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奪われた唇

 見張りなしに自由にできる時間はあまりない。まず私は部屋をぜんぶ開け、鞄になるものを探した。幸運なことに小さめのキッチンの中に欲しい物がぜんぶ揃っていた。肩掛け鞄、パンやチーズの持ち運べる食べ物、それにワインの瓶。


 私は瓶の中身を流しにひっくり返して、代わりに水瓶の水を入れた。ついでに水も飲んでおく。ナイフに塩に、タオルももらっておこう、最後はベッド脇のランタンを掴んで準備はできた。


「覆い付きだなんて、ラッキー!」


 思わず声が出ていた。どうして覆いがあるほうがいいかっていうと、それは見つかりやすさの問題と関係がある。明かりがないと目の前が見えないけど、明かりをつけていると遠くからすごく目立つの。だから覆いを絞って光の量や向きを調節できれば、すごく便利なのよね。


「……『太陽を崇めよ(デヴォーション)』、『活力付与(エイド)』、『沈黙の場(サイレンス)』!」


 得意の支援(バフ)魔法を自分自身にかける。まずは名前のとおり太陽の位置を知る『太陽を崇めよ(デヴォーション)』、使いどころは難しいけど、これで方角がわかる。


 それと体力を向上させる定番の魔法、『活力付与(エイド)』と、それから足音を消すために『沈黙の場(サイレンス)』をかける。これでしばらく声が出せなくなったけど、代わりに逃げるのには有利になったハズ。


 このキャンプが森の中にあるのはわかっている。アルバロとの緩衝地帯にあるこの森と、私のいたカントの街との位置関係、それにさっきの『太陽を崇めよ(デヴォーション)』で知った朝日の方角を加味すると、私が取るべきだいたいのルートがわかる。


 真っ暗な森を覗き込むと、身体が震えた。怖い……でも、私はここから逃げ出さなくちゃ。アルフォンソたちのためにも。


 ランタンを手に覚悟を決めて森へと入り込んだ私だったけど、ようやく夜明けを迎えるかという頃、猿の魔物に追い立てられて人生で最大のピンチを迎えていた。


「もうっ、しつこい!」


 森猿(フォレストエイプ)は低級の魔物で、攻撃力やHP(生命力)は大して高くない。けど、集団で行動するのと、素早さとバイ菌を持った不潔な爪が危険なの。今私が相手をしているのは、"ハグレモノ"と呼ばれる群れから離れた個体で、そのぶん他のフォレストエイプより凶悪だ。


 私が得意なのは支援系の魔法だけど、火をつけるための『火花(スパーク)』なら少しはダメージがいく。まぁ、それもフォレストエイプの体毛によって防がれちゃうから、虚仮威しにしかならないんだけど、さすがに鼻面に当てれば退散するはず。そう読んで、何度も『火花(スパーク)』を放っているんだけど、この"ハグレモノ"本当にしつこい!


「ギィイ!!」

「あっ……!」


 フォレストエイプの長い手が伸びてきて、私の左腕を引っ掻いた。ブラウスが裂けて血が出る。私は腕を押さえてさらに走った。でも、地面はでこぼこで木の枝が無数に突き出すの森の中、ここを縄張りにする魔物から逃げるのは難しい。一度ここまで迫られてしまったら、もう……!


「あっ!」


 疲れと痛みと混乱のうちに、私は何かに足を取られて転んでいた。ガチャン、と嫌な音がしてランタンの明かりが消えた。


「い、嫌っ! 来ないで!」

「シャアッ!」

「……『火花(スパーク)』!」


 私の放った魔法は、フォレストエイプの頬をかすめただけだった。フォレストエイプは怯まず、黄色い不潔な歯を剥き出しに、そのまま私に向かってくる。


 今のが最後のMP(魔力)だったのに。身体から力が抜けていく。ああ、もう、これで終わりなんだ……アルフォンソ……最期にひと目、あなたに会いたかった……。


 ぎゅっと目を閉じるのと、叫び声が聞こえるのは同時だった。


「伏せてろ! 『風の刃エアリアル・スラッシュ』!」

「ギヒィィィ!」


 頬に感じる駆け抜けていく突風とフォレストエイプの断末魔の声、そして何かが地面に倒れる音。


「ヴァレンティナ! 大丈夫か!?」


 抱き起こしてくれる力強い手も、私の名を呼ぶ声も、アルフォンソのものではない。うっすら差し込む光の中、ジェイクの赤い髪がまるで炎のようだった。こんな見た目で剣士なのに、あなたってば風魔法の使い手なのね。ちょっと面白い。


「しっかりしろ、ヴァレンティナ。……魔力切れを起こしてるのか?」


 ジェイクの問いかけ。私はもうそれにに応えることもできなかった。視界が霞んでいく。生命力も魔力もともに生命を維持するための大きな要素で、それが尽きたら死んでしまうのが当たり前で。だから私はフォレストエイプ相手に大きな賭けに出て、結果として魔物も倒せず自分の魔力さえ振り絞ってしまって、あとはもう死んでいくだけ。


 ルシオ公国まであと少しだったのに、こんなところで、敵の腕の中で死ぬことになるなんてね。ごめんなさい、アルフォンソ。ごめんなさい、兄さん、父さん、母さん……。


「おい! 勝手に死ぬな! クソッ、とんでもないお転婆だなアンタは……」


 なんだか悪口が聞こえる。ジェイクはまだ続けて何か言っているけど、その部分は小さすぎて聞き取れなかった。遠くでエラールの声もする。


「いけません、ジェンキンス様!」

「うるせぇ! 古の盟約を結ぶ、汝、運命の乙女よ、我と魂をわかつ伴侶たれ……!」


 急に上を向かされたかと思うと、唇に温かいものが触れた。かと思うと、口の中にまでぬるっとしたものが入ってきた。これは、まさかジェイクの舌……? そう気づいた瞬間、身体の奥底から熱いものが湧き出てきて、私はとっさにジェイクを突き飛ばしていた。


「嫌っ!」

「おっと、どうやら上手く行ったみたいだな」


 おどけたようにジェイクは笑って、私の腕と後頭部を手で抱え込んで、さらに深くキスしてきた。今度は振り払おうにも押し返そうにも、変な風に抱きしめられて抵抗できなかった。初めてだったのに! アルフォンソにもまだ捧げてなかった唇をこんな形で奪われるなんて!


 悔しくて涙がこぼれた。どうにかして離れようと身をよじるうち、はずみでジェイクの舌を思い切り噛んでしまった。


「っ! いてて……」


 口の中に広がり鼻まで立ち上ってくる僅かな鉄臭。その気持ち悪さにウッと息が詰まる。吐くほどではないし、ペッとするのも行儀が悪いけど……。


「魔力、回復しただろ? もう動けるはずだ。ま、当たり前か、こんだけ元気だもんな」

「魔力を回復……。あなたが? どうやって?」

「アルバロに伝わる古い盟約さ。知っててよかったぜ」

「…………」


 ジェイクは何事もないように笑っているけど、その言葉に含まれる意味はきっと重い。第三王子とはいえ、アルバロの支配者階級の人間が、他国の者と簡単に盟約だの契約だの結んでいいはずがない。


 生命を助けてもらったことはありがたいけど、もしかして、私はとんでもないことに巻き込まれてしまったのかもしれない……。


「ヴァレンティナ・デ・ロス」

「……何ですか、ジェンキンス殿下」


 名前を呼ばれて、私はおそるおそるジェイクの顔を見上げた。赤い髪にダークブルーの目をした敵国の若い王子は、最初と変わらずどこかやんちゃな顔をしていて、今もニヤッとした笑みを浮かべて私を見ている。


「俺の女になれ、ヴァレンティナ。見せかけだけじゃなく、本当の意味でモノになってくれ」

「なっ、あ、あなたねぇ……!」

「ジェンキンス様!? 何を考えてらっしゃるんですか!」


 私が問い詰めるより先に、エラールがジェイクに詰め寄ってお説教を始めてしまったので、何となくウヤムヤになってしまった。


「俺は本気だからな。考えておいてくれよ」


 ジェイクはそう言うけど、私は……。


 キスされた唇が腫れたように熱くて、私はそっと袖口で拭った。ジェイクの目を思い出して顔まで熱くなってくる。無理やりされたのに、なぜか後ろめたくて、私はこっそりため息をついた。

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