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85.甲州征伐

申し訳ありません。

予約投降し忘れで、一時間遅れで定期投稿いたしました。

二話連続投稿になります。



 織田信長は、武田家討伐の兵を挙げる。

 総大将は自身の嫡子、織田信忠として美濃尾張伊勢から三万五千の兵を編成し、自らは摂津山城近江から六万の兵で後詰とした。

 信忠は先鋒隊として、河尻秀隆、森長可に八千のを与え、東美濃へと向かわせた。岩村城で遠山友忠、団忠正の六千と合流すると、2月6日に信濃に向けて侵攻を開始する。目的は木曽山脈を越えた南信濃の攻略である。

 岐阜城でも第二陣の織田長益隊三千が出立する。こちらは飛騨の金森長近五千と合流し、中山道を北上して北信濃を目指した。

 2月8日、中津川付近に到着した河尻隊は太平街道に入り、木曾の山々を越山する。まだ雪の残る難路を強行行軍し、2月12日には飯田峠を越えて下伊那郡に入った。そして同日、織田信忠本隊が信濃に向け岐阜城を出立する。


 その頃、居城大島城で織田軍が動いたとの知らせを受けた武田逍遙軒は南信濃の国衆に「大島城に集結せよ」との下知を下した。だが、これに応じた国衆は少なく、これに対応することに追われる。

 逍遙軒の下知に従わなかった国衆のうち、松尾城の小笠原信嶺は2月13日に河尻隊へ使者を送り降伏する。飯田城の保科正直は城に立て籠もり様子を窺っていた。


 一方、木曾義昌の寝返りを知った武田勝頼は、一万五千の兵を集めると、2月7日に新府城を出発して中山道を西へ向かい、2月9日には上原城に到着した。勝頼は此処に本陣を敷くと、武田信豊に五千の兵を与え、諏訪湖を越えて塩尻へ向かわせる。同時に高遠城から今福昌和の兵三千が木曾義昌の居る福島城を目指した。武田信豊は2月10日には桔梗原に到着し、中山道を封じるように陣を構えた。


 中山道を北上した長益隊は2月12日に福島城で木曾義昌と合流し、金森隊も含めて一万二千の軍勢で中山道を更に北上し鳥居峠を目指した。義昌は道案内として先行していたものの、途中で武田軍が向かっている事を知り、後方の織田軍に連絡する。織田長益、金森長近は藪原の手前で軍を停止させ、武田軍を待ち受けた。

 織田軍の動きを知らぬ今福隊は中山道に入ると北へ向かった軍馬の跡を見つけ、桔梗原で迎える武田信豊隊と挟撃する為、軍馬の跡を追跡した。木曾隊はその先の鳥居峠で待ち構え、長益隊が後方から今福隊を追いかける形となり、2月16日に両軍は鳥居峠で激突した。


 松尾城を接収した河尻隊は北に見える飯田城を包囲した。城将の保科正直は五百の兵で迎え撃つも包囲を崩すことはできず、2月15日に城に火を放つと北へと逃亡した。河尻隊はこれを追って更に北上する。

 次に見えるは幾重なる空堀で覆われた松尾城であった。見るからに堅牢そうな城であったが、城主の松尾頼貞の戦意は低く、一万以上の織田の軍勢を見て降伏を決断し、2月16日には城を明け渡した。

 その次に立ちはだかったのは重鎮武田逍遙軒の守る大島城であった。だが、城には思った以上に兵が集まらず、止む無く大量の旗差物を立て掛けて、大軍が居るかの如く見せる。2月17日に大島城に着いた河尻秀隆はこれを大軍が籠っていると勘違いし、川の対岸に陣を敷いて様子を窺った。しかし、これも直ぐに見破られ、翌日には総攻撃を開始する。逍遙軒は勝ち目無しと判断して搦め手から城を捨てて逃亡した。

 此処まで河尻軍は戦らしい戦をせずに下伊奈郡の制圧に成功、20日には上伊那郡に入った。


 2月16日、中山道に侵入して織田軍を追いかけた今福昌和は木曾義昌の待ち伏せに会う。鳥居峠の上りで仕掛けられた昌和は地の利を悪さを悟って止む無く後退する。しかし後方からは織田長益隊が矢を射かけて来た。織田軍に挟まれた昌和はこれでは勝てぬと判断し、山へと逃げ込んだ。武田軍は五百の損害を出して敗走する。

 勝利した織田軍は鳥居峠を越えた所で軍の再編の為一旦進軍を止めると、2月18日には北上を再開する。そして2月21日には山を越え桔梗原に到着した。

 武田信豊はほぼ無傷でやって来た織田軍を見て、無理に戦うことはせずに、勝頼のいる上原城へ撤退した。

 武田軍が諏訪湖の対岸に撤退したのを確認した織田長益は、2月23日に金森長近を北信濃方面に展開させ、深志城を守る馬場昌房に備える。昌房は織田軍が陣を張って待ち構えているのを知ってはいたが、北信濃衆の集まりが悪く、兵数を揃えられないことにより城を出られずにいた。



 天正10年2月22日、浜松城の徳川家康は一万二千の軍勢を用意した。自身の旗本衆三千に加え、西三河衆から松平信一二千、東三河衆から本多広孝三千、遠江北部から大久保忠佐二千、東遠江から石川家成二千を集結させ、満を持して浜松城を出陣する。徳川軍は最初の補給地として高天神城へと進む。24日には高天神城へ到着し、家康は休息がてらに松平康親を呼び出した。


「状況はどうなっている?」


 家康が聞いたのは信濃に進軍した織田軍の事だった。だが、遠方である上に服部衆を駿河に向かわせていた康親は大した情報を持っていなかった。


「敵は戦わずして城を捨て逃亡している、とは聞きました。当初の予定では、そろそろ高遠城に到着し、岐阜本隊と合流して城攻めを行うあたりでしょう。」


「ふうん……勝てそうか?」


 家康には武田軍は強い印象を持っている。大軍でもって城攻めをしたとして勝てるかどうかが不安であった。


「信濃の国衆は武田に合力することを躊躇っているように御座います。武田に付いて負けようものなら織田家に領地を没収されまする故。」


「国衆らは武田が負けると思っておるのか。…我らが向かう駿河もそうか?」


「駿河は義を重んじる者ばかり。まともに戦えば苦戦は必須です。ですがご安心下され。此度は穴山の呼びかけに応じる者が多いと聞いております。問題なく駿府城までたどり着ける見込みに御座います。」


 家康は康親を胡散臭そうに見た。今一つ穴山梅雪の寝返りを信じていないようであった。


 2月26日、家康軍は高天神城を出発すると、海方面へ軍を進めると小山城を目指した。小山城主、大熊朝秀は武田の重臣で勿論梅雪の呼びかけには応じていない。駿河奥深くまで侵入する為にも潰さなければならない城の一つであった。

 だが、その小山城からは煙が上がっている。随伴していた榊原康政がすぐさま煙の理由に感づいた。


「敵は城を捨てて逃げたようです。あの煙は城に残る糧秣を焼いたもの…如何致しまするか?」


 康政は家康に馬を近づけて訪ねる。家康は無言で軍配を前に振った。近くの小姓が馬の腹を蹴って飛び出す。それに続いて二十騎ほどが小山城へ馬を飛ばした。

 康政の予想通り、小山城はもぬけの殻であった。城内の蔵が焼かれ煙が吹き出している。これで徳川軍は小山城に向かう理由がなくなり、進路を北に変えた。続いては、同じく梅雪の呼びかけに応じていない、田中城の依田信蕃(のぶしげ)であった。



 2月28日、織田信忠本隊が信濃高遠城に到着した。既に河尻秀隆隊の八千が武田軍の放棄した山田城周辺に陣を張り、高遠城を監視しており、信忠は秀隆の案内により山田城内に本陣を構えた。

 秀隆から状況を聞いた信忠は、高遠城を落とすべく、城攻めの準備に取り掛かる。城の周囲に簡易砦を築き、周囲の山にも兵を配置して逃げ道も塞いでの総攻めの準備であった。

 3月2日、早朝から城攻めが始まる。森長可が果敢に西門に襲い掛かり、西門は堪え切れずに僅か一刻ほどで破壊される。そこからは雪崩の如くで三の丸、二の丸と占拠し、残るは本丸のみとなった。城将の仁科盛信はもはやこれまでと、本丸で自刃を選択し、高遠城は半日で落城した。

 3月3日、高遠城陥落の知らせは武田勝頼にも届き、家臣らにも動揺が伝わる。高遠が落ちた以上、軍をこの上原城に置いておけば、織田軍に挟撃される恐れがあり、3月4日、勝頼は新府城へと撤退した。

 だが、その途中、兵が逃亡し始めてしまい、一万を超えていた武田軍が、新府城に着く頃には二千人を切るほどにまで減っていた。



 3月3日、田中城を包囲した徳川家康は、城主の依田信蕃に降伏勧告を送るも、信蕃はこれを跳ね付け抗戦の構えを見せる。家康は大久保忠佐と本多広孝に包囲を任せ、駿府へ向かった。

 3月4日、朝比奈信置の守る持舟城を落とし、安倍川を渡って5日には駿府に到着した。駿府今川館があった場所に二百ほどの兵が徳川軍を待ち受けており、松平康親と岡部元信で先行して館跡へと向かう。堀を抜けた先の曲輪で僧姿の男と、甲冑姿の男を見つけた。康親はそっと岡部元信に視線を送る。元信は頷いて合図を返した。それを見て康親は二人に近づいた。


「お初にお目に掛かる。…我は福釜の松平三郎次郎康親で御座る。…穴山梅雪斎殿とお見受け致す。」


 康親の掛けた言葉で僧姿の男が前に進み出た。


「梅雪に御座る。拙僧の書状を信用下さり感謝いたしまする。」


「我が殿は貴僧の英断を褒めておられた。織田殿より穴山家の処遇についての沙汰を承っておる故、我が殿にお会い下され。」


 康親は兜を脱いで丁寧に挨拶をした。梅雪は康親の凛々しい顔をみて感心したように眺めた。


「…長坂殿からは伺っておりましたが、良いお顔をされておられる…。」


「貴僧が世辞を言われる御方とは思いませんでした。」


「世辞では御座らぬよ。“徳川の鬼謀”と呼ばれ恐れられておりましたのでな。鬼のような方だと想像しておりました。」


 康親は呆れた。信長からは“坊主らしからず”と呼ばれ、此処では“鬼謀”か…この先、誰に何と呼ばれるか考えただけで面白くなくなった。話を変える為に康親は隣の男を見る。


「この者は?」


 その時岡部元信がすっと康親の横に並んだ。


「岡部正綱殿。某の族兄になる。清水湊の船衆を束ねておる。」


 元信の説明で正綱が一礼した。


「駿河水軍衆は梅雪殿の求めに応じておりまする。海から徳川殿を狙う者は御座いませぬ。」


 成程。海の安全を示す為に連れて来た訳かと、康親は納得した。


「では此方へ。間もなく我が殿が到着されます。」


 少しして徳川家康が一万の兵を率いて到着した。仮の陣幕が用意され、そこで梅雪は家康と面会した。


 陣幕には上座に家康が、中座に矢盾の机を挟んで榊原康政、本多忠勝、鳥居元忠、松平信一が床几に座って居並び、二人の面会人の側に井伊直政が槍を立てて立っていた。二人を連れて来た康親と元信は後ろに控える。


「面を上げられよ。」


 その声で梅雪は顔を上げ、上座に座る男の顔を見て、驚きの表情を見せる。思わず後ろを振り返り康親と目が合った。


「どうした?」


 家康が尋ねたが、梅雪は何度か家康と康親の顔を見返した。


「は!…失礼致した。徳川殿が余りにも福釜殿に似ておられたので、つい…。」


 家康は一瞬きょとんとした顔をしていたが直ぐに笑った。


「久方ぶりに聞いたな。昔は家臣らから何度か言われたものだが…。」


 家康と康親の顔は確かに似ていた。幼い頃はそうでもなかったが、成長するにつれ二人の顔つきは似たものになり、これを嫌った康親はわざと眉を整え、顎鬚を濃く生やして印象を変えている。さっきまで康親の目鼻立ちを見ていた梅雪は同じ顔が上座にあった事で康親=家康と思ってしまったようであった。


「梅雪殿は此処に来られる前に私の顔を見て“凛々しい”と申されました。…では殿も凛々しいのでは無いのですかな?」


 康親は場を乱してしまった梅雪に助け舟を出す。梅雪は慌てて身体を向き直して頭を下げた。


「申し訳御座らぬ。あんな凛々しいお顔はそうそうない故、思わず見返してしまいました。」


 “凛々しい”と言われて満更でもない様子の家康は機嫌よく頷いた。


「良い良い。似ておるのは事実だ。…さて、織田殿からの沙汰じゃが……。」


 家康は本題に入る。信長からは当方に味方する見返りとして、甲斐の本領、駿河の江尻亮の安堵、息子勝千代への武田家相続の承認を約束した。これらを記した信長からの書状を梅雪に渡す。梅雪は恭しく受け取った。


「此処からはどうされまするか?」


「織田殿の軍の様子が判らぬ。我等も甲斐へ向かいたい。…案内を頼めるか。」


「承知致しました。これより興国寺城までは拙僧の求めに応じて御味方となっておりまする。蒲原から甲斐へ向かえば道中は拙僧の領内を取りまする故、安全に行軍できまする。」


 梅雪の頼もしい言葉に家康の顔が綻ぶ。


「では、明日にでも出発し甲斐を目指す。…梅雪殿は道案内として儂と共に行動せよ。」


 こうして、家康はこのまま駿河を通過し甲斐に向かうこととなった。


 3月6日、徳川軍は駿府を発ち、駿河を北上した。3月9日には蒲原城に到着、そこから北へと進路を変え甲斐へと向かった。



 3月9日、武田勝頼は新府城を放棄する。城は未完成であった為、織田軍を相手に籠城することはできず、小山田信茂の岩殿城避難する事になった。だが、土壇場で小山田信茂は織田方に寝返り、岩殿へ向かうことができなくなった勝頼は、妻子と少数の家臣を引きつれ天目山へと逃げ込む。

 一方、甲府に到着した織田軍は逃亡した武田の将を捜索し、次々と捕らえていた。その中に信玄の弟、武田逍遙軒がいた。逍遙軒はその場では処刑されず、信忠の前に連れ行かれる。


「…貴様が逍遙軒か。無様なものだな。言いたい事があれば聞こう。」


 勝者の余裕で信忠は跪かされた逍遙軒に問いかけた。


「命乞いはせぬ。…だが聞きたき事がある。……武田の残るのか?」


「安心せよ。我が父は、穴山の倅が名を継ぐことを認められた。」


「…成程。裏切ったのは木曾だけではなかったか。兄への良い土産話ができたわ。…さあ殺せ。」


 納得した表情で逍遙軒は笑うと抑えつける兵の手を払いのけて首を前に差し出した。信忠は合図を送り、刀を構えた男が逍遙軒の横に立った。掛け声と共に刀が振り下ろされ血飛沫(ちしぶき)が飛び散る。


 武田逍遙軒は織田軍によって処刑される。その他にも多くの武田の将が捕らえられ、処刑された。




 3月10日、上野国岩櫃城。


 新府城から真田源三郎信幸が到着した。父昌幸は息子が武田勝頼を連れて来ると思っていたが、単独での帰還であった。


「やはり、甲斐から離れる事を良しとせなんだか…。」


「御屋形様は小山田殿の岩殿城へ向かわれました。…大丈夫で御座いましょうか。」


 不安そうな顔で尋ねる信幸に昌幸はやや悲し気ながらも威厳に満ちた態度で答える。


「…負けるであろうな。この岩櫃城にお越し頂けなかった事でな。」


「今からでも兵を整え救援に向かえば…」


「兵を動かせば織田殿との約を違える。それに北條がこの地を狙っておる。迂闊には動けぬ。」


「…我らはどうなるのでしょうか。」


「知れた事を。織田家の家臣となるのだ。…後は、どれだけの領地が手元に残るかな……。」


 昌幸はまだ寒さの残る空の景色を眺めた。



織田信忠

 織田家当主。当主としての箔を付けんと父から甲州征伐を任される。その期待に応えて一月で解にまで侵攻する。


河尻秀隆

 織田家家臣。信長の母衣衆から信忠直臣に抜擢。甲州征伐では一軍を預かり南信濃制圧と言う大きな功績を挙げる。


森長可

 織田家家臣。織田家重臣森可成の息子で信忠の直臣。高遠城攻略で城内一番乗りを果たし多大な戦果を上げる。


遠山友忠

 織田家家臣。東美濃の国人で信忠配下の将。


団忠正

 織田家家臣。美濃出身で信忠の小姓衆の一人。


織田長益

 織田家家臣。信長の弟で、後の有楽斎。中山道方面の大将として北信濃の攻略を行う。


金森長近

 織田家家臣。柴田勝家の与力として北陸方面、飛騨制圧に活躍。


木曾義昌

 織田家家臣。武田家を見限り織田家に内通する。南信濃の所領安堵が約束されている。


小笠原信嶺

 武田家家臣。松尾小笠原家の当主で武田信玄の時代から信濃先方衆として活躍。しかし、甲州征伐では勝頼を見限り、織田家に降伏する。


保科正直

 武田家家臣。信濃先方衆の保科正俊の子。高遠城で織田軍と戦うも二の丸を占拠された時点で城から逃亡。


今福昌和

 武田家家臣。高遠城で籠城するも本丸まで攻められ自刃する。


松尾頼貞

 小笠原家家臣。堅城松尾城を預かっていたが、一万以上の大軍に怖気づき織田軍に降伏する。


馬場昌房

 武田家家臣。馬場信房の子で北信濃の深志城を預かる。甲州征伐では兵を思う様に集められず、打って出る事をしなかった。


大熊朝秀

 武田家家臣。織田軍が信濃に攻め込んだことを聞いて城を捨てて甲斐に戻る。その後は勝頼と最後まで行動を共にする。


依田信蕃

 武田家家臣。二俣城、高天神城、田中城と常に徳川最前線の城を守っている。


朝比奈信置

 武田家家臣。駿河先方衆の筆頭として持舟城を守るも徳川軍の猛攻に降伏する。


小山田信茂

 武田家家臣。信玄時代からの古参の将であったが、織田軍が交付に攻め込んで来たところで武田勝頼を裏切って岩殿城までの山道を通行止めにする。


仁科盛信

 武田家家臣。信玄の五男で高遠城主。織田軍に攻められた際には最後まで奮闘するも負けを悟り自刃する。


武田逍遙軒

 武田家家臣。信玄没後は徳川家調略に暗躍するも後一歩の所で阻止される。織田軍に捕まり信忠の前で斬首される。


武田勝頼

 武田家当主。その版図を父よりも広げながらも、国衆らの疲弊と不審を招き、国を弱体化させてしまう。織田軍の侵攻を許し居城である新府城を捨て天目山へと逃げ込む。


穴山梅雪

 武田家家臣。信玄の母を姉に持ち、信玄の娘を正室に迎えた武田家中でも名門の一門衆。徳川家臣、長坂信宅の調略に乗り武田家を裏切り織田家に付く。


岡部正綱

 武田家家臣。清水湊の駿河水軍衆を束ねる。梅雪と共に織田家に寝返る。


真田昌幸

 武田家家臣。信長との密約で、武田家救援の兵を出さず、北條に備えて上野の守備に就いていた。密かに勝頼を匿おうと画策していたが、勝頼が甲斐を出る事を嫌い断られる。


真田信幸

 武田家家臣。昌幸の長男。人質として新府城に居たが勝頼が駿府城から退去する際に解放され岩櫃城へと戻る。その際に昌幸の誘いを勝頼に伝えるも断られる。



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[気になる点] 「駿河は義を重んじる者ばかり。まともに戦えば苦戦は必須です。ですがご安心下され。此度は穴山の呼びかけに応じる者が多いと聞いております。問題なく駿府城までたどり着ける見込みに御座います。…
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