87.家康慰撫遊覧
定期投稿です。
とうとう、本能寺の変が始まります。家康の伊賀越えが行われます。
本章のクライマックスが始まります。
天正10年5月6日、近江国安土城。
天守から城下を眺める織田信長。彼には野望があった。天下布武による日の本の統一はその過程に過ぎない。今、武田を滅ぼし、関東の諸将が織田に従属する動きを見せ始めており、信長の目は西へと向いた。
「この儂の命に従わぬ者もあと少しか…。」
信長は誰に聞かせる訳でもなく呟く。西国で織田家に従わぬ大名は、毛利、長曾我部、龍造寺、島津くらいで、その国力は誰も織田家には敵わない。日の本の統一は絵空事ではなく、信長には目前に控えた事となっていた。
信長は天守の中に戻り、机に置かれた地球儀に手を当てる。
「…世界というものは広い。」
信長は再び呟く。その表情は笑っており、見つめる先は地球儀に描かれた大きな大陸であった。
天正10年5月9日、徳川家康は浜松城を訪れた穴山梅雪を上機嫌で出迎えた。この後二人は揃って安土に赴き、信長の饗応を受ける事になっている。家康はそれが楽しみで笑顔が絶えなかった。
「梅雪殿、明日には出発致す。儂は早う織田殿にお会いしたい故、少し馬を急がせるが宜しいか?」
「はっはっは。徳川殿も急いておられますな。拙僧も此処まで3日で来てしまいましたわ。お互い疲れ果てた顔で織田様にお会いせぬ様、ほどほどで。」
「確かに。…して何か土産等は用意されたで御座るか?」
「甲斐から馬を数頭、用意致しました。」
「馬か…。では我らは鷹を用意致すか。」
二人の会話は安土での事で花が咲く。武田の家督を得た梅雪も満面の笑みで家康の言葉に応じて会話が弾んでいた。
やがて会見も終わり、梅雪が退出する。家康は家臣を集めて軍議を開いた。主要な武将は既に集められており大広間で十数人が揃って家康に頭を下げた。上座で家康は家臣らの顔を見渡すと、清々しい顔で言葉を発した。
「儂の大願は成就された。これより先は駿府に新しい城を築き、其処で政務を取り仕切ろうと思う。」
家臣らが一斉に「お目出度う御座りまする」と頭を下げる。家康は満足そうに頷くと言葉を続けた。
「儂は明日、安土に赴き、織田殿にお会い致すが…織田家の臣下となる事を申し上げようと思う。」
家臣の幾人かが項垂れた。先の甲州征伐折に、織田信長に対する態度で察してはいたものの、主君から「臣下」という言葉を聞かされると、残念な気持ちが沸き上がる。しかし、このまま同盟者として続けられないことも判っていた重臣らは悔しさと悲しさと切なさを感じながら納得はしていた。
「いつかは天下人の下に付かねばならぬ。…それが今だと考えておる。武田が滅び、我らの周囲に明確な敵はいなくなったのだ。我らがこれ以上勢力を広げる事は難しい。…ならば恩賞を受ける立場となることで徳川家の繁栄を掲げていく。」
家康は一同を見渡した。皆、様々な感情を顔に出してじっと主君を見つめていた。家康は笑った。
「お主らには随分と苦労を掛けたが…これで一区切りだ。安土から戻ったら改めて論功を行う。それで皆の忠義に応えたい。」
そう言うと家康は頭を下げた。今までにない穏やかな表情は、家臣らに得も言われぬ安堵感を与えるに十分であり、これまで忠義を尽くして来た甲斐があったと涙ぐむものまでいた。そんな家臣らを見て家康は喝を入れるように言葉を続ける。
「まだすべてが終わったわけではない。織田殿が天下を一つに纏められるまで徳川家として気を抜いてはならぬぞ。」
家臣らは「ははぁ!」と頭を下げた。
「明日はお主らも安土に同行して貰う。各々支度をしておくように。」
そう言って家康は言葉を締め括った。
天正10年5月11日、近江国坂本城。
鳳観が信濃に戻ると聞いた明智光秀はいくらかの土産を用意して鳳観を呼び寄せた。今日で高名な僧との交流を深め学を学んだ鳳観だが、七十を過ぎた老齢であり、既に京からいくらかの書物を抱えていた鳳観は光秀からの贈り物を固辞した。
「拙僧にはこれほどの荷物を持って信濃の帰路を行けませぬ。」
「ならば、共の者を数名連れて行くが良い。いや、これくらいの事はさせてくれ。」
光秀の押しに根負けして鳳観は土産を受け取る。そこであることを思い出して、鳳観は光秀に尋ねてみた。
「そう言えば、京で妙な噂を聞きました。朝廷が織田様に官位を贈ろうとなされていると。」
光秀の表情が曇る。
「…大殿は先年全ての官位を返上なされた。朝廷は大殿が朝廷を亡き者にするのではと恐れおののいておるのだ。」
「左様な事を?」
朝廷にとって織田信長は自分達を庇護する強大な武家であり、同時に自分達を脅かす尊大な相手でもある。飼い慣らしたいのが本音であるが、信長もとうに承知で朝廷からの受領をのらりくらりとかわしていた。それが朝廷にとっては危機感と感じていた。
「無論、大殿は左様な事はなされぬ。…大殿が見ているのはもはや日の本では御座らぬ。」
「日の本では…ない?」
「うむ。大殿は大陸に進出なされようとしておられる。」
「唐の国で御座いますか!」
「そうだ。儂だけに打ち明けられたのだ。…だが儂には左様な事ができるとは到底思えぬ。もし…もし、唐の国に戦を仕掛けて失敗し、その報復に攻め込まれでもしたら、日の本はお終いだ。京の都は蹂躙され朝廷は全てを失い、帝のお命さえも危うくなるであろう。」
「そ、そんな……。」
「儂は何としてでもそれだけは阻止せねばならぬと思うておる。もう少し時を掛けて儂に同調する者を増やしたかったのではあるが…。」
「…き、危険に御座います。せめて上杉殿や関東諸侯の動きを見てからでも遅くは御座いますまい。」
何かを急ごうとする光秀を鳳観は止めようと説得した。光秀は考え込むように呟いた。
「…関東か。」
この時、光秀は恐ろしいほど長い間考え込んでいた。
5月14日、徳川家康は近江国番場城に到着した。この時、家康に従っていた家臣は、酒井忠次、石川数正、榊原康政、本多忠勝、石川康通、高木広正、大久保忠隣、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、高力清長、大久保忠佐、内藤安成、菅沼定利と言った重臣衆、有力国衆に、井伊直政、永井直勝ら小姓衆の三十名ほどであった。
番場城では丹羽長秀の出迎えを受け、ささやかな接待を受ける。その後は長秀の案内で中山道を下り、5月15日には安土城に到着した。饗応役として明智光秀の挨拶を受けたものの、すぐに堀秀政に代わった事が告げられる。どうやら羽柴秀吉からの援軍要請を受け、信長から出陣命令を受けたようであった。だが饗応役以外の変更はなく、予定通り5月17日から家康と穴山梅雪の接待が始まった。
同じ頃、松平康親は接待には参加せず、京に来ていた。目的は茶屋四郎次郎に会う為だった。康親はこれから起こる事象に対処する為、その資金調達と堺の商人紹介だった。そしてそこで思いがけない人物と出会う。
「初めてお目に掛けまする。藤林三之介保正と申しまする。」
茶屋四郎次郎の紹介で若い男が名乗る。同時に書状を差し出して来た。康親はこの男が一目で忍だと判る。名といい、その仕草が半蔵を思わせるといい、瀬名信輝が抱えていた藤林衆の者に違いない。問題はその者が何故此処で康親を待っていたか。そう考えながら渡された文を見て驚愕した。そして納得もした。
「源五郎は我の正体を知っておったか。……で、お主の主である瀬名殿は如何した?」
「……我が父と共に織田家の残党狩りを避け、その身を隠されました。…それ以上は判りませぬ。」
男の答えに康親は少し感心した。…嘘もつかずに正直に答えている。手紙にある通り瀬名信輝の命を守り松平康親に仕える覚悟で此処に来ているのだ。そう感じた康親はこの若者を信じる事にした。今は一兵でも必要な時。千賀地衆と連絡の取れない今はこの藤林衆で補ってこの先に起こる事変に対応すべき。そう判断して藤林保正を受け入れた。
「では早速役立って貰う。一族を率いて伊勢へ向かえ。茶屋、支度金を頼む。」
茶屋四郎次郎は大いに驚いた。
「この者をお信じになるので!?」
頷く康親に不満顔を見せながらも四郎次郎は若い男に銭束を渡した。保正は「すぐ戻ります」を言って頭を下げると走り去っていく。それを見届けると康親は四郎次郎の出した茶を啜った。
「京で不穏な動きがある。我等はこの後堺へ向かう故、何か事が起きたらば、直ぐに知らせよ。」
「京で?…不穏な様子など全く感じませぬが?」
「…いずれ判る。我は此処で殿の到着を待つ。」
「……宗誾殿の屋敷に行かれては如何ですか?」
「断る。…あのお方に会うと面倒だ。」
「私は貴方様が此処に居座られる方が面倒で御座いますがね。」
「…ならば共に堺まで行くか?」
「いえいえ!これでも私は忙しい身でして。」
そそくさと康親から離れていく茶屋四郎次郎を余所目に松平康親はもう一杯茶を啜った。
大事件は目の前にまで来ていた。
5月17日、安土城で茶会が催される。だがそこに明智光秀の姿は無く、細川忠興や池田恒興など、信長に命じられた諸将も安土城を離れて戦支度に入っていた。
5月18日、惣見寺にて能楽が開かれる。
5月20日、先の関白、近衛前久を招いて再び能楽を楽しむ。
5月21日、信長の勧めで家康一行は京へ向かう。織田信忠が家康一行を案内する。
5月22日、家康一行は二条城に到着する。そこでも信忠の歓待を受ける。
5月26日、家康一行は信忠と清水寺で能を鑑賞する。同日、明智光秀が亀山城に到着する。
5月27日、光秀が愛宕神社を詣で、祈祷する。同日松平康親が家康一行に合流する。
5月29日、織田信長が安土城を出発する。同日、家康一行が堺に向けて出発する。
6月1日、家康一行は堺にて今井宗久の接待を受ける。同日、織田信長が本能寺に入り、公家衆らと面会をする。
6月1日夜、明智光秀が亀山城を出陣する。この時、池田恒興は西国出陣の準備で摂津におり、筒井順慶は大和、織田信孝は四国遠征の為に堺に兵を進めており、細川忠興は父幽斎と共に丹波にあった。京には所司代の前田玄以の兵しか残っていなかった。
「左衛門尉、堺の湊は大きいのう。」
「真に。浜松の湊もこのくらい大きく開ければ、もっと多くの船を寄せる事ができましょうに。」
「やはり駿府か。」
「清水の湊で御座いますか。あすこは水軍の舟が多く、今すぐは難しいかと。」
「そうだな。いずれにしても帰ってからだ。…それはそうと、三郎次郎はどうした?」
「薬草を買い付けに行くと申して出て行きました。」
「…あ奴の薬作りは大丈夫なのか?儂は差し出されても飲まぬぞ。」
「彦右衛門の話では中々良く効くそうに御座いますぞ。」
「あ奴は薬草欲しさに儂に付いて来たのか?」
「そうかも知れませぬな。堺に入ってからは彼方此方を見て回っておりましたからな。」
「堺にはこれから何度でも来れるであろうに。何をそんなに息巻いておるのやら…。」
「まるで何かを警戒するかのような雰囲気で御座いましたな。」
「此処は織田殿の支配下じゃ。警戒するものなぞ何もなかろうに。」
家康一行は、何も知らず京、大坂、堺の物見遊覧を楽しんでいた。
織田信長
織田家前当主。家督は信忠に譲ったものの実権は握っており、安土城にて織田家全軍の指揮を取る。本能寺の変直前は、毛利家討伐の為に残っていた重臣らに出陣の命を下していた。
織田信忠
織田家当主。家康を京に案内し、堺にも随伴する予定であったが、父が出陣した知らせを受け、これを迎えるべく、堺への案内を松井友閑に命じて二条城に残る。
酒井忠次
徳川家家臣。重臣筆頭に挙げられており、この頃は活動拠点を吉田城から浜松に移している。
石川数正
徳川家家臣。織田家との取次役として活動しており、三河城代も兼ねていた。
榊原康政
徳川家家臣。旗本衆の筆頭に挙げられ、常に家康の側に控えて助言をしている。家康が最も信頼している人物。
本多忠勝
徳川家家臣。旗本衆として家康の側に控える。主に護衛役として家康の側にいる。
石川康通
徳川家家臣。掛川城主、石川家成の子。父に代わって東遠江衆を率いる。
高木広正
徳川家家臣。旗本衆の一人で桶狭間、姉川、三方ヶ原でも活躍した古参の武将。
大久保忠隣
徳川家家臣。二俣城主、大久保忠世の子。父と共に北遠江衆を率いる。
本多信俊
徳川家家臣。旗本衆の一人であったが、遠江浜名城を与えられ西遠江衆を率いる。
阿部正勝
徳川家家臣。旗本衆の一人で竹千代時代から付き従う。
牧野康成
徳川家家臣。東三河の有力国人で早くから家康に付き従っていた。
高力清長
徳川家家臣。三河三奉行の一人で、この頃は遠江の奉行衆を束ねている。
大久保忠佐
徳川家家臣。忠世の弟で兄に代わって家康に随行している。
内藤安成
徳川家家臣。西三河衆内藤正成の子。
菅沼定利
徳川家家臣。東三河衆の菅沼一族の子。
井伊直政
徳川家家臣。家康の小姓として仕え、家康の信任を得ており、この頃は常に随行している。
永井直勝
徳川家家臣。元信康の家臣で一時出奔していたが、康親の取り成しで家康の小姓に復帰している。
茶屋四郎次郎
京の呉服問屋。家康にいち早く本能寺の変を伝え、逃亡費用を提供している。
明智光秀
織田家家臣。本拠を近江坂本に置き、丹波国衆を従え京都を守護する。公家の文化にも精通し、公家衆らの統制を担う。本能寺の変直前に羽柴秀吉からの援軍要請を受け、信長の命で池田恒興、細川忠興、筒井順慶らを従えて援軍に向かう予定であった。




