93.天正壬午の乱(後編)
二話連続投稿の二話目です。
これから先は、秀吉との話に移っていきます。
登場する武将も大きく変わり、また世代交代が始まっていくはずです。
天正10年8月2日、徳川軍、北條軍による甲斐国巨摩郡での睨み合いが続いた。兵数は北條軍のほうが上だが、地形を利用し堅い守りを敷いた徳川軍が、北條の動きを封じており、長期戦の構えも見せていた。既に周辺の国衆は徳川方に付いており、北條軍の取る道は、来た道を戻って上野に帰るか、鉄壁の徳川軍に突撃して甲斐を縦断するしかなかった。だが徳川軍との決戦で兵を失うことを恐れた北條氏直は、本国に使者を送って救援を求める策に出る。この時、既に救援に向かった小田原別動隊が鳥居元忠によって撃退されていることは氏直は知らなかった。
8月3日、徳川家康は本陣に諸将を集め軍議を開いた。
「北條氏直は本国に救援を求めたようだが、駿河口、甲斐口共に我が軍が甲斐道を封じておる。待たされた挙句に無為となろう。」
家康の言葉に諸将が頷く。榊原康政が北條の動きを更に封じる為に案を考えた。
「北條と敵対する勢力に使者を送るのは如何でしょうか。」
康政の案に家康は手を叩いた。
「良き案じゃ。…で、誰が良い?」
「常陸の佐竹家が良いと思いまする。」
康政の答えは家康の考えと一致した。直ぐに板倉勝重が呼び出される。勝重は何かあった時の対北條の使者として動けるよう、家康本隊に従軍していた。
「四郎右衛門、佐竹家を訪れ北條の内情をつぶさに教えよ。後は勝手に佐竹家が動いてくれるわ。」
「ははっ!直ぐに向かいまする!」
勝重の退出を待って家康は話を進める。
「一月は此処で踏ん張ることになろう。皆は身体を休めつつ北條への警戒を怠るでないぞ。」
「殿、北條と決戦には及びませぬか?」
本多忠勝が武勇の士らしい問いかけをする。家康は僅かに笑みを見せて首を振った。
「平八郎には悪いが、決戦にて勝敗を決するのは後々に不都合があるかと考え、戦わずに終わらせる方法を取る。」
酒井忠次が続けて質問する。
「殿のお考えを承りたい。」
家康は自分の考えを説明した。既に四方は徳川方となっており、部隊を左右に展開できない北條軍の進路は前進か後退かである。後退をすれば徳川軍は全力で追い打ちをかける。前身は自軍の守りの硬さに躊躇することは必至。故に動けない。此方からは更に追い打ちをかける。
徳川方に寝返った真田昌幸を動かして上野沼田を攻めさせる。更に碓氷峠を封鎖して後退する道をも遮断する。補給路を断たれた北條軍は孤立し、その上本国は佐竹家の蠢動を警戒して援軍の出せぬ状態。まさに四面楚歌の状態で、此方から和睦を申し出る。それもかなり此方の有利な内容で和睦を結ぶのだ。
一同は感心して頷いた。これだけやれば北條家を暫く黙らせることができる。徳川家は悠々と甲斐信濃の仕置きを済ませれば良いと言うわけだ。
そこへ石川康輝が意見を述べた。
「和睦の件、織田家に仲立ちを依頼するのは如何で御座いましょうや。既に織田家は跡継ぎが決まり、落ち着きつつあります。此処で同盟者として恩を売っておくのは如何で御座いましょう。」
康輝の意見は、一同の顔を曇らせた。徳川家は織田家から離れんと領土拡大を目論んでいる。此処でまた織田家に近づけばせっかくの領土を返す羽目になるのではないかと思ったのだ。家康は深く考える。暫く考えに耽って大きく頷いた。
「……織田家中を、揺さぶるか。」
家臣らは家康の不敵な笑みに不安そうな表情を浮かべた。
8月12日、近江国瀬田城。
「殿、森勝蔵殿が東美濃の仕置き報告、届いて御座います。」
小姓らしき若武者が書状を持って主君に報告する。床几に座り髭を整えつつその主君は面倒くさそうな返事をした。
「…後で見る。小一郎に渡しておけ。」
若武者は返事をして側に控える主君の実弟に書状を渡して引き下がった。小一郎と呼ばれた男も書状の中身は確認せずに懐に仕舞う。
「…鬼武蔵と呼ばれた森殿も汚名を返上すべくせっせと報告されておりますな。」
「長可ならば東美濃など気にする必要はなか。最後の報告だけ見ればよきゃ。」
髭の形が上手く纏まらないのか兄のほうはじっと手鏡で顔を覗いている。その様子を見て弟が小首を傾げた。
「気に成りますか、徳川殿と北條殿の動きが。」
「…そりゃ気になるだーわ。甲斐信濃の二か国で三万もの兵力になる。誰が盗るかで今後の方針にも響くでよ。」
兄の言葉は訛っていた。いつも弟と話すときは普段の訛り言葉が出るのであった。
「今は両軍にらみ合って動きは御座いませぬ。…ですが、あとひと月もすれば決着はつくでしょう。」
「何故そう思う?」
「冬が来ます。」
「……冬か。柴田殿も冬の到来を前に動いて来るかの?」
「…もう少し挑発しますか?」
「いや、もうよか。それより、京に戻るぞ。せっかく山城を我が所領としたのだ。公家衆らに挨拶も無しでは恰好がつかねーだわ。」
そう言うと、髭を気にしていた男は立ち上がった。それに合わせて弟が平伏する。
羽柴筑前守秀吉。
本能寺の事変に対して真っ先に畿内に戻り、逆賊、明智光秀を討ち果たし、新たなる織田家の宿老筆頭として、そして新たなる京の守護者として歴史の表舞台に躍り出た男であった。
8月26日、北條氏政は信濃の徳川家を撤退させる為に駿河に兵を差し向けた。駿東の沼津城に攻め寄せるも、興国寺城から五千の援軍が駆け付け、城攻めができず、両軍の睨み合いとなった。予想以上の兵力が駿東に居る事を知った氏政は駿河進軍を諦め、撤退を命じる。
9月に入り、依田信蕃の調略により、木曾義昌が徳川方に付いた。これで佐久郡と諏訪郡を覗いて信濃は徳川方となる。この間、北條軍は身動きが取れず、若神子城で無為に時を費やしていた。
9月10日、上杉への備えに配置していた上野の沼田城が真田家家臣の矢沢頼綱に攻められる。沼田城は簡単に真田軍によって奪われ、北條家は上野での拠点を一つ失った。
9月12日、真田昌幸は碓氷峠に繰り出し、周辺の木々を切り倒して峠道を封鎖した。その報は13日には北條軍に伝わり、兵らを大いに動揺させた。
9月14日、徳川軍が急に兵を若神子城に差し向けた。五百ほどの小隊であったがこれを率いるは猛将、本多忠勝であり、その勢いはあっという間に北條軍の直ぐ側まで寄って来たほどであった。北條軍は応戦しようと兵を差し向けたが、その直後、別の方角から新たな五百ほどの徳川兵が現れ、北條軍の兵糧を隠していた砦に突撃した。完全に本多隊の方に目を奪われ、別動隊の存在に気付けなかった北條軍は目の前で砦の兵糧を灰にされてしまう。別動隊を指揮していたのは榊原康政であった。二人は碓氷峠封鎖の知らせを受けて動揺する北條軍の指揮を更に下げようと、家康の発した作戦で動いたのであった。作戦は成功し、北條軍は手持ちの兵糧の半分を失った。
9月22日、徳川家康は石川康輝を使者として、京にいる羽柴秀吉のもとに向かわせた。9月27日には康輝は秀吉と面会し、丁重に持て成される。そして家康の書状を呼んで大いに喜び、家康からの要請に応える為に支度を行った。
10月4日、織田信雄から使者が、北條軍徳川軍を訪れる。使者は織田家当主代行の名で両軍の和睦を勧める書状を各々に渡した。ここから両軍は戦をいったん中断して和睦の為の交渉に入った。
10月5日、徳川軍本陣。
家康の前に諸将が集められる。と言っても全員ではなく、重臣の酒井忠次、石川康輝、本多忠勝、榊原康政、大久保忠世、板倉勝重の六人であった。家康は和睦の条件について家臣らに尋ねた。忠次が最初に答える。
「甲斐、信濃、及び上野の真田領は我らのものとし、此度の戦の費用を出させるべきと存じます。」
家康は頷く。初手はそれで良い。最初は相手が到底飲めない内容で進め、そこから徐々に落し所を探っていくのが常套である。だが家康は頷いたうえで最終の落し所を先に言った。
「儂は北條家と縁戚になって盟を結ぼうと思う。」
一同は驚いた。思いもかけない落し所にである。「縁戚になる」と言うのは誰かを輿入れさせるか誰かを室に向かえるか、と言う意味である。家臣らは真っ先に「迎え入れる」ほうで考えた。だが、家康の後継は決まっておらぬどころか幼すぎる。となると家康自身の側室ということになる。家康は笑って否定した。
「それでは儂の身動きが取れなくなる。…娘を輿入れさせようと思うのだ。」
家康の言葉にまた一同は驚いた。勝ちが確定している相手にわざわざ人質を出す必要などない。それを敢えてすると云う事は…。
「殿の御存念をお伺いしたい。」
榊原康政が冷静な口調で家康に問いかけた。家康は少し虚空を見つめた後にゆっくりと口を開いた。
「儂は此処で北條と対峙する間、服部衆に命じて織田家の内情をつぶさに調べさせた。…織田家は三法師を新たな当主とし、信雄信孝の二人を後見人とし、それを柴田、羽柴、丹羽、池田がお支えする体制となった。だが、既に家中は二つに割れておる。…柴田派と羽柴派にだ。しかも織田一門にこれを抑えられる者がおらぬ。いずれ織田家は柴田勝家か羽柴秀吉のどちらかに呑み込まれるであろう。…その時、我らはどう動くか。」
そこまで言って康政は納得したように頷いた。
「なるほど…後方の憂いを断つわけですな。」
康政の答えに家康が笑って頷いた。
「流石は小平太、呑み込みが早い。…そうだ。織田家と共闘するにせよ敵対するにせよ、兵を差し向ける先は一方向が良い。北條家は強い。全力で相手するには多大な損害を被ることになるであろう。だが同盟相手としては申し分ないとは思わぬか?」
「…果たして信用に足る相手でしょうか?」
康政の表情とは対照的に酒井忠次は不満げな顔であった。だがこれに康政が答えた。
「あくまで織田家の内紛に北條家がこれ以上足を踏み入れさせぬ為の楔で御座るよ。…我らが北條家を信用に足る相手かと勘繰るように北條側でも我らを警戒するであろう。」
康政の言葉に家康は頷いた。
「そうだ。北條は我らを警戒しつつ周辺諸国と対峙せねばならぬ。織田家の事には構ってられなくなるであろう。…同盟は我らと織田家との新しき関係が築ける間までで良い。」
皆は頷く。関係は新しく変わる。信長との間にあった従属的関係ではなく、対等、或いはそれ以上の関係で結べる可能性が大いにあるのだ。目の前で行き場を失っている北條軍をうまくあしらえば西に目を向けられるのだ。
天正10年10月25日、四度目の交渉で徳川家康と北條氏直は和睦を締結する。これにより、信濃と甲斐は徳川家の所領となり、上野は北條家の所領となった。海津城の水内郡、沼田岩櫃の真田領は双方切り取り次第と約された。
徳川家は、支配域を大きく増やし、国衆を調略によって懐柔した事によって、旧武田の将兵を得る事が出来た。これらを織田家が家中で争っている間に麾下に組み込み、次なる戦いに備えねばならなかった。
北條氏直
北條家五代目当主。自身で大軍を擁して信濃攻略を勧めるも、徳川家の術中にはまり信濃国内で孤立する。その後、徳川家と和睦し、家康の娘、督姫を正室に向かえる。
三法師
織田家次期当主。御年三歳。織田信忠の嫡子で俗に言う「清須会議」で当主となる。後見人は織田信雄と織田信孝で、信孝が、三法師のいる岐阜城に入る。
羽柴秀吉
織田家家臣。山崎の合戦で明智光秀を討取り、織田家の筆頭家老の地位に上り詰める。その後、信長の葬儀を取り仕切るが、織田信孝、柴田勝家は出席せず、家中の確執が生まれる。
羽柴秀長
織田家家臣。秀吉の実弟。




