婚約者の浮気相手が来ない理由を彼女だけが知っている
ホレス家で開かれた舞踏会には沢山の貴族たちが参加していた。今日ここでソフィア・フリートウッド伯爵令嬢とエリオット・ホレス侯爵子息の婚約が公にされる。
エリオット・ホレスがしきりに時計を気にしていることを、ソフィアは気付いていた。その理由が何であるのかについても。
20時になった瞬間、エリオットがにやりと笑ってソフィアを見た。それなりに整った顔立ちであるのに、邪悪さをまざまざと感じさせる表情だった。
「ソフィア・フリートウッド! お前との婚約を破棄する!」
エリオットはソフィアに人差し指を突き付け、叫んだ。先ほどまで賑やかだった舞踏会の会場が一気に静まり返るほど、大きな声だった。皆が二人に注目している。
非常に不愉快な時報だとソフィアは思った。
蒼いドレスを着ていた彼女は、無風にたゆたう水面のような、静かな表情でエリオットの顔を見返していた。
まるで動揺していないソフィアをの表情を、エリオットは訝しんだ。
「エリオット様、何故婚約を破棄したいなどと仰るのですか」
声は静かだったが、会場の隅々まで、よく通る声だった。エリオットは嘲笑するように鼻を鳴らす。
「所詮この結婚は両親が決めたことに過ぎない。僕はどうしても救ってやらなければならない人に出会ってしまった。彼女は僕にしか救い出せない……。だからお前との婚約は破棄して、彼女と……ルビー・ウラノスと結婚する」
集まった貴族たちがざわつき始めていた。それはエリオットが一方的に婚約破棄を突き付けたからかも知れないし、「ウラノス」という姓が、この国の公爵家のものと一致していたからかも知れない。
やはりそう来たか、とソフィアはため息をついた。彼が婚約破棄しようとしていることは既に知っていた。けれど、まさか本当に、この場所を選んでくるとは。
もう彼は後戻りは出来ない。
「エリオット様、両親が勝手に決めたことと仰いますが、この場が用意されるまで、二年近くの歳月を要しました。それまで私たちの両親が資金と精神を切り詰めながら、漕ぎつけたのがこの婚約なのです。分かっておいでですか。」
「お前のそういう細かいところが気に入らないんだ!」
エリオットは脊髄反射的に叫んだ。ソフィアの言動は別に細かいこととは言えない。婚約破棄をするのであれば、既に当人同士の問題だけでは無いのだから、むしろ必ず考えねばならないことだった。
「お前は本当に可愛げが無いし、口うるさい。僕に『勉強しろ』と指図もしてくる。それに、いつも無表情で笑わないし、人形に喋っているようだ。そもそも、我が侯爵家とお前の伯爵家では家格が吊り合っていない。我が侯爵家は保有する財産が国内有数。経済レベルの格差は必ず結婚してからもズレを生む。もっと良い相手を探すのがお互いのためというものだ」
エリオットは更にソフィアに対して悪口を連ねた。
非常に一方的で、そしてソフィアの顔に泥を塗るような言動だった。
ここはエリオットの実家であり、ホレス家に縁のある貴族が多く参加している。彼の両親は絶大な財を成した侯爵家だ。こんな理由でも、彼に味方してくれる人は沢山いるだろう。これまでの経験でも、彼が他の貴族たちから頭を下げられているのはよく見た。それが彼を増長させる一因になっていたのかもしれない。
確かに貴族の格はホレス家の方が上だった。
しかし流石にこの婚約破棄はエリオットの独断だったらしく、彼の両親の方に目を向けると、あたふたと挙動不審になっている。
「分かっているぞ、ソフィア。お前はこれまでに掛かった費用の心配をしているのだろう。だが僕には確かな財源があるから問題ない」
彼のいう【確かな財源】というのは、お金持ちの両親に集ることなのか、それとも他の何かなのか。
「それで、あなたが愛してしまったルビー・ウラノスという人物はそんなに素晴らしいのですか?」
ソフィアは一応聞いてみた。エリオットは下品な笑顔を浮かべた。おおよそ彼がルビーの何を想像しているか、予想がついた。
「ああ。彼女は品があり、優しく、愛嬌もある。それに何より、公爵令嬢だ」
再び周りがざわついた。やはりウラノスというのは公爵の姓だったようだ、と。
エリオットの話によると、ルビーは複雑な家庭環境の中に育ったらしい。彼女が小さい頃に実母が死に、継母と義妹がやって来た。家族は義妹ばかりを可愛がり、ルビーは不遇な扱いを受けていた。
社交界に出ることも許されず、貴族社会では彼女のことを知る人は殆ど居ない。
その上、彼女には、望まぬ人物との縁談さえ持ち上がっているのだという。
そんな苦しみの中、彼女が出会ったのがエリオットだった。ルビーにとってエリオットは救世主のような存在で、二人は一瞬で恋に落ちた。
「だから僕は、彼女を救わなければならない。俺は真実の愛を貫かなければならいないんだ!」
エリオットは握りこぶしを作って力説する。
「それに彼女は淑女としてだけではない! 商売のセンスもあるんだ! 例えば――」
「例えばルビーは市場の整備と組合の育成を通じて、ある町の税収を倍増させた」
ソフィアが急にエリオットの言葉を奪って続けた。エリオットは驚きに目を見開き、ソフィアを見つめる。
「ソフィア、何故それを……_?」
「私のことは良いですから、続けて下さい」
「そ、それに彼女は博識で、隣国のタルク語を話すことが出来、通っている学校で……」
「トップの成績を取り続け、修士の称号を取る予定。経営学と魔法科学を主に学んでいる」
エリオットの目に不安の色がはっきりと浮かんだ。ソフィアは一歩、彼に詰め寄った。
「彼女の年齢は20歳。小麦色の肌に深紅の瞳。身長は163センチ体重は52キロ。(自称)」
「なっ……!」
ソフィアは更に距離を詰めていく。
「好きなのは花を育てることで、その中でも一番のお気に入りはピンクのゼラニウム」
エリオットはソフィアが詰め寄るたびに一歩後退する。
「そして彼女はある店で働いていた」
ソフィアは歩を速め、壁際にエリオットを追い詰めた。既にエリオットの表情には怯えが混じっている。ソフィアは構わず、彼の耳元に口を近づけ、囁いた。
「店の名前は『サカヅキ亭』」
サカヅキ亭は酒場であるが、ただの酒場ではない。薄手の布を纏った踊り子が働いており、下心に溢れた男たちが通う店である。
彼女の口から酒場の名前が飛び出すと、エリオットの目が再び驚きで見開かれた。
「お、お前、どうしてそこまで……!」
ソフィアは彼から身体を離すとにっこりと微笑んだ。
「私はその人物をよく知っておりますわ。だって、その店は……」
*******
ソフィアは隣国タルクと国境を接する地域に領地を持つ、フリートウッド伯爵家の長女として生まれた。
小さい頃のソフィアは好奇心旺盛で、とにかく様々なものに興味を持った。彼女はいつも庭先で駆けまわったり、魔法の練習をしていた。
両親との関係が冷え切っていたことも、彼女のアウトドア志向に拍車をかけていた。
そんな彼女にとって、屋敷の外の世界は何よりも興味を惹かれるものだった。けれど彼女の両親は厳しく、外に連れて行ってもらえることはほとんど無かった。
12歳の時、どうしても外に行きたかった彼女は、いつも一緒に庭いじりをしている庭師に「外へ連れて行ってください」と頭を下げた。
ダラスというその庭師は二つ返事で了承する。しかしこの男も相当適当な人物で、普段も酒を飲みながら仕事をしているありさまだった。
そんな彼の選ぶ場所がまともなところであるはずもない。ダラスがいつも行っている酒場へ、ついでにソフィアを連れて行っただけだった。
しかし、これがソフィアの運命を180度変えることになる。
その酒場は屋敷の裏手、路地の入り組んだ場所にあった。薄暗く汚い道も、塀の上を歩く猫も、目に映るもの全てが新鮮で、ソフィアはキョロキョロと周りを見回した。こんなに心が浮つくのは、彼女にとって初めての経験だった。
そんなソフィアが最も心を惹かれたものが、酒場の中にあった。いや、居たというべきだろう。
それが踊り子だった。
彼女たちの踊りは、ソフィアの目を釘付けにした。踊り子は煌びやかな布を身にまとい、激しく身体を震わせていた。生命力を濃縮させたような踊り。観客たちの熱狂。
「自分も踊りたい」という欲求が、ソフィアの心の底から付き上がった。いつも嫌々やらされている舞踏とは明らかに違う。速く、激しい動き。たった一人のダンスが、観客達を熱狂させている。その事実がソフィアには何より魅力的に映った。
……その踊りがダンスがベリーダンスと呼ばれるもので、男たちがスケベ心から熱狂しているのだと彼女が知るのは、少し後のことである。
ちなみに庭師がソフィアを連れ出したことは直ぐにバレて、彼は3か月の減給処分となった。ソフィアがいきなり「ベリーダンスを習いたい」と父親に懇願したためである。
時は経ち、ソフィアは19歳になり、王立学院に通っていた。
婚約の話が来たのはこの時だった。相手はエリオット・ホレスという侯爵家の嫡男。しかしその婚約者は、知れば知るほどげんなりするような人物だった。
エリオットは遊び歩いているばかりで、領地経営などは親にまかせっきり。偶然にもソフィアと同じ王立学院の同級生として通っていた(それまで面識は無かったが)。
その王立学院は王国中の秀才が集まる場所だった。しかし、エリオットはどうやら入学も進級も親の金の力によって果たしているらしく、勉強の話をしても、全くかみ合わないどころか、初歩的な計算さえ怪しいようだった。
ホレス家は非常に広大な領地を持つ侯爵家で、貿易を生業としている。そこの跡目である彼が、このありさまでは悲惨なことになる。
だからソフィアは何かにつけ、彼に勉強するよう助言したのだが、ただ嫌われるだけの結果となった。
ソフィアとしてもこんな相手との結婚は是非とも遠慮したかったのだが、彼女の両親は縁談を強行した。彼らにとって、ソフィアの気持ちよりも、侯爵家とのパイプを作る方が、遥かに重要だったのだ。
彼女としては遺憾だったが、実家を出られるのは悪いことではないとも考えていた。家族はソフィアに無関心であり、邪魔者扱いをしていた。
それならば、結婚して家を出た方が良い。これが運命ならば仕方がない。フリートウッド家の娘としての責務を果たそうと思った。
しかしエリオットのとの関係は婚姻前であるのに冷え切っていた。
顔合わせにお茶会をしても、全くソフィアの方を見ようともしない。どうやらエリオットは彼女の性格だけでなく、容姿も気に入らないらしかった。幾ら話しかけても生返事だけで、聞いているのか聞いていないのか分からない。
そんな状態では愛を育むどころか、関係性を築くことすら出来ない。
彼の両親は一応エリオットに注意しているが、どうやら甘やかされて育てられたらしく、全く両親の言うことを聞く気配が無かった。
これと結婚生活を送るのかと思うと、ソフィアは再度げんなりせざるを得なかった。
そんな彼女が、唯一ストレスを発散できる場所があった。寄宿舎近くにある【サカヅキ亭】という酒場だった。酒場といっても酒を飲みに行くわけではない。
踊るのである。
あの12歳の時、胸に秘めたベリーダンスを踊りたいという欲求は、両親から怒られても、外出を禁じられても消えなかった。
幸運にも、彼女を世話していたルクラという使用人が、踊りの経験者だった。彼女はタルク人で、タルクはベリーダンスの本場だったのだ。
ソフィアはお小遣いを全てをルクラに捧げ、ベリーダンスの習得に励んだ。そして18歳になり、寄宿生活になった彼女は長年の夢を叶えることにした。
つまり、踊り子として、観客の前で踊るのだ。
幼いころから練習に励んでいた彼女の踊りは、既に洗練されたものになっていた。彼女が踊れば、たちまち酒場は拍手で溢れ、賞賛の声を浴びた。
この頃になるとソフィアも、男たちがどのような気持ちでダンスを鑑賞しているか知っていた。それでも踊ることの高揚感は何物にも代えがたく、その時だけは嫌なことも全て忘れることが出来た。
ただソフィアは仮にも伯爵令嬢。学園にバレれば即停学、最悪の場合退学の可能性もある。
そこで、ソフィアは酒場でアルバイトをする時は変装することにしていた。
また、ソフィアには心強い味方も出来た。イアン・スターレットという青年で、彼は騎士団長を志しており、明るく、話しやすい人物だった。
たまたま彼女が酒場へ働きに出ていることを知ったイアンは、「心配だから」と、付いてきてくれるようになったのだ。
当初、ソフィアは失礼にも、彼がスケベ心で酒場に赴いているのだと考えていた。しかし、何度も話しているうち、イアンが本当に彼女のことを心配してくれていることに気付いたのだった。
勿論彼も学園にバレるわけにはいかないため、いつも仮面を被って酒場に来ていた。余計目立つのでは、とソフィアは思っていたのだが。
変装の甲斐あって、ソフィアが伯爵令嬢だと気付く者は従業員を含め誰も居なかった。
ある日、いつものようにダンスを披露して、何気なく客席の方に目を向けた時。彼女の目はある一点に釘付けになっていた。
動きを止めてしまう程驚いた。
そこに居たのが、自分の婚約者である、エリオット・ホレスだったからだ。
一瞬、肝が冷えたものの、ソフィアは平静を装い、ダンスを再開した。今は変装している。自分の姿は普段と全く異なって映っているのだと思い直した。
それに、エリオットがこんな場所に来ることは、そこまで問題では無いとも考えていた。
踊り子として働いていた彼女は「男は皆スケベである」という結論に達していた。別に婚約者がこういう場所に来ることくらいは、許容範囲と考えたのだ。そもそも、踊り子として働いている自分が、そこに来る婚約者をとがめる資格などない。
本当に「来ることくらい」だったらの話だが……。
話は一旦、婚約破棄の場に戻る。
*******
「だってその店は……」
「黙れ!」
エリオットの叫びが、楽器の音をより良く響かせる作りの会場に、よく反響した。
「今日、この場にルビーを呼んでいる。僕の話は彼女が全て証明してくれるんだ!」
ソフィアはエリオットの顔を凝視したまま大きくため息をついた。
「そうですか。それで、そのルビー嬢とやらはどこにいらっしゃるのですか?」
「今呼んでやるさ。お前に真実の愛とは何かを思い知らせてやる! さあ、出ておいで、ルビー!」
エリオットはルビー嬢を受け入れようとするかのように、両手を広げて見せた。
しかし誰も出てこない。会場に居る貴族たちはどこに件のルビーが居るのかと、前後左右を見回しているが、該当人物はどこにも居ないうようだ。
「ルビー! どこに居るんだ? 出ておいで!」
エリオットは更に大きな声で叫ぶ。しかし出てこない。出てくるはずがないのだ。
「ルビー! 早く出て来い! 俺に恥をかかせる気か!」
既に彼の声から余裕は消え去っていた。愛しい人に呼びかけるどころか、完全に怒鳴ってしまっている。
「彼女、来ないと思いますよ」
ソフィアは静かに言った。
「そんなわけはない!」
エリオットは薙ぎ払うように手を振って否定した。額には大粒の汗が浮いている。
「いいえ、来ません。だって、私こそが、そのルビー・ウラノス公爵令嬢本人ですもの」
「だからそれは……。ソフィア、お前今、何と言った?」
怒りと焦りに任せて怒鳴っていたエリオットの目が、皿のように丸くなった。
「ですから、あなたが真実の愛の相手とか仰っているルビー・ウラノスという女性は、変装した私だったと言っているのです」
「う、嘘をつくな!」
エリオットは一拍の後怒鳴った。不安を覆い隠そうとしているかのような、高い声だった。
「そんなわけがない! だいたい、顔が全く違うではないか! 体型や肌の色だって、変装でどうにか出来るようなものでは……」
徐々に、エリオットの顔から色が無くなっていく。彼は今、全く信じられないものを見ていた。
先ほどまで、確かに目の前に立っているのはソフィア・フリートウッド、彼の婚約者だった。しかし、いつの間にか、それはいつも彼が通っていた酒場で話しかけていた、ルビー・ウラノスの顔に変わっていたのだ。
話はソフィアが働いている酒場に、エリオットがやって来た日に遡る。
*******
あの日エリオットは、踊り終えたソフィアに対し、熱心にアプローチを掛けてきた。この店ではお金を払えば踊り子と話を出来るシステムが存在する。
とはいえ、ソフィアこれまで店長に断って、遠慮させてもらっていた。ただ踊ることが目的であり、お金を稼ぐことは考えていなかったからだ。
しかし、今回のエリオットの要求は受けてみることにした。彼が何を話すのか、そして、ひょっとして自分に気付けるのではと気になったからだ。
しかしソフィアの予想は外れた。目いっぱい悪い方に外れていた。
エリオットはソフィアの身体をじろじろと見ながら、卑猥な言葉を何度も投げかけてきたのだ。
口にするのも憚られる言葉ばかりで、ソフィアは唖然とした。それだけでなく、身体をベタベタ触ってこようとした。
「ここはそういう店ではありません」と店長が何度も注意したのだが、エリオットはかなりしつこかった。
あまりに強引なところを、イアンが強めに注意してくれ、ようやく収まった。……エリオットは憮然としていたが。
まさか彼が婚約者以外(と思っている)の女性に、しかも嫌がる行為を強要しようとするとは。エリオットに対する失望はどんどん膨らんでいった。
しかし話はそこで終わらなかった。
彼は毎日のように酒場へ通うようになったのだ。店長の話では、ソフィアが休みの日は他の踊り子にも馴れ馴れしく話しかけているらしいのだが、本命はソフィア(の変装した姿)だったようで、彼女が居る時は必ず指名した。
そして、そこからのエリオットの言動は、更にソフィアの失望の底を貫通してきた。
最初の方はしょうもない自慢話ばかりだった。それにもうんざりしていたのだが、彼の話はそこから、婚約者、つまりソフィアの悪口へと移って行った。
いや、悪口などと可愛いものではない。
「あいつには可愛げが無い」ならまだしも「顔が平民顔」だの、「体つきが貧相で好みではない」など、容姿を罵られることには、ソフィアも拳を振り上げそうになった。
それだけでなく「あいつには教養も無い」「ダンスが下手」「茶会の時もマナーが全くなっていない」など、事実無根のことも多分に含まれていた。
絶対、ここ以外でも言いふらしているに違いないと感じさせる、饒舌さであった。
腹は立ったが、ここまでならソフィアも穏便に済ませようと思っていた。相手の両親に事を伝え、静かに婚約を破棄するのだ。
しかし彼女を復讐に突き動かしたのは、エリオットのある企みだった。
「僕と一緒にならないか?」
唐突に吐かれたその言葉は、踊り終えたばかりのソフィアの表情を強張らせた。
エリオットはその日、酒を飲んでいなかった。素面で重婚の提案をしているのだ。
「でもエリオット様には婚約している人が居らっしゃるのでしょう?」
ソフィアはそれとなく窘める。
「まあ勿論直ぐに、とはいかない。然るべき手順を踏んだ後にだな」
エリオットはソフィアの肩を引き寄せながら言った。普段なら注意するところだが、今はそれどころではない。
「然るべき手順とは何です?」
「子供さ」
「子供?」
「父さんも母さんも、欲しいのは世継ぎだろう。つまりソフィアが世継ぎを産めば、後はもう要らない。適当な罪をでっち上げて、実家に帰ってもらうつもりだ」
聞いた瞬間、沸騰するように怒りが込み上げてきた。しかし、後ろでイアンが今にも剣を抜きかける殺気と金属音がして、逆に冷静になった。
ソフィアは手でイアンを押し留めながら、自身は落ち着くため、一度息を大きく吸った。
「けれど、そんなことをすれば残された子供が可愛そうなのでは」
「構わないさ。子供なんて乳母に預けていれば勝手に育つだろう」
結果的に、そこがエリオットのポイント・オブ・ノーリターン(引き返し不可能地点)となった。
この男は子供を産ませるだけ産ませて、自分を捨てようとしている。人を物扱いしているだけでなく、母親と子供を無理やり引き離そうとしている。
人としてやってはならないことを、全てやってのけようとしているかのようだった。
こうして彼女は復讐を決意した。
エリオットが帰った後、イアンは「今すぐにでも事実を話して婚約を破棄すべきだ」と主張したが、ソフィアには別の考えがあった。
もっと、効果的にエリオットをに復讐する手がある。
その期日に選んだのが、この婚約を公にする舞踏会の日だったのだ。
そして話はもう一度、婚約破棄の場へと戻っていく。
*******
「こんにちは。ルビー・ウラノスと申します」
ルビーはエリオットへ一度、そして会場の貴族たちへ一度、お辞儀した。「ルビー」とは、ソフィアが踊り子として働く際に使っていた偽名であったのだ。
「エリオット様、そのルビーという女性は、こういう顔ではありませんでしたか?」
エリオットは混乱と恐怖で尻もちをつきそうになった。取り乱しているエリオットに、ソフィア、いや、ルビーは笑った。いつも酒場で見る、優しい笑顔だった。それがエリオットが感じる不気味さを倍増させていた。
「ど、どういうことだ」
「あなたは私の話を何一つ聞いていないのですね」
顔を撫でるようにすると、ルビーだった顔が再びソフィアのものに戻った。
「ひっ!」
エリオットは甲高い悲鳴を上げて後ずさった。ソフィアは鋭い視線をエリオットに向け続けている。
「私は変身魔法が使えるのです。魔法科学を学ぶうちに習得したのだと、お茶会の時にも話したことがあるではありませんか」
しかしエリオットは鯉のように口を大きく開けているだけで、何も言おうとしなかった。いや、想定外のことが起き過ぎて言葉を発せないのだろう。
ソフィアは復讐を決意してから、エリオットに舞踏会の日、婚約を破棄して欲しいと懇願した。
「そんな女となんて早く婚約破棄をして、私と結婚して欲しい」と。
そのために彼女はルビー・ウラノスという悲劇の公爵令嬢を演じあげた。そして、いかにエリオットが自分にとっての救世主であるかを熱弁。
また婚約破棄の際、侯爵家が本来ソフィアに払うべき慰謝料を、自分が肩代わり出来るのだということを、ルビーは強調した。
「今じゃなきゃ嫌だ」「今でなければ私は他の人と結婚することになってしまう」と、機会損失を煽ったりもした。
すると最初は渋っていたエリオットも、段々と乗り気になってきて、ついには婚約破棄を決意し、この場に至ったのだった。取り返しのつかない事態になるとも知らず。
「そ、そんな、その魔法は体型も変えられるのか……?」
エリオットはソフィアの身体をじろじろと眺めまわしながら言った。相変わらず嫌な視線である。
「変えられますが、ルビーの時も基本的に体型は変えていませんでしたよ。私、着痩せするタイプなもので」
その瞬間、エリオットの青かった顔が急激に赤くなってきた。
「騙したな!」
エリオットは必死に叫ぶ。
「お前、僕に話しかけられているのを知っていながら、ずっと騙していたんだな! これは重大な背信行為だぞ!」
「背信はどちらですか」
ソフィアの声はエリオットの叫びを制するほど鋭かった。
「あなたは私と婚約をしていた身でありながら、他の女性とも婚姻しようとしていた。そして私に無実の罪を被せ、子供を作らせた上で離縁させようとしていました。それだけではありません。あなたはルビー以外にも粉をかけていた女性が沢山居たようですね。少し密偵を雇って調査したら、まあ出るわ出るわ……」
「う、嘘だ! 僕はそんなこと……それにお前は……」
エリオットは叫ぶが、声に先程までの力がない。
「だいたい、こんな大勢の前で婚約者の悪口を叫び散らしたり、罪をでっち上げようとしたりする人と、一緒になりたい人なんていませんよ」
「そ、それはお前だって、あんなところに……!」
ソフィアが踊り子をしていたことを言おうとしたのだろうが、するとエリオットは踊り子を口説いて、騙された大馬鹿者という烙印を押される。だから言えないのだろう。
ソフィアとしては、言ってもらっても特に問題はなかった。もうこんな所に用は無いし、ここに集まった貴族たちにどう思われようと構わないからだ。
「残念ながらあなたが私を陥れようとしていたことを証明する人は沢山居ます。気付かなかったでしょうが、エリオット様がルビーと話している時、あなたの言動を記録していた人が居ます。ご希望とあれば、一言一句正しく開示することも出来ますが」
「そ、そんなの、幾らでもでっち上げられるだろ!」
人の罪をでっち上げようとしていた癖に、よくそんなことが言えるものだ。ソフィアは少し感心した。
「その記録をした人物が、我が国の王族の方だとしても、同じことが言えるのですか?」
「は? お前は何をとち狂ったことを……」
その時、会場から背の高い青年がゆっくり歩いてきた。いつもソフィアと一緒に酒場に来ていたイアンだった。
「お前は、いつもの……」
彼はいつも酒場に行く時と同じく、仮面を着けていたため、エリオットもその存在に気付いたようだ。
エリオットはイアンを睨みつける。
彼は私たちの前まで来ると、徐ろに仮面を取った。
先ほどまでイアンを睨んでいたはずのエリオットの顔がサッと青くなった。いや、青を通り越して灰色になっていた。
「彼はイアン……というのは仮の名前。本当はルーカス・オルレアンローズという、この国の第三王子です」
今度こそエリオットは尻餅をついた。
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イアンもとい、ルーカス・オルレアンローズは、第一王子、第二王子とは腹違いの第三王子だった。彼の存在は秘匿されており、その出生を知る者は、王宮内でも限られていた。権力争いに利用されるのを避けるためだった。
彼の母親には権力欲も野望もなく、ただ息子に、健やかに自由に育ってくれることを願っていたようだ。
やがて物心のついたルーカスは騎士団長を志す。王位など回ってくるはずもないと思っていた彼は、武道の鍛錬に明け暮れていた。しかし教養は必要だという両親の判断で、18歳までは貴族学校、18歳から王立学院に通った。正体を隠し、イアン・スターレットとして。
そして王立学園で、ルーカスはソフィアと出会った。
ソフィアは非常に芯が強く、いつもは知的で冷静な令嬢だった。しかし時に見せる笑顔が花のように愛らしく、いつの間にか彼はソフィアに惹かれていった。
彼女に付いて酒場に赴いていたのも、踊り子として、酒の入る場で働く彼女の身を案じてのことだった。
ソフィアがベリーダンスを踊る姿を見たいという願望も持っていたが、その願望はほんの少し、本当にほんの少しに過ぎないのだと、ルーカスは自分に言い聞かせていた。
それはさておき、ルーカスが第三王子であることを公表したのは、新一年生を迎える、入学式の時だった。
在校生の代表として挨拶をしたイアン(ルーカス)が、突然自分が第三王子であることを明かしたのだ。
騎士団への入隊が決まって、「もう権力争いに利用されることはないだろう」という両親の判断だった。それに騎士団に入隊することで、どちらにせよ身分を証す必要が出てくるため、それに先んじて公表するという狙いもあったそうだ。
イアンの、いや、ルーカスの正体の暴露には皆が驚いていた。勿論、同じ学校に通っていたエリオットもそれを見ている。そのため、ルーカスが仮面を取った時、あのような反応になったのだった。
こうしてソフィアとエリオットの婚約は破棄されることとなった。
元々、この婚約は商才の無いエリオットに、商才と領地経営の実績を持つソフィアを嫁がせることで、ホレス侯爵家の領地経営を安定させることが目的だった。実は、広大な領地を持つ侯爵家だが、最近の経営は赤字続きであり、エリオットの両親は危機感を抱いていた。
だからこそ、懇願してソフィアを迎え入れようとしていたのだ。
それなのに、エリオットは彼女をないがしろにするどころか、重大な裏切り行為を働いた。エリオットはホレス侯爵家を勘当されて追い出され、次期当主は彼の妹に婿を取らせることで決定したらしい。
あの舞踏会には大物貴族も沢山いた。そこで醜態を晒したということで、幾らエリオットに甘い彼の両親といえど、責任を取らせざるを得なくなったようだ。
*******
あれから数年の時が流れていた。
屋敷のテラスで、ソフィアはルーカスと向かい合って座っていた。今日は騎士団の仕事は非番だった。
ルーカスは決まって、そういった日はソフィアとともに過ごす時間をとても大切にしてくれた。
「あれからまだ手紙は来るのか?」
ルーカスが優しく聞く。
「はい。エリオットもしつこいですね」
ソフィアは頷き、庭の方に目を向けた。花壇にはピンク色のゼラニウムが沢山咲いている。ソフィアが好きだというのを聞いたルーカスが植えてくれたのだ。
「実家を勘当されて、相当困窮しているのだろう」
ソフィアとルーカスが結婚した後も、エリオットからの手紙が届き続けた。婚約中は一度だって手紙など寄越したことのない彼なのだが。
手紙の内容は「あの時の発言を撤回したい。許してほしい」「よりを戻してほしい」など、懇願する内容ばかりである。
困窮と言えば、ソフィアの実家であるフリートウッド伯爵家についても当てはまる。ソフィアは結婚前、領地経営に携わっていた。彼女の経営センスは群を抜いており、それ故伯爵家は安定した収益を得られていた。それに胡坐をかいて、彼女の家族たちは散財を重ねていた。
ソフィアが実家を離れても豪遊癖は治らず、税収は徐々に減ってきて、今大変に困窮しているのだという。
長い間ソフィアを冷遇し続けた報いだろう。
ソフィアは思考を実家からエリオットの方に切り替えた。
「彼も往生際が悪いですね。もっと早く、ルビーが私だと気付くチャンスは幾らでもあったのに」
ルビーとしてエリオットと接している時、彼女は体重や身長、学校で学んでいることや、家族構成など、いろいろな情報を彼に与えた。その情報は、殆ど全て、ソフィアのパーソナルな情報そのものだったのだ。
一つの街の税収を倍増させたというのもそうであるし、修士の称号を取得しようとしているのも本当だった。
違ったのは公爵令嬢ということくらいだろう。
それでもエリオットは気付けなかったのだから、文字通りの意味で救いようがなかった。
「でも、彼が鈍いお陰で俺は君と結婚することが出来た」
ルーカスは対面に座るソフィアの手を握った。夕暮れに輝く麦のような髪に翡翠色の瞳。春の日差しに照らされ、神秘的な陰影を持つ彼の整った顔立ちは、騎士団長というより、洗練された彫像のようでさえあった。
「そうですね。私もエリオットのお陰で私もあなたと結婚出来て、とても幸せです。ひょっとしたら彼は恋のキューピッドだったのかも」
ソフィアたちは二人して笑った。
エリオットは手に負えないアホで、これと結婚するのかと絶望していたが、この幸せのきっかけとなってくれたことだけは感謝している。
ソフィアはルーカスの手を握り返しながら、そう思った。
花壇ではゼラニウムが、そよ風にゆらゆらと揺れていた。
おわり




