「自殺行為よ! どうしてそこまでする必要があるの!?」
「それより他に前線の状況を知る術がねぇ。『情報寄越せ』と言ったところで素直にもらえるわけねぇし、将軍の俺が動いたら命令違反で処分されちまうからな、どうせ鎧は脱いで行くしかなかったんだ、最初から」
「違うでしょ? 私が言ってるのは、どうしてあなたが危険を冒してまで私のために動こうとするのかよ! 戦争は嫌いだけど、あなたに傷ついてほしいわけじゃない。たとえ家族を失っても、だからってあなたに死んで償ってほしいわけじゃない! そんなの、わかるでしょ……」
私はジェイクの胸を叩いた。鎧のせいで私の手が痛いだけで、ジェイクにはちっとも響かない。ほら、私の思ったとおり。
「愛してる、ヴァレンティナ」
優しい声と眼差しが、私の上に降ってくる。こんなの卑怯よ、ガサツな黒騎士のクセに、こんなに甘い顔ができるなんて。私をからかうように、挑発するように見下ろしていたクセに!
「私は、愛してないわ……!」
「ははっ! そんな顔して言われる『愛してない』なら、それで充分だぜ!」
死にに行くようなものなのに、ジェイクは満足そうに笑う。彼を止めることはきっとできない……、ううん、私がそう望んでいる。ジェイクが行って、アルフォンソの無事を確かめてくれることを願ってしまっているんだ。
「ジェイク……! お願い、無事に帰ってきて。無理そうなら、途中で引き返してきてくれていいから」
「任せろ、俺はラッキーなんだ。なんたってここまで生き残ってきたんだからな!」
「……バカね」
ジェイクの日焼けした頬に指を滑らせると、その手に彼の手が重ねられた。もう片方で私の顎を下から持ち上げて。遠慮がちに近づいてくる顔は、まるで怖がっているような、懇願するような光を目にたたえていた。
吐息の漏れる音さえ聞こえる静寂の中、鼻と鼻がじゃれつくように触れ合って、私はゆっくり瞼を閉じた。




