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81.叔父にできる事

三話連続投稿の二話目です。

いよいよ信康事件の全貌が明らかになりまする。



 天正7年5月末、岡崎でにわかに騒動が起こる。

 鷹狩りでの獲物の取り合いで、大草松平家の家人と長沢松平家の家人との間で喧嘩沙汰が起こった。事態を収拾しようと徳川信康が騒動に加わった家人を全員捕らえ、これを罰しようとしたが、大草松平康安と長沢松平康忠が家人らの減刑を嘆願した。信康は此処で嘆願に応じて減刑すれば主従の関係が崩れると考え二人の願いを跳ね付けたが、なおも食い下がって来た為、止む無く処罰を保留とし、本多重次に助言を求めた。

 信康の考えとしては、家臣とは言え、一門衆からの抗議に自分だけで判断したくなかったのである。

 三河奉行が二人の仲裁に入ったことにより、二人の意見、捕らえられた家人らの意見が文書として作成され、主君の裁可を仰ぐべく、書状が浜松に届けられた。本多重次はその異名に相応しく、家人らの打ち首、康安と康忠の蟄居謹慎の旨を認めて送って来たのである。此れには二人の松平も反論し、共に減刑を求めて家康に訴えの文を送る。信康も厳しすぎる処罰に父への嘆願の文を送った。

 騒動の当事者、処罰者、裁定者の三者からの文を受け取った家康はうんざりした。すぐさま、松平康親を召喚し、事の次第を聞きとる。


「…三河の法は作左衛門殿に御座る。彼の裁定を蔑ろにしてはお立場がありませぬ。…されど作左衛門殿が殿に文を送った理由は、敢えて殿の仲裁を仰がんが為。此処は殿が岡崎に出向き、二人に申し開きをさせるのが宜しいでしょう。」


 康親は本多重次の考えを読んで家康に進言した。榊原康政も鳥居元忠もこれに同調した為、家康はしぶしぶ岡崎へ出向くこととなった。


 6月5日、家康が岡崎城に入る。最初に信康が認めた彼らの罪状を確認し、本多重次の裁定を是としたうえで家康の名でもって取り成しを行った。家康は家人らを打擲のみとし、主たる康安、康忠を一か月の登城差し止めと成した。


 信康は父に感謝の礼を述べ、膳を用意しようとしたが、浜松に戻りたい家康はこれを断りさっさと浜松に戻ってしまった。この時、正室の築山御前に会うこともせずに岡崎城を出て行った事で、信康は大きく心を痛めた。




 7月12日、夜番をする永井直勝の下に見知った男が静かに近づく。男は無言で頭を下げ直勝の動きをじっと待った。直勝には疑問があった。浜松の殿と誰にも知られずに交わす密儀…それは一体何なのだろうか。そして何の為であろうか。だがそれをこの使者に対して聞くことはできず、やがてゆっくりと歩きだし、信康の寝所へと導いた。


「若殿様…例の者が参っておりまする。」


 以前と変わらぬ口上。前と変わらぬ返事。そして全く変わらぬ男の足運びに部屋の中に消えゆく姿。直勝は疑問から疑念へと変わってゆくのを感じ取った。




 7月13日、信康はいつもの様に弓の稽古に勤しんでいた。小姓の植村新六郎から矢を受け取り弓に番える。弓を引いては矢を放ち、新六郎から矢を受け取ってまた弓を引く。一心不乱に矢を放つ(さま)を、老齢の松平重吉は若き家康の面影を見るように眺めていた。


「随分と上達されましたな。」


「…毎日やっておるのだ。上達していなければ身も蓋も無い。…どうして此処へ?」


「大草殿と長沢殿が何やら密談をしておりました。謹慎が解け若様の御為に働かねばならぬと言うに、たくらみがあるような素振り…若様もお気を付けなされませ。」


 重吉はゆっくりとした動作で頭を下げる。信康にはそれが不安を煽っているように見えた。


「気になるのなら、先生の耳にも入れておいてくれ。」


 そう言うと信康はまた弓を引いて的を狙い見た。



 7月14日、家老らが話していた内容が松平康親にも伝わる。康親は服部衆を集め何事か指示を出すと、平岩親吉を訪ねた。


「至急、家老衆を全員御集め頂きたい。」


 理由は言わなかったが、康親の切羽詰まった表情に押され親吉は執務室などを回り、家老衆らを集めた。

 信康の付家老は、能見の松平重吉を筆頭に、長沢の松平康忠、大草の松平康安、伊奈忠家、傅役として榊原清政、天野繁昌、そして末席に伊奈忠次となっている。その全員が集められ、呼び出した張本人を待った。暫くして松平康親が永井直勝を伴って部屋に入って来た。その瞬間に康安と康忠が「あっ!」と声を上げた。康親は二人の声を無視して厳しい表情で一同を見返し、上座に腰を下ろした。家老衆を前に不遜な態度である。だがそれ以上に凄味のある顔をした康親に圧倒され、一同は何も言えずに黙ったままであった。


「……大草殿、長沢殿が何やらこそこそとされているようで、事情を知る者から話を聞いた。」


 康親はギロリと直勝を見た。直勝は「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。


「夜な夜な、若殿に密談し来る者在りけり。男は浜松からの使者と偽って(・・・)若殿に近づかん。…伝八郎、相違ないか?」


「は、ははい!相違御座らぬ!」


 完全に気圧されている直勝は声を裏返らせて答える。


「その男の怪しかるべき段、伝八郎から承ったと聞くが…大草殿、長沢殿、相違御座らぬか?」


 康親の首が今度は二人の家老に向けられた。


「お、おう…話は、き、き聞いた。それが如何した?」


 上ずった声で康忠が答える。


「別に見た訳でもなく、聞いた話だけでどのような妄想を膨らませ、誰にその話をした?」


 康親の問いに康安がかっとなった。


「何じゃその言い草は!我らを誰だと心得ておる!」


 立ち上がって反論する康安を康忠はひと睨みしてさらに低い声でもう一度聞いた。


「誰に、何を、言うた?」


 康親の恐ろしげな顔に康安は力無く座り込んだ。



 松平康親にとっては完全に裏を掛かれていた。久方ぶりに駿河先方衆からの文が届き、交渉の再開を頼み込んで来た為、服部衆も探りを入れる為にそちらに回してしまっていた。だがこれではっきりした。駿河先方衆の動きは康親の動きを抑える為の(きょ)であると。これで駿河への間諜は始めからやり直しである。だが、そんなことは今はどうでもいい。問題は康親が駿河に目を向けていた間に密かに行われていた岡崎への仕掛けである。


 松平康安と康忠は永井直勝から定期的に浜松の使者と言うて信康の寝所に入る男の事を聞くと、碌な調査もせずにその男の正体を衆道の相手と決めつけ、何人かの城内の者に話していた。噂は直ぐに康親の耳にも入り、事態の収拾に動く羽目となった。

 まず男の正体を探るべく半蔵に聞き込みに走らせた。次に直勝に男か信康の部屋に入っている時の様子を問い詰める。


「聞いたであろう。男が中にいる間は紙の擦れる音しか聞こえなかったそうだ。これが何故衆道者と言える?事の重大さも判らず、噂話に勤しみおって……若殿の家老がそれで勤まるとお思いか!」


 稲光ような康親の大喝に部屋に居た者全員が腰を抜かした。それほどまでに康親の怒りは凄まじかった。


「大草殿、長沢殿、御二人にはこれより我の屋敷に入って頂く。伝発郎…お主もだ。事の次第が判るまで出られぬとお思い下され。半左衛門!城内の者に「あの噂は間違いであった」と触れ回せ。七之助殿、城に出入りする者に聞きまわり、噂を聞いた者はそのまま押し留めよ。我が直接話をする。能見殿、伊奈殿、これより若殿の部屋に参る。ご同行されたし。」


 康親の迫力のある命令に一同は従った。目の前に家康がいるようで、従わずにはいられなかった。



 信康の私室。今は安藤定次と将棋を指している最中であった。そこに荒々しく襖を開けて松平康親が乗り込んでくる。その姿に信康は一瞬父の面影が映る。だが直ぐに「何事ぞ!」と叫んだ。康親は無言で将棋盤を横に避けてどさりと腰を下ろした。初めて見る先生の怒りに満ちた顔。信康は恐怖を感じ、そしてその中で何で先生が此処に来たかを悟った。


「我に隠し事をされているようで…。それを聞きに参上仕りました。」


「その物言い、無礼であろう?」


 信康は康親に気圧されんと強がって見せた。だが康親の言葉に変化は無かった。


「寝所に出入りしたる男が居ると聞きました。下々の者はそれを若殿の衆道相手と噂しております。」


「そ、そのような訳…」


「ある筈が御座いませぬ……では何でしょう?」


 康親の顔が更に近づく。


「……父の使者だと…申しておった。」


「その者とはどのような会話を?」


「話はしておらぬ。書状を持って来るのでその場で読んで返事の書を認めて…。」


「その書はいずこに?」


「その場で焼き捨てておる故、残っておらぬ!」


「何が書いてありました?」


「母を大切にせよ…など「嘘ですな」…な!」


「最初は浜松からの文だと思うたやも知れませぬ。しかし途中でおかしいとお気づきになられたのでは?」

「何故そう思う!?文には母を気遣う文が」


「我が友、蔵人佐は左様な事を密使を遣わして子に送るなどといった後ろ暗い真似などせぬ。」


 家康を“我が友”と呼んだ事で空気が変わる。同行していた松平重吉も伊奈忠家も康親がただ事ならぬ雰囲気にあることを察知した。


「今更、蔵人佐が若殿の母君にお気を付かれるとお思いか?」


 康親の厳しい問いかけに信康は押し黙った。


「誰の使いです?何が書かれておりましたか?」


 康親はなおも問い詰める。信康は観念した。


「武田方の瀬名信輝という者だ。母を御救いしたいと申し出ておりました。」


 康親は項垂れる。よりによってあの男か。大胆な行動にでたものだとため息をつく。それよりも信康の方だった。今や軟禁状態の築山御前をどうやって救うのか。餓鬼でもわかる道理だ。


「瀬名家は母とも縁戚の家柄だ。ここに居辛いのならば引き取ると申し出されたのだ。」


「そんな事をして何になるのです?我が姉は(・・・・)若殿の側に居たいと思いこそすれど、甲斐の山奥に行きたいとは思いませぬぞ!」


 今の言葉に全員が驚いた。康親の出自は信康以外は知らない。それなのに突然「姉」と言い出したのだ。


「瀬名信輝は我が義弟…今川の時代より謀略で氏真の側近となり、その謀略でもって今川家を陥れ、武田を駿河に引き込んだ者に御座る。斯様な男が何も無しに姉を引き取りはせぬ。」


 次々と明らかにされる思いがけない事実。周囲の者らは何も言えず、呆然と立ちすくんでいるだけであった。


「引き取るなら、弟たる我が適任で御座りましょう。…何故…何故…」


 康親の声は震え始めた。


「何故、この叔父に相談してくれぬのです?」


 信康は堰を切ったように涙を流し始めた。そしてため込んでいた自分の思いを吐き出す。


「叔父上は…叔父上は我が母を肉親と思うておられるのですか?…私には左様には感じられない。だからこそ、相談ができなかったのです!」


 今度は康親の方が言葉を詰まらせた。



 康親には前世の記憶がある。当然、そこで両親がおり兄弟がおり妻子供がいた。突然、戦国時代に飛ばされて飛んだ先の身体の血縁を親兄弟と言われても馴染みがない。それでもこの身体の生みの親には親子の触れ合いが長い間行われた事で、この時代での親と認識することができた。だが触れ合いの少ない父やほとんど触れ合いの無かった兄弟とは血縁者とは思えなかった。だから人質交換で鶴姫が三河にやって来た時も喜ばず、三河一向一揆でも反乱の象徴とされるのを避ける為に警護しただけであった。先の側女問題でも肉親としての悲しみは一切沸かなかった。此度も血縁として訴える事で信康の心情を震わせたかっただけだった。

 それを見事なまでに信康に指摘されたのだった。康親としては咄嗟に返す言葉が出なかった。叔父として訴えたのに自身の中には甥として見れていなかったのだ。


「…若殿……。」


 だが、此処に来て康親には信康を見る目に愛おしさが芽生え始めた。それはこれまで師事してきた期間と岡崎から遠く離れた期間、そして岡崎に居ながら信康に遠ざけられていた期間からようやく生まれた感情であった。無意識に伸びる手が信康の頬に触れその涙が康親の指を伝う。

 そこで今更ながらに信康の抱いている心情の一端を垣間見る。


 信康は徳川家の嫡男として成長せんと言う思いと家老衆から物差しを測るような目で見られる視線と強大な重圧の中で独り戦っていたのだと。

 康親は頬に触れた手をゆっくりの信康の背中に回す。そこから身体を引き寄せ力強く抱きしめた。子供の様に号泣する信康。それをあやすかのように康親は彼の背中を撫で続けた。




 7月20日、岡崎の諸事を松平重吉に任せ、松平康親は服部正成と永井直勝を伴って浜松へ向かった。

 信康の家老の松平康安と松平康忠を更迭し、政務を伊奈忠家、忠次親子で取り回すよう指示し、平岩親吉を城代、榊原清政をその補佐に任じた。本来康親に権限などないのだが、誰も反論できないほどの強権でもって推し進め、城内の武士の取り纏め、委細の説明を老齢で威厳のある松平重吉に頼んだ。

 信康に付いては本丸御殿の私室で謹慎とし、安藤定次、植村家次に監視兼護衛を命じた。




 史実では、天正7年8月に家康の命で信康は岡崎城を退去し、その後、二俣城に移され、そこで自害する。だが、康忠はこの未来を覆さんと発起した。重圧に悶え苦しむ甥をどうしても見捨てる事ができず、命を懸けて家康に助命を嘆願すべく、浜松へ足を進める。




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