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家康くんは史実通りに動いてくれません!  作者: 永遠の28さい
第八章:なにわの夢に消えゆく
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97.小牧長久手の戦い(後編)

二話連続投稿の二話目です。

今話でも登場人物が多いです。



 天正12年4月10日、小牧山城に帰還した徳川家康は留守居の本多忠勝から状況報告を聞いた。


「動きはあったか?」


「は、羽柴軍一万ほどが南に向け進軍致しましたが、別動隊の敗残兵を受け入れると楽田城へと撤退致しました。以外の動きはありませぬ。」


「そうか…此方は永井伝八郎が池田恒興を討ち取る大功を挙げたぞ。」


「其は祝着至極!…これで羽柴軍の士気は大きく下がりましょうぞ!」


 忠勝は手を叩いて喜んだ。しかし家康の後をついて来た本多正重は難しい表情をして話に割り込んだ。


「喜ぶのはまだ早う御座る。…殿、東農に兵を差し向けましょうぞ。美濃国主討死で動揺している今が攻め時に御座います。」


 家康は頷き、藤林保正を呼んだ。


「知立の後詰隊に居る遠山利景に兵一千を与え、美濃明知城を攻めよと申せ。城を落とせば己の物として良いと申せば士気も上がるじゃろう。次に設楽郡飯田城の菅沼定利に岩村城を攻める様指示を出せ。その後は木曾谷に向かい木曾義昌に東農に侵攻する様申し伝えよ。」


 保正は短い返事の後に走り去っていく。その様子を目で追った正重は安心したように肩で息を吐いた。


「これで羽柴秀吉は美濃を静める為に暫く動けぬでしょう。……しかし、中納言様のあの喜びようは何で御座いましょうか。」


 正重は目で織田信雄を指し示した。信雄は家臣らの担ぐ腰に乗って羽柴軍との戦勝をはしゃぐ様に喜んでいた。


「放っておけ。この程度の勝利で喜んでいる様では、当主の器としては真に頼り無きじゃ。…儂の本当の狙いを知れば、如何に己がお飾りであるのかを思い知る事になろう。…まあ、中納言様は知る事も無かろうがな。」


 不敵な笑みで信雄を見やった家康は戦に参加した兵らに休息を指示すると城の中に入って行った。



 一方、負けた羽柴秀吉の方は不機嫌極まりなかった。頭を垂れる甥の信吉を前にして苛立ちを隠せずにいた。本当ならば羽柴の名を汚したとして罰したいところであったが、士気にも関わる事と自重し、労いの言葉を掛けて退出させた。

 秀吉は「美濃の動揺を収めるべき」と言う堀秀政の意見を聞き入れ、秀政に三千の兵を与え、美濃に向かわせた。そして何やら書状を書き始めた。


「おのれ家康…儂と対等に戦おうとは以ての外じゃ!貴様が奪い取った領地に儂自ら調略してくれるわ!」


 秀吉は怒り収まらずといった表情で筆を走らせた。


 4月17日、家康の命を受けた遠山利景が東農の明知城を攻略する。その後岩村城を攻める菅沼定利の支援に向かわせたが、此処で思わぬ情報が家康にもたらされた。

 木曾義昌が羽柴秀吉に鞍替えしたのだ。家康は直ぐに遠山、菅沼隊に木曾郡の妻籠城に兵を差し向ける様指示を出すも、既に義昌は迎撃の体勢を整えており、妻籠城攻めは返り討ちに会う結果となり、同隊を撤退させた。これで、東農諸城を攻略し羽柴秀吉の後方を脅かす策は失敗となった。



 5月に入り、羽柴軍の動きが再開する。秀吉は自ら二万の兵を西へと動かし、尾張丹羽郡を平定し始めた。秀吉自ら大軍での侵攻に郡内の諸城は戦うことなく降伏していく。そして関成重の一宮城を降伏させ、同城に入った。

 同じ頃、伊勢から反転してきた羽柴秀長一万五千が美濃大垣城に入る。二人は互いに連絡を取り合い、秀吉は尾張奥城、秀長が美濃加賀野井城へと攻め込んだ。奥城の梶川高盛は一応の応戦はしたものの、多勢に無勢と判断し早々に城を捨て竹ヶ鼻城へ逃亡した。加賀野井城の加賀井重宗も一万を超える秀長軍に対応しきれず、竹ヶ鼻城へと落ち延びた。

 木曽川上の城を攻め取った羽柴軍は其処で徳川軍の出方を窺ったが、本多正重が「我らを小牧山城から引きずり出す罠である」と進言し、家康も信雄も動こうとはしなかった。

 家康が動く気配を見せないと判断した秀吉は次の策へと移る。竹ヶ鼻城の攻略であった。秀吉は家康らをおびき出す為に、籠城して抗戦の構えを見せる竹ヶ鼻城を秀長と共に囲んだ。突貫工事で堤が築かれ、城の側を流れる足近川の水が引き込まれ、竹ヶ鼻城は見る見るうちに水に浸かり始めた。


 5月24日、小牧山城に三度援軍要請の使者が到着した。水攻めを受ける竹ヶ鼻城主不破広綱からの援軍要請であったが、家康は使者に今暫く耐える様返答して、動こうとはしなかった。これに織田信雄が怒りの抗議をする。


「我が家臣を見捨てるお積りか!」


「敵は秀吉、秀長の羽柴軍主力に御座います。行けば待ってましたとばかりに返り討ちに会いますぞ。」


 家康は冷静に応えるも信雄は感情を抑えられず、家康に扇子を投げつけ広間を出て行った。此処に来て家康と信雄の間に不和が生じる。家康にとっては大きな痛手である。あと三月ほどは此処で耐え忍びたいと考えていたが、それも難しいと考え始めていた。


 6月9日、不破広綱は羽柴秀長の降伏勧告に応じ、梶川高盛、加賀井重宗らと共に城を明け渡した。彼らはその後、清須城へと落ち延びていく。

 6月10日、竹ヶ鼻城落城を知った織田信雄は家康が救援に動かなかった事を罵り小牧山城から兵を引き払った。…一万の兵が小牧山城からいなくなる。家康は危機感を感じたが、信雄を宥める手立てはなく清須城に引いていく信雄を見送るしかできなかった。


 だが、家康は幸運に恵まれる。羽柴方でも事変があった。四国の長曾我部元親が讃岐への攻撃を強め、援軍要請が届いたのだ。秀吉は弟を竹ヶ鼻城に残し、兵を率いて大坂へと帰って行った。これにより、尾張侵攻軍は楽田城の堀秀政一万五千と竹ヶ鼻城の羽柴秀長一万五千だけとなった。


 清須城に戻った織田信雄は丹羽郡、葉栗郡、中島郡の敗残兵を吸収して長島城へと向かった。羽柴秀長が美濃側に来たことで伊勢方面の羽柴軍が手薄になり、奪われた領地の奪還を試みる為であった。



 6月16日、戦況は又も大きく動く。伊勢湾を九鬼水軍が北上し蟹江湊に押し寄せた。滝川一益率いる九鬼軍三千が蟹江城に押し寄せると、城内にいた前田長定がこれに呼応し、蟹江城代の佐久間信辰を追い出して一益を引き入れた。これにより蟹江周辺を領する前田衆が羽柴家に服属した。

 九鬼水軍の上陸と前田衆の離反は、17日には家康のもとに届けられる。家康は本多忠勝と黒備え衆の三千五百を小牧山城に残し、伊勢湾へ急行した。織田信雄も蟹江城主佐久間信栄の要請を受け、四千の軍勢を蟹江城近くの大野城に入れた。一益は蟹江城の兵と前田長俊の下市場城の兵、それから九鬼水軍の舟三百を大野城に向け出陣させ、城攻めを行う。

 ここで両軍は想定外の事を知る。滝川一益は城内に織田木瓜の旗があるのを見つけ、当主が城内に居る事を知り、信雄側は攻め手の中に堅木瓜の旗印を見つけ、前田衆の中に滝川一益がいる事を知った。一益は城攻めを中止して蟹江城へと引き上げる。信雄が居ると言う事は既に城内に援軍が入っていると言う事だ。簡単には落とせないと判断したからであった。

 一方17日の夜に小牧山城を出発した家康軍一万二千は夜通し進軍して夜明け前には海東郡に入った。兵を休ませる為此処で野営をする。家康は諸将を集めて軍議を開いた。


「半蔵、羽柴軍の動きはどうなっておる?」


 服部半蔵が絵地図に白碁石を置き始めた。


「秀吉本隊は近江から京に入ったあたりで大坂に向かっております、秀長別動隊は大垣城まで兵を下げ、堀秀政隊は楽田城から動かず、中伊勢には筒井順慶の軍が留まっておりまする。」


 半蔵の報告に皆は首を傾げた。九鬼水軍の上陸に合わせてどの隊も連動していなかった。


「連携が整っておらぬのか?」


 家康の問いに本多正重が腕を組んだまま頷いた。


「殿、九鬼衆上陸の報が羽柴方に伝わらぬ内に攻め落とすべきと存じます。」


 家康は頷き、此処で二刻ほど休息を取って前田領に侵攻すると決めた。


 6月18日、徳川軍は蟹江城と前田城の間に軍を侵入させると本陣を設営して兵を東西に展開した。これに呼応するように大野城からも織田信雄軍が出撃する。徳川軍は石川康輝二千を前田城に向かわせて動きを封じると、酒井忠次三千、大須賀康高三千を下市場城に向かわせ、織田軍も同城に攻め寄せた。下市場城はあっという間に本丸まで攻め寄せられ、城主の前田長俊が自決して織田方の手に落ちた。翌19日には九鬼水軍の舟が駐留する場所を特定し、大須賀康高隊、松平信一隊が急襲して矢を射かけた。徳川軍が攻め寄せていることを知った九鬼嘉隆はまともな抵抗をせず、安宅舟を海へと出航させ難を逃れた。水軍を追いやった徳川軍は続いて蟹江城を包囲した。

 ちょうどその頃、ようやく羽柴秀吉も九鬼嘉隆が味方して蟹江城を奪取した情報が伝わり、これぞ好機とばかりに伊勢へと進軍した。秀長を北から、滝川一益らを東から、自身は南からと三方から長島城を攻める策を立てその準備に入った。

 6月23日には前田城が石川康輝の説得により降伏開城され、残るは滝川一益と前田長定の籠る蟹江城のみとなった。


 6月24日、羽柴秀吉はまだ大坂城に居た。理由は長曾我部元親が十河城を攻め落とした為であった。長曾我部軍に敗北した仙石秀久や小西行長らへの指示などで大阪を動けず、長島城攻略作戦が決行できずにいた。それでも、7月に入ってようやく大坂城を出陣する。だが、蟹江城は7月2日に家康の降伏勧告に応じて開城したのであった。


 蟹江城の東門が開かれ、前田衆と滝川一族が城から出て来る。その様子を見ていた本多正重がこっそりと家康に囁いた。


「この後、長島城で羽柴秀吉を迎え討つ事になりまする。後顧の憂いを断つ為にも…彼らを始末した方が宜しいかと。」


 家康は一瞬嫌な顔を見せてから無言で頷いた。正重は一礼すると本陣を離れ旗本衆を引きつれ城から出て来る一行に向かって行った。



 7月5日、羽柴秀吉は伊勢亀山城に到着した。そして此処で蟹江城が攻め落とされ、羽柴方に寝返った前田衆が全員処刑されたことを知る。既に織田信雄と徳川家康は長島城に入って羽柴軍を迎え撃つ準備を整えており、嘗て織田信長が攻め落とすのに二年も掛かった長島城攻略を中止せざるを得なかった。

 同日、根来衆と畠山政尚が三度岸和田城に攻め寄せて来た。秀吉は6日にはこの知らせを受けて自ら討伐に向かった。羽柴軍の動きを知った家康は、奪われた中伊勢の奪還を煩く言う織田信雄を無視して清須城へ軍を動かした。未だ楽田城にも加賀野井城にも敵が詰めている事から、小牧山城には戻らず、空堀、内堀、外堀と三重の堀を持つ岩倉城に入り、羽柴軍を牽制した。

 7月12日、岸和田城の救援を終えた秀吉は再度楽田城へ兵を向けた。伊勢方面は蒲生氏郷と筒井順慶によって順調に攻略できている為、家康をどうにかする為に秀吉秀長の主力は尾張において家康と対峙した。



 それから二月、秀吉、信雄、家康に三者主力に大きな動きなどなく経過する。この間、越中の佐々成政が能登へ侵攻したり、徳川方の奥三河衆、信濃衆で木曾義昌の領地に攻め込んだりと小競り合いは行われているが大勢に大きな変化はなかった。

 だが9月16日になって南伊勢を防衛していた木造具政が蒲生氏郷と戦って敗れてしまい、南伊勢が羽柴方の手に落ちる。


 9月19日、本国から本多正信が岩倉城に到着した。家康は諸将を呼んで軍議を開いた。


「羽柴筑前は只今大坂に居りまする。」


 正信の得た情報は諸将を驚かせた。本多忠勝の報告では秀吉の旗は楽田城にある。しかし実際には秀吉は居なかった。


「秀吉は公家らと会談を繰り返しており、多額の献金も行っておるように御座います。」


 武家が公家や朝廷に献金をする意味。それは官位の取得である。この時期に秀吉が官位を得ようとする目的…家康は口端を釣り上げた。


「そうか、その手で来たか。秀吉は高い官位を得て、その力でこの戦を収めようという気なのだな。」


 正信が「恐らく」と短く答えた。織田信雄が従四位下中納言だから、これより高い官位となると「大納言」以上に付く必要がある。


「羽柴家の力はそれほどまでに高まっておると申すか!」


 酒井忠次が声を荒げる。信長が横死してまだ二年…異様な勢力と財力の拡大速度である。


「戦などをしなくても皆が跪く方法として、誰かが入れ知恵したので御座いましょう。…如何致しまするか?」


 正信は家康に問いかけた。このまま兵站を伸ばし続けても消費ばかりで何も得られない。かと言って兵を退くこともできない。だが家康は笑った。


「このまま対峙する。」


 家康の答えは正信には意外だったようだ。驚いた表情を見せる。


「…最初から勝つ見込みは無かったのだ。負けぬ様に抗って来てここまで秀吉を翻弄させたのだ。…我らは負けなかった。徳川家の名声も上がったであろう。」


 石川康輝が力強く頷く。


「多くの諸侯がこの戦を注目しておりまする。此処で負けねば皆徳川家を一目置かれる事でしょう。」


 康輝の言葉に家康が頷いた。


「…儂の目的は達成したと考えておる。後は…お主らが納得するかどうか。それまでは此処で対峙して敵を伺っていても良かろう。」


 家臣らは目を見合わせた。そして躊躇いがちに酒井忠次が呟く。


「…平八郎は納得せぬであろうな。あ奴は真面に戦働きができておらぬと言うであろう。」


「某も戦い足らぬと思いまする!」


 井伊直政が続いて声を上げた。


「ならば敵を誘いだし、返り討ちにする策を申せ。…秀吉が停戦の使者を寄越す前にな。」



 9月20日以降、本多正重以外の者が何度となく家康に献策をし、徳川軍は挑発の兵を動かしたが、羽柴方の兵に動きはなかった。本多忠勝に至っては敵の砦に襲い掛かるまでの挑発を行ったが、敵方の堀秀政は防備を固めて応じようとはしなかった。



 天正12年10月5日、尾張国岩倉城。

 京に放っていた服部衆間者から知らせが届いた。


 羽柴秀吉、従五位下左近衛権少将に叙位任官。


 官位としての地位は、まだ織田信雄には劣る。だが、確実により高い官位を受ける為の叙任であると思われ、家康軍の将らは戦意を挫かれた。その報は長島城で指揮をする織田信雄にももたらされ、大いに戦意を喪失した。奪われた伊勢南部の奪還の為に家康軍の力を借りようと何度も岩倉城に使者を寄越して来たが、家康は「忙しくて其方に手を回せませぬ」と断り続けていた事で、どうにもできないと考えてしまったようであった。


 10月16日、大坂から長島城に使者が訪れ、織田信雄は羽柴秀吉との和睦交渉が行われた。何度か和睦の使者が大坂と長島を往復し、11月9日に伊賀、南伊勢の南六郡を秀吉に割譲する事で、和睦締結となった。信雄が和睦したとの知らせは10日に家康軍にも伝わる。これで徳川軍は完全に羽柴軍と戦う名目を失う事となった。


 11月11日、撤退準備を始めていた家康のもとに、羽柴秀吉からの使者が到着した。岩倉城の西曲輪に会見場を用意し、家康は使者と面会する。羽柴方の使者は漆黒の甲冑に身を包んだ若武者で名を蒲生氏郷と名乗った。端正の整った顔つきに力強い目をした若武者で、家康が一目見て才気ある者だと感じるほどであった。


「主君、羽柴左近衛権少将よりの和睦の書状をお届けに参りました。」


 氏郷は書状を差し出した。争いの当事者同士の和睦は成立している。そのうえで秀吉は我等とも和睦交渉をして来るかと、身体を震わせた。


 家康と秀吉の戦いはまだ終わっていなかった。



永井直勝

 徳川家家臣。家康の小姓頭を務める。長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る功を立て、家康から称賛される。


遠山利景

 徳川家家臣。明知遠山家の当主。嘗て山県政昌景に自城を奪われ、妻の実家である足助城に居候していたが、徳川家康の参集に応じて後詰に加わる。家康の命で自城の奪還に成功し所領を安堵される。


菅沼定利

 徳川家家臣。田峯菅沼一族に名を連ねる国衆。甲州征伐で主家が討伐された為、家康の命で田峯菅沼家を継ぎ、飯田城を得る。


関成重

 織田信雄家臣。元土岐家の家臣筋で、斎藤家に仕えその後は信長に鞍替えして一宮城を与えられる。


不破広綱

 織田信雄家臣。斎藤家に仕えていたが信長に下り、以後は信長家臣として歴戦した。


梶川高盛

 織田信雄家臣。父の代より織田信長に仕える。佐久間信盛の与力として信長時代から歴戦する。


加賀井重宗

 織田信雄家臣。斎藤家から織田信長に仕え歴戦する。


前田長定

 織田信勝家臣。尾張前田家の当主で荒子前田家の本家筋にあたる。対馬守を称して織田信勝に仕えていたが、信勝死後は荒子前田家に所領を奪われ衰退する。長男が下市場城守の前田長俊で、次男が前田城主の前田長種


佐久間信辰

 織田信雄家臣。佐久間信盛の弟にあたる。信盛追放後も織田家に仕え、蟹江城を守る。


佐久間信栄

 織田信雄家臣。蟹江城主であるが、信雄に付いて長島城に詰めていたところを滝川一益に城を奪われる。


九鬼嘉隆

 羽柴秀吉家臣。織田信長の協力を得て志摩九鬼当主となり、以後は信長に従う。羽柴対徳川との戦では、滝川一益の調略を受け、羽柴方に寝返り伊勢湾から終わりに侵攻する。


滝川一益

 羽柴秀吉家臣。羽柴と柴田勝家の戦では柴田方に付いて戦うも、敗れて所領を没収され越前に蟄居していた。今回の戦に際して領主復帰を条件に羽柴秀吉に協力する。


畠山政尚

 紀伊守護の畠山政国の子。羽柴秀吉の台頭に危機感を感じ根来衆の求めに応じて兵を挙げる。史実ではこの後の紀州征伐により所領を失う。


織田信雄

 織田家当主。秀吉に戦を仕掛ける前は、尾張、伊勢、伊賀を領するも、講和時には半分を奪われる形となる。これ以降は信雄もおとなしくなり、羽柴家家臣として過ごしていく。


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