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家康くんは史実通りに動いてくれません!  作者: 永遠の28さい
第八章:なにわの夢に消えゆく
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96.小牧長久手の戦い(前編)

定期投稿で、二話連続投稿になります。

今週は「小牧・長久手の戦」となりますが、家康の見事な采配を堪能いただければと思います。

(今週限りの登場人物が多いのはご了承ください。あとがきで人物説明を入れております。)



 天正12年3月8日、遠江浜松城。


 徳川家康は私室に本多正信を呼んで絵地図を見ながら策を練っていた。手元には佐々成政、姉小路頼綱からの返書があり、信雄への合力を承諾していた。だが彼らの地はまだ雪に覆われており、兵を動かすのは4月に入ってからとの事であった。長曾我部元親も四国制圧を叶えてからと返事を受けており、直ぐに連携できるのは紀伊根来衆だけであった。考えていたより連携が計れない事を知った家康はどうするかを唸りながら考えていた。


「殿、中納言様が家老衆を誅されました。」


 正信の報告に家康は驚き握っていた碁石を床に叩きつけた。正信は平然とした表情で話を続ける。


「思うていたより早くに動きましたな。」


 正信の言葉で家康は正信を睨みつけた。


「…弥八郎…貴様、何か仕掛けたな?」


 正信はとぼけた表情で絵地図に視線を向けた。


「家老誅殺は羽柴殿にも伝わっておりましょう。そして同時期に紀伊根来衆が動き始めました。…この状況を羽柴どのようにお考えになるでしょうか。」


 正信の言葉に冷静さを取り戻した家康は、黙って考え始めた。そして正信の狙いに気付く。


「…包囲網の可能性を思わせる為か。」


「はい、実際には書状にある通り連携とは言い難い状況。しかし、連携を思わせる事は出来まする。その為、中納言様の挙兵を早めさせて頂きました。」


 正信は戦略に長けており、今の家康には必要不可欠な人材ではあるが、流石に此度のは家康にも寒気を走らせた。徳川家臣にはない気質の持ち主であり、それゆえ重宝する者であるが、危険な男でもある。


「弥八郎、敵はどう動く?」


「根来衆のお陰で、北陸、大坂、淡路に兵を残さねばならないと考えるでしょうから、多く見積もって六万……三弥左衛門の見立て通り、兵を二分して中山道と東海道からやって来ると考えておりまする。」


「東海道の軍は中納言様にお任せしよう。我等は中山道から来る敵に対峙する。先ずは清須城に入り、敵の動きを見るとしよう。」


 作戦は決まった。3月10日に家康は浜松城を出立し、12日に吉田城で東三河衆と合流。13日には知立城で西三河衆とも合流して、二万の軍勢となった。従う将は本多正重、本多忠勝、本多広孝、石川康輝、松平信一、松平家忠、酒井忠次、本多康重、大須賀康高、井伊直政、長坂信宅である。更には大久保忠佐が荷駄隊として四千を率いて岡崎城まで行軍していた。

 3月14日、徳川軍は清須城に到着する。だが此処で思わぬ知らせが飛び込んで来た。美濃の池田恒興が五千の兵を率いて尾張犬山城を制圧したとの知らせであった。既に森長可隊三千とも合流しており、尾張侵攻の拠点として防備を固めつつあるとの事であった。

 家康は直ぐに軍を北へ動かした。向かう先は嘗て織田信長が美濃攻めの拠点として使われていた小牧山城である。あすこであれば濃尾平野が一望でき、敵がどう動くか見る事ができる。又防御面でも申し分なく、先に陣取っておかねば池田軍に対抗できないと考えたのだ。

 3月16日、徳川軍は小牧山城に着陣する。その夜に羽黒城の方角に松明の灯りが動きのを捉えた本多正重はこれを敵の進軍と判断し、部隊を羽黒へ急襲させることを提案した。家康はこれを了とし、酒井忠次、松平家忠、本多康重を向かわせた。進軍していたのは森長可の部隊で両軍は羽黒城近くで遭遇し戦となった。長可は敵の進軍に気付くのが遅かった為、徳川軍に囲まれる形となり、耐え切れずに退却する。初戦は徳川軍の勝利となった。


 その頃、和泉では根来衆が畠山政尚と共同して一万二千の兵力で岸和田城、大津城に攻め込んだ。岸和田城主の中村一氏は城内の兵力では耐え切れぬと、大坂に援軍を要請する。大坂では羽柴秀吉と秀長が織田信雄討伐軍を編成中であったが、一氏の救援依頼を受けて急遽羽柴秀長を派遣した。これにより、羽柴軍の侵攻は数日遅れる事になる。


 だが徳川軍と池田軍の方は膠着が続いていた。既に犬山城には堀秀政も到着しており、兵数は一万二千にまで膨らみ、城攻めは難しいと判断していた。家康は相手の動きに合わせて各個撃破を目論んでいる為、相手が動かなければどうにもできなかった。

 そうこうしている内に長島城から織田信雄が小牧山城に到着した。家康は舌打ちする。伊勢を守ってもらう必要があるのに何でこっちに来るのかと心の中で文句を言った。だが徳川軍と共闘する事を望んだ信雄はこのまま小牧山城に留まる事となる。これで兵数だけで見れば三万二千にまでは膨らんでいた。


 3月22日、羽柴軍が大坂城を出立する。秀吉率いる二万六千は中山道を進み、秀長率いる一万八千は東海道へと進軍した。その動きを見ていた根来衆は再び岸和田城を攻撃する。今度は堺にまで兵を進め街を焼き払うなどを行うも、秀吉の命で大坂城に残っていた蜂須賀正勝の軍勢が駆け付け、これを追い払った。


 3月25日、池田恒興は犬山城から少しずつ南下し、楽田城まで侵攻して支配下に治めた。徳川軍は大兵力で進軍する羽柴軍に手が出せずに敵の前進を許してしまう。

 3月28日、秀吉本隊が尾張に到着し、楽田城に入った。これで羽柴方は三万八千となり、益々対決は困難になる。だが羽柴方も堅牢な小牧山を攻める事は出来ず、暫く睨み合いが続くことになった。


 小牧山城の高台から、家康は本多正重を連れて敵の様子を窺っていた。


「…敵の布陣、どう見る?」


 家康の問いに正重は目を細めて遠くを見やると静かな口調で答える。


「少しずつ前に砦を築いて近づき、我らに圧力を掛けようと言う腹積もりでしょう。我等はこれに応じる必要は御座いませぬ。既に小牧山の東側に我らも砦を築き対応済みです。近づいても包囲する事は出来ませぬ。」


 だが正重の答えに家康は納得しなかった。


「それは秀吉もわかっておろう。…では何の為に近づいて来るのだ?」


 正重は笑った。


「殿は直ぐに先の先を読もうとなされますな。……この状況から敵の取る手立ては二つ。東に大きく迂回して三河に攻め込む。西に軍を展開して木曽川周辺の城を制圧する。このどちらかでしょうな。」


「…服部衆の動きは?」


「東西に放っておりまする。どちらかの網に掛かるかと。」


 ようやく家康は納得して頷いた。小牧山周辺はほとんど平地。昼間は兵の動きが良く見える為、敵が動くとすれば夜。家康は夜に備えて仮眠を取ることにした。だがそれから数日、両軍に大きな動きは無かった。



 4月4日、ようやく羽柴軍に動きが見られた。東に放っていた服部衆が、尾張大留城が羽柴方に寝返ったと知らせて来た。家康は直ぐに諸将を集め軍議を開いた。半蔵の用意した絵地図を見ながら本多正重は敵の動きを予測した。


「敵は大きく迂回して南に抜けようと考えているようです。それはつまり、我らを此処に足止めしておいて、三河への侵攻。」


 家臣らがどよめく。しかし正重は家臣らの動揺を気にせず話を進めた。


「これに対して我らは二手。…1つはこの岩崎城に兵を集め、南下してくる羽柴軍を迎撃する。恐れ入りますが中納言様、岩崎城と周辺国衆への命令をお願いいたしまする。」


「承った。」


 信雄の返事を聞いて正重は頭を下げる。


「もう一手は小牧山から小幡城に兵を移動させ、南下した羽柴軍を後背から攻撃する。問題はどれほどの兵力を小幡城に移動させるかですが…大留城を服部衆に見張らせ、此処を通過する敵軍を見て決めたいと思いまする。」


 家康が頷いた。それを見て信雄も頷く。それにしても本多正重の戦術眼は鋭かった。羽柴軍はまだ兵を動かしていない。それなのに調略の動きだけで敵の動きを予測しその対策を講じられるには家臣らも目を見張らせた。



 4月6日夜、羽柴軍が動き出す。池田恒興を第一陣として森長可、堀秀政、羽柴信吉ら二万の兵が楽田城を出発した。その動きは夜の為、小牧山城からは見えなかったが、服部衆の監視によって7日の昼前に家康に報告された。服部衆からの続きの報告を待っていると8日の朝になって敵軍の兵数と共に大留城を通過した事が知らされた。

 軍議が直ぐに開かれる。正重は二万の敵に対して一万五千で対応する策を進言した。


「敵は軍を4つに分け進軍中との事。大将は最後尾の羽柴信吉、数は九千…まずはこれを狙います。敵の第一陣が岩崎城の丹羽長重殿と交戦したのを頃合いに、南下する九千に対して北と西から急襲します。」


 絵地図に置いた碁石を正重は動かして説明する。


「第三陣の堀秀政が引き返して来るでしょうが、その目的は羽柴信吉の救出。我等は此れを見逃し撤退させまする。」


「羽柴一門を討つ絶好の機会ではないか!」


 信雄が反論したが正重は動じなかった。


「我らの目的は此方です。…池田恒興殿。本隊壊滅の報を受ければ彼らも撤退を始めるでしょう。我等は退路で待ち伏せして決戦に挑みまする。我等は一万五千。敵方は第一陣二陣合わせて八千。…ここで池田殿を討ち取って下さい。」


 何故だ?と信雄が聞き返す。正重は絵地図で美濃を指示した。


「池田殿がいなくなれば、美濃の国衆に動揺を与える事が出来まする。さすれば羽柴秀吉は美濃を纏めるのに時を費やすことになるでしょう。」


 家康はパンと膝を叩いた。


「三弥左衛門の策や良し!我らも夜には小幡城にむけて兵を動かす!先発は水野忠重、丹羽氏次殿!」


 二人は信雄と家康の求めに応じて応援に参陣した者で三千を率いていた。


「続いて井伊直政、長坂信宅!」


 二人は「赤備え隊」「黒備え隊」を率いる二千の将である。合計五千が別動隊として編成される。


「本隊は石川康輝、酒井忠次、各々四千。儂が四千を、中納言様は某と三千を率いてご同行下され。」


 信雄が頷く。こうして軍議は纏められ、羽柴方の動きを早々に察知した織田徳川連合軍の別動隊急襲作戦は始まった。



 4月9日明け方前、白山林で休息を取っていた羽柴信吉隊に、西側から井伊隊、長坂隊、水野隊、丹羽隊が襲い掛かった。時間差を置いて後方から家康本隊が鉄砲を撃ち放った。突然の敵襲に全く対応のできない羽柴隊はあっという間に大混乱となり、まともな応戦もなく逃げ惑った。

 後方からの鉄砲音を聞いた堀秀政隊は敵襲を受けたと判断し、大将の信吉を救うべく兵を反転させて急行した。堀隊は騎馬兵を先頭に戦場へ突っ込み、信吉を探す。辛うじて家臣らに守られて応戦していた大将を見つけ、空馬に乗せるとそのまま戦場からの離脱を図った。その様子を見ていた井伊直政は鏑矢を放つ。その合図で家康軍は攻撃の手を緩めた。

 堀隊は信吉を守りつつ戦場を離脱し、前方で城攻めに夢中になっている池田隊に撤退する様伝令を送った。

 家康軍は敗残兵の始末を終えると予定通り軍を次の場所に動かした。正重の見立て手ではこの長久手辺りを通って撤退すると思われていた。

 二刻ほど待ったところで敵影が見えた。敵も家康軍が待ち構えているのを捉え陣形を整えつつ前進してきていた。正重の予測通り、第一陣の池田恒興と第二陣の森長可の旗印が見えている。


「…七千ほど…かな。」


 家康の独り言に正重が相槌をうった。


「敵は鶴翼に広げて構えております。此方の兵力を見誤っておるのでしょう。我等は左翼の森隊に鉄砲隊の集中砲火を浴びせ左翼の動きを止めます。中央はこれに準じて動きが遅くなるでしょう。そうなれば、右翼が突出した形となりまする。その後は右翼を包囲して壊滅させ、中央に突撃を敢行致しましょう。」


 具体的な戦術が述べられ家康は軍配を掲げた。鉄砲隊が右へと移動していく。準備が整えられ各隊の軍配が掲げられる。家康はそれを確認すると一気に振り下ろした。


「かかれーっ!」


 家康の合図と共に家康軍の右翼から轟音が鳴り響く。騎馬を先頭に前進していた敵左翼の森隊はもろにその銃弾を浴びた。続いて第二射が放たれる。次々と馬が倒され武者が転げ落ちる。敵左翼の動きは完全に止まり、その様子を見ていた中央隊の池田恒興も娘婿の救援のために軍を左へと動かした。これで敵右翼は突出し且つ孤立した。そこをめがけて井伊隊、長坂隊、石川隊が駆け寄った。あっという間に包囲され敵右翼はバタバタと倒れて兵数を減らしていった。隊を率いていた池田元助は後退して陣を立て直そうとしたが、徳川軍が蛭のように吸い付いて離れず陣形は乱れたまま混戦となった。元助は父の救援を請うよう弟の輝政を中央隊に向かわせる。

 その頃、敵左翼は鉄砲隊の集中攻撃で完全に陣形を乱していた。そして不幸にもその鉄砲で森長可が討死してしまい、完全に混乱状態であった。救援に間に合わなかった恒興は止む無く隊を中央に戻すも、今度は輝政から右翼の救援要請を受け、隊を動かした。輝政には乱れた左翼隊を纏めるよう指示して、中央隊を一気に右翼に向かわせた。だが右翼を壊滅させた敵左翼隊と無傷の家康本隊が池田恒興に襲い掛かった。


 半刻後、勝敗は決した。森長可、池田恒興、池田元助は討死、池田輝政は敗残兵を纏めて何とか戦場を離脱。徳川軍の完勝であった。だが勝利の余韻に浸っている場合でもなく、徳川軍は反転し、急ぎ小牧山城へと戻って行く。




 その頃、東海道方面から伊勢に侵攻していた羽柴長秀軍は中伊勢を掌握し、応援に駆け付けた筒井順慶に南伊勢の調略を任せると北伊勢に向けて進軍を開始していた。

 そしてもう1つ。羽柴秀吉の要請を受け、越前で蟄居していた滝川一益が、志摩の九鬼嘉隆を調略していた。嘉隆は一益の求めに応じ、羽柴方として船団を伊勢湾に派遣する事を約束した。


 戦の舞台は尾張から伊勢へと移り始めていた。



本多正信

 徳川家家臣。戦奉行として家康直属の奉行となる。根来衆の襲撃に合わせて織田信雄に開戦の口火を切らせるなど戦略的見地での謀略を得意とする。


本多正重

 徳川家家臣。戦奉行として兄と共に家康直属となる。家康本隊に従軍し、戦術策を献策することを得意とする。


本多康重

 徳川家家臣。本多広孝の子。広孝の後を継いで東三河衆に属する将として従軍する。


羽柴信吉

 羽柴家家臣。秀吉の姉の子にあたる一門衆。池田恒興の娘を正室に迎えており、恒興を羽柴方に引き寄せた立役者。


堀秀政

 羽柴家家臣。織田信長の小姓から出世し、信長死後は秀吉の配下に加わる。「名人久太郎」の異名を持つ万能な者として秀吉に気に入られる。


森長可

 羽柴家家臣。本能寺の変で領地を捨てて美濃に逃げ帰った汚名を雪ぐべく義父である池田恒興に合力する。だが長久手での徳川軍との合戦で鉄砲玉に撃たれ討死する。


池田恒興

 羽柴家家臣。織田家家臣であったが当主織田信雄を見限り、羽柴方に味方する。家康の三河に攻め込もうと軍を率いるも、家康に策を読まれ決戦にて討死する。


池田元助

 羽柴家家臣。池田恒興の長男。父に従い羽柴軍の一員として従軍する。長久手にて父と共に討死。


池田輝政

 羽柴家家臣。池田恒興の次男。父と共に三河攻めに従軍するも長久手での決戦で大敗し、敗残兵を纏めて戦場を何とか離脱する。


羽柴秀長

 羽柴家家臣。信勝討伐の別動隊を率いて伊勢に侵攻。中伊勢の諸城を次々と調略で開城させていく。


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