表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家康くんは史実通りに動いてくれません!  作者: 永遠の28さい
第八章:なにわの夢に消えゆく
94/131

94.軍制刷新

定期投稿です。

二話連続投稿致します。

いよいよ秀吉との戦いが始まります。




 天正10年11月16日、遠江国浜松城。


 北條家との国盗り合戦がひと段落した徳川家康は、新たに手に入れた信濃、甲斐の国整理を奉行衆に任せ、次の課題をどうするか考えていた。

 課題とは大きく2つあり、1つは側室のことである。今抱えている側室とどう向き合うか。これから抱える側室をどうするかである。国主という立場上、家中の結束を高める為、或いは周辺諸侯との関係強化の為に側室を迎える必要性はあるのだ。史実においてもこの先十人ほどの側室を迎え、徳川家繁栄に必要な後の御三家を産ませている。最も直近では、穴山家から迎え入れた於都摩(おつま)の方、後の下山殿の事である。穴山衆を含めた甲斐の国衆を取り纏めていくには彼女を懇ろに扱う必要がある。が、自分の遺伝子を残すつもりのない家康は側室達と彼女らが生む予定の子息子女をどうするのかを考えねばならなかった。

 もう1つは、その自分自身の遺伝子を継ぐ子の事である。家康を演じて徳川家存続を図っている以上、自分の子がこの先、家臣団の一員に入って来るのだ。重臣らは誰が自分の子なのかを知っている為、必ずと言って良いほどその子を警戒する。この扱いを誤れば内紛の種にもなり得る。成人して家臣団に加えるにあたって慎重に扱わなければならないのだ。

 その自分の遺伝子を継ぐ子は二人…。一人は福釜松平を継承する予定の紅凪。12歳になる。そしてもう一人……。輝と別れた後に生まれた飯田夜九郎直輝。服部衆に瀬名郷を調べさせたことで、子の存在を知ったのだ。輝は既に病で亡くなっていたが、現夫の飯田直政、須和、夜九郎、八ツ丸の三人の子が残っていた。瀬名信輝の妻と子の詳細について、手紙で託されたように彼らを保護するつもりで瀬名郷を調べたら、とんでもない事実を知ってしまったのであった。


 一先ず夜九郎直輝と瀬名信輝の息子、源五郎政勝は小姓衆に加えて永井直勝に預け、飯田直政には瀬名郷の城番に任じ、八ツ丸への相続認めた。そして須和は奥女中として働けるよう手配する。そのうえで、半年ぶりに福釜を訪れた。



 福釜城に到着すると、新たに福釜松平家当主となった松平盛次の出迎えを受けて前当主の墓前へと案内された。家康は同行の本多正信、石川康輝と共に墓前に手を合わせた。暫く位牌を見つめた後に盛次に席を外すよう求める。静かに盛次が退室し、部屋には家康ら三人と福が残った。


「福…殿……。」


 家康のぎこちない言葉に福が平伏する。


「纏まりかけていた日の本が再び乱れつつある。…そんな中、徳川家はこれに生き残る為、一つの選択をした。」


 家康は福の方を見ずに語り掛ける。福は平伏したまま聞いていた。


()は徳川家を安寧へと導く決意をした。」


 福の身体がぴくりと動いた。


「我の代わりに命を落としたる御方の為、こうすることを決意した。…もう此処へ来る事も無かろう。貴方の子の成長を喜ぶことも無かろう。……だが、福釜家の繁栄だけは心の中で願っておる。」


 福はぽろぽろと、涙をこぼした。家康の言葉で何を言っているのか理解したのだ。夫の墓前に座するは間違いなく夫。だが徳川家の為に影武者として全うすることを誓った男。これより先、この方を夫として見てはいけない。会うことも許されない。訣別の意味を込めた訪問であったと悟り、涙を流した。

 この涙は何なのか。どういう形であれ夫が生きていた事にか、もうこの先は夫と会えない事に対してか自分でもわからない。とにかく感情が溢れ泣くしかできなかった。



 帰り道、石川康輝に声を掛けられる。


「…良いのですか?」


「…けじめは付けねばならぬ。この先、其方らの信用を裏切らぬ為にもこうしたほうが良い。」


 家康の不動の決意に康輝はそれ以上何も言わなかった。




 12月2日、家康は浜松城で評定を開いた。出席者は榊原康政、鳥居元忠、石川康輝、酒井忠次、井伊直政、内藤正成、本多信俊、松平家忠、高力清長、天野康景、伊奈忠次、本多正重、大須賀康高であった。

 議題は拡大した徳川領の統治及び兵割りをどのようにするかであるが、既に家康の指示に基づいて着任している者もおり、大久保忠世は信濃小諸城に入り、平岩親吉は甲斐甲府城を新たに築城中、小栗吉忠と本多正信、長坂信宅は駿河に出張っており、不在であった。

 既に人事配置は決まっており、家康はこれを重臣らに徹底させる為に評定の場で皆に発表となった。家康の合図で本多正重が書状を取り出し目の前で広げていく。


「兵割について申し次ぐ。……西三河及び東三河はこれまで通り石川康輝、酒井忠次を旗頭とする。兵数其々一万五千。」


 康輝と忠次が一礼する。


「遠江は三隊とする。北部旗頭を大久保忠佐、東部旗頭を石川康通、西部旗頭を本多信俊とし、兵数其々一万。」


 北部は忠世から弟の忠佐に代わり、東部は家成から子の康通に交代、そして新たに西部隊が新設された。本多忠俊が嬉しそうに頭を下げる。


「駿河は郡代を置き兵割りを行う。北部を松井忠次、南部は内藤信成。兵数は各々一万。」


 既に松井忠次は興国寺城に赴任している。この場にいる内藤信成は表情を変えず平伏した。


「甲斐も郡代を置き兵割りとする。北部は平岩親吉、南部は鳥居元忠。兵数は五千とする。」


 元忠は声を上げて驚いてしまった。慌てて口を押え平伏する。思ってもいなかったようで顔を真っ赤にしていた。


「信濃は総奉行を配置して国衆を従えるものとする。総奉行は大久保忠世とする。」


 既に忠世は国衆を従えさせる為に任地に赴いている。彼の下には小笠原貞慶、依田信蕃、木曾義昌、保科正直らが与力として付くことが発表される。榊原康政は小首を傾げた。与力衆の中に真田昌幸が入っていなかったのだ。発表は続けられる。


「旗本衆として新たに本多広孝を任ずる。」


 広孝は東三河のナンバー2である。その人物が旗本衆入りとなった。鳥居元忠の抜けた穴を埋める抜擢であった。ある意味栄転である。


「これ以外に新たに殿直属の隊を新設する。甲斐衆から集めた兵で構成された「赤備え隊」。将は井伊直政とする。」


 直政が仰天する。直政は将としての実績はまだ少ない。それが家康直属隊の将とは大抜擢である。


「もうひとつ…駿河衆から集めた兵で構成された「黒備え隊」。将は長坂信宅とする。」


 これも大抜擢である。そして既に任地に赴いていた。一同はどよめいた。二人とも指揮経験が少ない中での抜擢である。これは将来を見据えた教育枠でもあり、地域に捉われない機動力のある戦力を常設する為のものでもあった。

 更には家康の三人の息子についても処遇が定められた。次男の於義丸には石川康長、三男の長丸には大久保忠隣を傅役として付けて後継者として育て、四男の福松丸は昨年断絶した東条松平家の家督を継承させ、松平忠康と名乗らせる。後見役には小笠原吉次を任じた。

 本多正重は書状を読み終えると綺麗に折りたたんで家康に差し出した。家康は書状を受け取り懐に仕舞う。そして一同に目を向けた。


「以上だ。思うところがある者は遠慮なく申し出てみよ。」


 家康の言葉に榊原康政が前に進み出た。


「小県の真田殿は如何なされるのですか?」


 正重の発表した兵割りに真田の名が無かった。康政はそれが気がかりであった。


「うむ、真田安房守については少々厄介に考えておってな。所領問題で北條家との揉め事の種でもあるし、上杉との繋がりもある者故、いざとなれば切り捨てる事も念頭に置いた。それ故兵割りからも外したのだ。」


 家康の答えに康政は納得して引き下がった。昌幸は上野の一部も領しており、以前より北條家からも領地を引き渡せと迫られていた。東国への抑えとして北條家と友好的でいたい家康としては、真田を上杉にでも寝返らせて諸問題を手放したいと考えていた。


 続いて酒井忠次が進み出る。


「この兵割りは、誰と戦う為の措置で御座いましょうや。」


 皆も思っていた事であった。徳川家康は自家をどうしようとしていて、誰を警戒しているのか。家康はちらりと周囲を確認して小声で答えた。


「…織田家は先日も申した通り家中が割れておる。だが、いずれ内紛を制して一つに纏まろう。その後は周辺諸国と関係を再構築するために活発に動き出す。その時我らは真っ先に対峙することになるであろう。」


 家康は一旦言葉を切り、一同を見渡した。


「儂は織田家を牛耳るのは、羽柴筑前守殿だと思うておる。」


 羽柴秀吉は、信長の仇を討った張本人であり、明智光秀の所領を悉く自領とし、京、堺を支配下に置くことに成功した。明智旧臣らも吸収し、所領、経済力、兵数全てにおいて家中随一となっておる。更には単独で信長の葬儀も取り行い、内外にその実力も見せつけていた。今はまだ重臣の一人として織田家を支える立場を取っているが、何れ敵対家臣を排除し、家中を羽柴派で染め上げ織田当主を傀儡として動くと踏んでいた。家康自身がどう動こうとも史実の通りになるだろう…そう考えていた。

 織田家を手中に収めた秀吉が次に取る手は周辺諸侯の調略…秀吉に従属する様迫る事である。織田家と領地を接する徳川家は真っ先にその対象となる筈であった。

 ここでも家康は自家存続を考える。天下は何れ羽柴秀吉が握る。ならば、史実同様にできるだけより良い地位で羽柴の配下になること。その為の対応を進める。


「…敵は強い。全てにおいて我等より勝っておる。いずれは羽柴殿の軍門に下らねばならぬじゃろう。だが我らは武家じゃ。戦わずして頭を垂れるなどできぬ。その為の兵割りじゃ。…納得したか?」


 酒井忠次は頭を下げて元の位置に戻る。皆も表情を暗くしつつも納得はした様であった。織田信長に続き、羽柴秀吉に対しても家臣となる事を前提に足掻く。難しい舵取りである。だがどうしても徳川家を存続させたい家康の決意は固かった。




 天正10年10月、羽柴秀吉は丹羽長秀、池田恒興と連名で織田家の暫定当主として織田信雄を擁立する。これに柴田勝家、織田信孝が反発し、諸将に秀吉弾劾の書状を送った。これに対し秀吉も織田信孝の所領である美濃に侵攻し、強引に三法師を奪う。

 天正11年になると、滝川一益が秀吉に反抗の兵を挙げる。3月には柴田勝家も兵を挙げ、これに呼応して織田信孝も出陣した。織田家中は秀吉と反秀吉に分かれての戦となった。

 両者は賤ヶ岳で大戦となるも、秀吉が勝利を収め、柴田勝家は越前にて自刃する。越中の佐々成政、伊勢の滝川一益も降伏し秀吉に恭順した。

 勝った秀吉は前田利家を能登に加えて加賀を与え、丹羽長秀を越前に配置、池田恒興に美濃を与えて当主織田信雄に伊勢を任せる配置換えを行い、事実上の織田家家臣一位の地位を確立させた。

 そして大坂本願寺の跡地に巨大な城の築城を始める。後に言う「大坂城」である。信長の象徴でもあった安土城を本拠とはせず、新しき城を自身の本拠にすることで、織田家は羽柴秀吉が差配する事を内外に見せつける為であった。秀吉は当主である織田信雄を蔑ろにして家中の差配を進めていく。



 天正12年、家康は年賀挨拶の使者として本多重次を織田信雄に、石川康輝を羽柴秀吉に派遣した。そして本多重次が信雄の密書を持って帰って来る。内容は史実の通り、秀吉を倒す為に合力して欲しいと言うものであった。家康は諸将を集め密書を見せて意見を求めた。


「織田中納言様は尾張と伊勢の二か国、我らと合わせても七か国。対する羽柴筑前守は自領だけで十四か国。動員できる兵数に差が有り過ぎまする。」


 榊原康政が真っ当な意見を述べる。


「北信濃は対上杉に兵を残さねばなりませぬ。」


 続いて酒井忠次が意見する。家康は頷いた。上杉だけではない。領土関係で揉めている北條に対しても兵を残さねばならない。甲斐と信濃からは兵を出すことは難しいのだ。


「駿府城普請で駿河国衆を動員しておりまする。兵力として持っていかれれば、落成が伸びてしまいまする。…そもそもまだ大兵力を養える兵糧が用意できませぬ。」


 高力清長が奉行衆らしい見解を見せる。これにも家康は頷いた。軍制を新しくしてまだ一年も経っていない。徳川家の軍事力は最大兵力を発揮できない状態であった。


「此処は中納言様を説得し思い留まらせるのが肝要と心得まする。」


 密書を持ち帰った本多重次は皆の意見を総じてまとめた。これにも家康は頷いた。そのうえで自分の意見を言った。


「儂は中納言様にお会いしようと思う。その思いの強さ、動員できる兵力、どのような思案を成されているか。…それから決めようと思うが如何か?」


 反対意見は無かった。そして家康が清須城へ伺うことが決まった。名目上は「茶会」である。だが、これが後の「小牧・長久手合戦」の序章になると家康は感じていた。




瀬名信輝

 元武田家家臣。今川家の傍流、瀬名家の当主だが、武田家に臣従後、甲州征伐の混乱の中、行方不明となっている。


瀬名政勝

 徳川家家臣。信輝の息子で天正10年に16歳で家康の小姓衆に加わる。


飯田直政

 徳川家家臣。瀬名氏俊の命で瀬名郷を守っていた。家康の命で瀬名城の城番となる。


須和

 飯田直政の室、輝の長女。前々夫との子で神尾忠重のもとに嫁いだが、忠重が甲州征伐で討死した為、娘二人を連れて出戻っていた。家康の計らいで奥女中として浜松城で働く。


飯田直輝

 徳川家家臣。輝の長男で幼名は「雲松」。前夫との子で信輝から一字を貰って「直輝」と名乗る。族弟の政勝と共に家康の小姓衆に加わる。


八ツ丸

 飯田直政と輝との子。飯田家を継ぐことを家康より約束される。


内藤正成

 徳川家家臣。広忠の代から仕える譜代家臣。本多忠勝、本多信俊と並ぶ剛の者で軍制刷新により駿河南部郡代に任じられる。伊賀越えに同行した内藤安成の父。


天野康景

 徳川家家臣。三河時代から奉行衆として内務を担当する。高力清長、本多重次についで奉行衆のナンバー3の地位にある。街道普請の為に駿河に出張っている。


大須賀康高

 徳川家家臣。築城の名手として名を馳せており、現在は駿府城の普請奉行として駿河に滞在中。


小栗吉忠

 徳川家家臣。遠江奉行衆の一人で天野康景と共に駿河普請の作業中。


石川康通

 徳川家家臣。石川家成の嫡子で既に家督も継承している。父に代わって東遠江の旗頭となる。


本多広孝

 徳川家家臣。早くから城持衆として家康に仕える。家督と所城の田原城を息子の康重に譲り、家康の側に仕える。


長坂信宅

 徳川家家臣。三方ヶ原で討死した長坂信政の子で駿河調略で功績を挙げている。その功を認められ「黒備え」の長に任命される。


松平忠康

 徳川家康の四男。後に「忠吉」と名を変える。東条松平家を継承し三河東条城の城主となる。後に井伊直政の娘を正室に向かえる。


松井忠次

 徳川家家臣。東条松平家の家老を務めていたが、当主の死後に家康直臣となり、興国寺城の城主となる。史実では松平姓を与えられ、松井松平家を興す。


小笠原吉次

 徳川家家臣。東条松平家の家老。


石川康長

 徳川家家臣。石川康輝の息子。家康の命で次男松平秀康の傅役となる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ