91.信長の最期
第八章に入る前のインターローグ的な話になります。
この物語での織田信長の目的、目標、目指していたものを描きました。
次週より第八章「なにわの夢に消えゆく」が始まります。
…タイトル的に何処までが描かれるかバレますかね。
「……の」
「………殿」
「…殿!」
呼ばれて儂は目が覚めた。見るとすぐ側に蘭丸が血相を変えて膝を付き儂を揺すっていた。
「…何事だ?」
「て、敵襲に御座いまする!」
暗闇でもわかるほどの蘭丸の慌てぶりであった。儂は眠気に抗いながら少し考える。そして、この京で儂に夜襲を仕掛けて来る者がおるとは…と驚いた。起き上がって周囲を見渡すとあちこちから騒がしい物音が聞こえた。
「敵は?如何ほどじゃ?」
この時点では儂はこの敵襲を甘く見ていた。京は二千ほどの織田兵が常駐して警備しており、多勢で仕掛けることなどできぬ。せいぜい百程度であろうと考えておった。だが、蘭丸から返って来た言葉は儂の予想を超えておった。
「桔梗の紋が見えまする!既に…既に寺は数多の兵に囲まれておりまする!」
桔梗…!
儂の知る限りこの紋を使うておるのは一人しか知らぬ。儂は勢いよく起き上がり声を張り上げて蘭丸に問い返した。
「明智の軍だと申すか!!」
蘭丸は片膝を付いて頭を下げる。儂は掛け布団をひっぺ返しおもむろに立ち上がる。歓声悲鳴はあちこちから響いていた。傍にある刀を持って寝室を出る。既に小姓らが走り回って迎え撃つ準備をしていた。儂は無言で廊下を大股で歩き外が見えるところまで行く。寺をぐるりと囲む高い塀の向こうは多くの篝火で照らされており、一目で三千以上の兵が本能寺を囲んでいると判断できた。篝火に照らされ揺らぐ桔梗の紋の旗…。間違いなく明智十兵衛の旗印であった。
「……十兵衛、儂は海を渡りたい。」
「…海?」
「嘗て…海の向こうの大陸では広大な領地を統べる王がいたと言う。その者は一代で強力な国家を作り上げたそうだ。儂もそれに習いたい。」
「か、唐の国に渡ると申されますか!?」
「日の本は我が武でもって統一し、法を整え、各国を秩序をもって治れば一つに纏まろう。…だが、儂が目指しておるのは其処ではない。」
「な、何を…仰って?」
「世界には、海を跨いで広大な領地を獲得し、儂の鉄甲船よりも大きな船で広大な海を闊歩していると聞く。…儂は日の本も左様な国の仲間入りを果たしたいと思うとるのじゃ。」
「……」
「その為には、強大な軍事力、兵力を支える土地が欲しい。」
「その為に…唐を?」
「彼の国は、過去に何度も統治する王が代わっておる。それは何故か……。これだけの広大な領地を安定して統治するだけの機構が、人材が、武力が無いのであろう。儂は其処につけ入る隙があると考えておる。」
「お待ち下さい!唐にはこの日の本の何倍もの人々が住み、その兵力は何十万とも言われておりまする!それを敵に回して簡単に勝てるような相手では御座りませぬ!」
「兵力が勝敗を決するわけではない。奴らの国は長らく戦の無い平和を過ごしてきておる。常に戦まみれであった我等とはその武力たるや、比べるに足らぬわ。日の本を統べた勢いで海を渡れば、容易く彼の地を手に入れられる。」
「そ、そんな……。」
儂は十兵衛と語った話を思い出した。最も信頼できる家臣と思うて話した儂の野望であった。だがあの時十兵衛は儂に同調した様子は見せなんだ。
…そうか、十兵衛は儂を止めに来たか。
「是非に及ばず!」
門が蹴破られ、どっと甲冑に身を包んだ兵が押し寄せて来る。儂は力丸から弓を受け取り矢を放った。次々と矢を放ち、走り込んで来る敵兵を撃ち倒す。だが矢は直ぐに尽きてしまった。今度は坊丸から槍をひったくり、駆け上がって来る敵兵を突き刺した。薙ぎ払い突き殺し、投げつけては敵兵を追い返す。
だが、多勢に無勢。
明智軍の兵は次から次へと寄って来て、とうとう屋敷内に乗り込んで来た。
「下がるぞ!」
儂は蘭丸ら小姓を従えて奥の部屋へと入る。既に寺の四方から火を掛けられたようで、木の燃える匂いと煙があたりを覆い始めていた。小姓らが甲冑も付けずに刀や槍で応戦しているが、相手は武具を纏っており数も違う。恐らく皆打ち倒されるであろう。
儂は屋敷の奥へと向かった。その途中で弥助と出会う。弥助は儂が南蛮人から譲り受けた肌の黒い巨躯の男だ。物珍しさに手元に置いたが、中々の忠義者であった。
「大殿!…逃ゲ道、作ッタ!」
弥助が部屋の真ん中あたりを指さす。床板が力任せにひっぺ返され、穴が開いていた。覗き込むと床下に通じており、そこから屋敷の外に出られそうであった。…だが、外に出たとして、大軍で四方を固められていては寺から逃げる事は出来ぬ。
「…ご苦労であったが…此れでは逃げられぬ。」
そう言って儂は弥助に向かって首を振る。逃げても必ず捕らえられる。儂は敵に捕まる事だけは嫌であった。それは生き恥を晒すことと同義である。
「ナ、何故?」
驚く弥助に、儂は笑いかけた。
「弥助、お主は儂の首を持って、そこから下に降り、適当な場所に首を埋めろ。」
「ナ!」
「敵に決して儂の首を渡すな。…後は好きにせよ。」
「ダ、駄目!一緒ニ逃ゲル!」
弥助が儂を引っ張って行こうとした。蘭丸が刀を抜いて弥助の首筋にあてた。
「…大殿の…言う通りにするのだ。」
弥助は押し黙った。儂はその場に座り服を広げて腹をむき出した。蘭丸がすっと小刀を差し出す。
「…介錯は頼んだぞ。」
そう言って静かに目を閉じた。
…ああ、あと数日もすれば、徳川家康は儂の家臣となり、あの福釜康親を儂の直臣に取り立てる事が出来たのに……。
あ奴がいれば、九州を平らげるのも奥州を我がものとするのも容易かったであろう。
…あ奴の軍略…この目で直に見てみたかったものだ。あ奴と海を渡って唐の国で暴れてみたかったものだ。
儂が死んで勘九郎が織田家を率いるか…いや、勘九郎ではあの福釜康親は使いこなせぬであろう。…それとも勘九郎を支えて日ノ本を統一するか。野心をむき出して織田家を乗っ取って日の本を支配するか…いずれにしても見物であろうな。
ああ、未練とは斯様に多く浮かぶもの也。
願わくば、儂の居ぬ次の世を見せ賜らん。
織田信長は自分の腹に小刀を突き刺した。ありったけの力でもって横に移動させる、そして己の力が尽きる前に首を前に差し出した。
蘭丸が涙を流しながら刀を振り下ろす。ごとりと音を立てて首が転がる。蘭丸はそれを持ち上げると、一度その首を拝んでから、丁寧に布に包んだ。
「弥助殿…これを持て。」
弥助は先進を震わせて首を振る。
「某ニハ…デキナイ…。」
後ずさる弥助に蘭丸は主君の首を差し出した。
「大殿のご命令である。…此れをどこかに埋めて此処から逃げよ。」
弥助は恐る恐る両手を差し伸べて信長の首を受け取った。生暖かい感触が手に伝わり、弥助は悲鳴を上げそうになった。身体の震えも止まらない。
「行け!」
蘭丸は弥助を叱咤して床下への穴に向かわせた。既に火が近くにまで燃え広がっており、上から逃げ出すのは不可能であった。弥助は何度も振り返りながら床下に入る。そしてその姿が蘭丸からは見えなくなった。
弥助を見送った蘭丸は首の無くなった信長の前に座り一礼した。
「…大殿、御供仕りまする。」
そう言うと信長を斬った刀を首筋に当て、思い切り刀を引いた。血が天井にまで飛び散り、蘭丸は目を虚ろにして倒れ込む。信長の体に触れようとして、それきり、動かなくなった。
日が昇り始め、弥助は何とか床下から屋敷の外に出た。だがそこで明智軍の兵に捕まり連れ出される。だが弥助の手には信長の首は無く、その後の捜索でも信長の首が見つかることは無かった。
弥助
織田家家臣。イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れて来ていた黒人奴隷。信長が気に入って貰い受け、「弥助」と名付けられた。小姓の一人として信長に仕え、本能寺の変の時も近従していた。明智軍に捕まるも、命を助けられ南蛮寺に送られる。
森蘭丸
織田家家臣。諱は「成利」森可成の三男で信長の小姓として仕える。本能寺の変では弟の坊丸、力丸と共に明智軍と戦い、討取られている。
織田信長
織田家当主。尾張守護代家の奉行衆の家系から、下剋上の末に終わりを統一する。その後は美濃、近江、伊勢、と支配下に治め、足利義昭を擁して上洛を果たす。以降は加速度的に支配域を東西に押し広げ、天下統一を目前にして明智光秀に討たれる。




