73.設楽原の戦(決着)
連続投稿二話目です。
話は「長篠の合戦」の決戦となります。
馬防柵とか三弾撃ちとかで有名ですが…
物語の第七章はこの戦いの後が本編となります。
天正3年5月21日、武田軍は西に構える織田徳川連合軍の本隊に向かって進軍を開始した。連合軍の別動隊が東側に布陣したことで、退路を断たれたような格好になり進退窮まっての進軍のように見えるが、実際は過信した勝頼の独断による進軍であった。長篠城包囲軍の一部が寒狭川北部で軍を再編したことで、甲斐への撤退路は確保できていたものの、何も成果を得られずに撤退することは武田の威信に傷がつくと、勝頼が家臣の反対を押し切って先鋒の真田隊に突撃を命じたのだった。
朝間と呼ばれるうちに武田軍は動き出した。真田信綱、昌輝率いる二千に続いて、馬場隊、山県隊の四千が西へと向かう。この時点で武田軍の目標は連合軍側の第二陣である丘陵に構える陣であった。
進軍速度は徐々に速まり、西から弓矢の応酬がないことから騎馬隊が前に出る。隊は突撃の陣形へと変わり歓声と共に走り出した。そして連吾川に差し掛かる下りに騎馬隊が入って状況は一変する。
川の対岸には弓矢、鉄砲を構えた連合軍第一陣の兵が待ち構えており、真田隊は敵の攻撃を真正面から受ける格好となった。
「今更変えることもできぬ!このまま突撃を敢行せよ!」
信綱の号令で騎馬兵が槍を構えて突撃した。これに対し初手の斉射を任された滝川一益が軍配を構え相手の動きをじっと見つめていた。
「…まだじゃ。敵が川を渡り切るまで待て!」
大地を揺るがすような蹄の音が、水をかき分ける音に変わり、敵の顔が判るほどにまで近づいた。
「放てぇ!!」
一益の号令が掛かり、矢と鉄砲の玉が一斉に放たれる。続いて、柴田隊、羽柴隊、河尻隊からも矢玉が放たれた。至近距離での一斉射撃。真田隊は身構えることもできず、騎馬諸共撃たれて次々と倒れていく。続いて二斉射目が放たれ、悲鳴と嘶き、怒号と罵声が轟き、更に多くの人馬が倒れた。運よく当たらなかった者は敵陣にたどり着くも馬防柵に阻まれ勢いが止まる。そこへ槍を揃えた織田軍の足軽隊が突きかかった。武田兵は次々と突き殺されていく。それでも真田隊は怯むことなく突撃を敢行した。
茶臼山、連合軍本陣では武田の突撃の様子が見て取れた。圧倒的に優勢に進められていく戦況を徳川信康はじっと見つめている。初めて見る大戦に身体が震えてきた。そこへ松平康親がすっと近寄り肩を叩いた。
「若殿…よおく見ておきなされませ。戦が始まれば良いも悪いもありませぬ。人と人とが殺し合うのです。ただそれだけです。その為、戦を指揮する者は如何にして有利に殺し合うかを考え、これを怠った者は、多くの兵を死なせ敗北するのです。」
信康はブルっと身を震わせた。
「…始まれば只惨い殺し合いでしかないのか。」
「まあ、それだけではない場合もありますがね。…ほれ、我の指す方向に二騎の武者が見えまするか。あの長い槍は本多平八郎殿に御座りまするな。良き相手を見つけたように御座います。」
「良き相手?」
信康は康親の指す方を目を凝らして見た。
武田軍は第二陣も突撃させ最前線では混乱に近いような大混戦になっていた。その中で家康の側近である本多忠勝は愛槍の蜻蛉切を抱えて馬を進めていた。不意に足軽をなぎ倒して敵将が前に躍り出てきた。その恰好を見て、忠勝は敵方の歴戦の勇将であると判断し、槍をグイっと扱いた。
「名のある者と心得る。某は徳川三河守が家臣、本多平八郎と申す。」
相手は忠勝の名乗りを聞いてニヤッと笑った。
「儂は馬場美濃守信春である!本多殿の名は儂の耳にも聞き及んでおる。」
「おお、其方が馬場殿か!良き相手ぞ!」
忠勝は馬を嘶かせ信春を正面に槍を構えた。これに信春も合わせて槍を構える。一騎打ちの始まりであった。
二人の初手は互いに突きであった。突きながらも相手の槍を肘でいなし、軌道を逸らせる。続いては忠勝が突きで信春が払い。信春の槍が忠勝の突きを払う格好となった。すぐさま次の攻撃の体勢に入る。暫く互いに様子を見た後槍を繰り出すも互いにはじき返された。更に数合打ち合いが続く。結局お互いに一撃も与えられぬまま、別の足軽の押し合いが間に入って来て一騎打ちは中断された。
「本多殿!良き相手で御座った!」
信春は豪快に笑うと馬を返して砂埃の舞う中に消え去った。忠勝は蜻蛉切の様子を確認すると、呼吸を整え次の相手を求めて戦場を走り出した。
戦端が開かれて一刻半…戦況は武田軍第一陣である真田隊が壊滅し、第二陣の馬場隊、山県隊も大きく隊列を崩されていた。武田勝頼の傍で状況を見ていた内藤正豊は、主君に出陣の下知を求めた。
「御屋形様…間もなく前方の味方は崩れ、逃げに転じましょう。そうなると敵は追撃を始め、その流れは止められなくなりまする。…撤退の準備をなさいませ。某が三千を率いて敵の攻撃を受け止めまする。」
勝頼は正豊の声を聴いても呆然としたままであった。真田の突撃を止められ、馬場、山県の猛攻も押し返し、三陣にまで食い込んできた。あり得ない光景に頭の中は真っ白であった。
「喜兵衛。」
正豊の呼びかけに武藤喜兵衛が返事をする。
「御屋形様を頼む。儂は敵の追撃を食い止める。」
「……承知いたしました。」
全てを察した喜兵衛はそれ以上は何も言わず、武田勝頼に優しく手を掛け陣幕の外に連れ出して行った。勝頼の出て行く姿を見届けると正豊は兜をかぶり緒を締めた。
「此れより!自らの命尽きるまで!敵を屠りに参る!儂に続けぇ!」
正豊の号令で武田本陣に残っていた四千が一斉に歓声を上げた。既に周囲は織田徳川方の足軽に囲まれており、隊列を組んでの突撃は難しい様相をしていた。
こうして武田軍の撤退戦が始まった。
織田軍主力である第一陣の将らは追撃戦に移ったことで休息に入った。指揮下の多くを弓隊、鉄砲隊で構成しており、槍衾隊は休まることなく食らいつこうとする武田軍の猛攻に晒され疲弊しきっていた。代わって追撃の為に前に進み出たのは徳川軍であった。彼らは騎兵と軽装の足軽のみで構成され、川を渡って東へ逃げ帰ろうとする武田軍を追いかけて連吾川を渡って前進した。これに第二陣で構えていた徳川軍の本隊が続く。この動きは信長が考えた通りの作戦であった。
「敵を止めるは我らの役目、敵を追うは三河守殿の役目……これは三河守殿の戦じゃからの。余り目立っては失礼というものだ…フフフ……」
戦が想定通りに進んだことで御機嫌の織田信長は独り言を呟く。傍に控えていた蒲生忠三郎はその言葉を耳にしていたが、返事を求められているわけでもないので、じっと控えたままでいた。
「…勘九郎、よく覚えておけ。味方の扱い方と言うものをな。これで武田は暫くは自領に引き籠る。後は徳川がじわじわと弱らせるであろう。」
信長の言葉に忠三郎が振り向くと、そこには織田信忠が立っていた。何かを言いに来たようでその顔は曇っていた。
「……第一陣を下がらせても良いのですか?まだ武田兵は残っているようですが。」
「一度付いた勢いというものは早々止められるものではない。追い打ちは徳川の兵だけで十分であろう。それに追い打ちというのは意外と兵を失うのだ。左様な事は援軍の我らの役目ではない。」
「しかし、それでは武田勝頼を討ち漏らすのでは?」
「討たれては逆に困る。……徳川が武田の大将首を取れば、その勲功は大きすぎる。周辺の勢力関係が大きく変わり、援軍の我らが礼を申さねばならぬ事態となろう。それに今の我等では武田の支配域を併呑しても支配しきれぬ。…武田の領土に手を出すのはもっと畿内が安定してからだ。それまでは徳川に相手させておけば良い。」
信長の考えを聞いた信忠は理解したようで頭を掻いて自分の浅慮を誤魔化す仕草をした。
「流石は父上に御座いまする。某はまだ考えが足りませぬことを痛感致しました。忠三郎もそう思うであろう?」
忠三郎ははははと笑った。何で自分に聞くのだと内心思う。主君の口にした内容は余りにも大胆な戦略構想。某如きが理解できる内容ではないと心の中で悪態をついていた。
戦局は終盤に差し掛かっていた。第一陣第二陣は既に壊滅しており、戦う者はおらず追いかける徳川兵から逃げている状況にあった。追いつかれれば槍を刺され首を取られる。逃げるにしても憔悴しきった体では逃げ切れるわけでもなく、武田兵は次々と討たれて行っていた。真田兄弟は最初の突撃で矢玉を受けて討死しており、山県昌景も既に首を取られていた。武田軍の後続隊は既に撤退を始めており、順次戦場から離脱している。徳川軍の追撃を押し留めている部隊は馬場隊と内藤隊だけとなっていた。その馬場隊は大久保隊に囲まれて逃げ場を失い、本多忠勝と激闘を演じた馬場信春も最期は足軽の槍に腹を突かれて絶命した。残った内藤隊に仕掛けたのは本多忠勝隊であった。
忠勝は自ら先頭に立ち内藤隊に斬り込んでいく。正豊は逃げる味方の援護をせんと忠勝の前に立ちはだかり応戦した。ここで二人の動きは一騎打ちに変わる。忠勝の一撃が正豊の頬を掠める。正豊の突きが忠勝の兜を弾く。更に数合の打ち合いを応酬し、猛将同士の激しい打ち合いは誰も入り込める余地はなく、永遠に続くかと思われた。だが正豊の渾身の一撃が忠勝の蜻蛉切を大きくはじいた。空中を回転して蜻蛉切が舞う。忠勝は愛槍には目もくれず刀を抜いて身構えた。
「良き相手に御座る。…がいつまでも相手をすることはできぬ。我等は此処から引かせて貰うぞ!」
正豊は忠勝に槍を投げて怯ませると、そこから退散した。忠勝は追いかけようとする配下を制して自軍を顧みる。随分と引っ掻き回されたようで隊列は崩れていた。
「敵は後ろに下がって方陣を敷き直した!我らも陣形を組み直す!」
忠勝は追撃を中断し兵を集め直した。その間にも内藤隊の方陣は遠退いていく。忠勝は焦らず配下に号令を掛けた。
「敵の後ろには武田の大将がいる!我らは敵の方陣を左右から追い抜き、その後ろに居る大将に突撃せん!」
そう言って忠勝は隊を二手に分けた片方を自分が率い、もう片方を朝比奈泰勝に任せた。
「敵を追うぞ!」
忠勝の合図で一千の騎馬が内藤正豊らが密集して構える陣に向かって突っ走って行った。本多隊は一直線に敵に向かっていく。だが直前に二手に分かれ、左右に広がって行った。その瞬間、正豊は敵の意図を見抜き自陣も二つに分けて通り過ぎようとする徳川軍に襲い掛かった。だが忠勝はその動きを読んでいた。二つに割れた本多隊の後方から、鳥居元忠率いる騎馬隊が突っ込んできたのだ。自身の派手な号令と進軍は囮。本命は後方から凄まじい速度で追いかけてきた鳥居隊であった。
正豊は完全に隙を突かれた。そのことによって自分の周囲にも隙ができていた。馬蹄を響かせて近寄って来た朝比奈泰勝が鳥居元忠に気を取られている内藤正豊に槍を突き出した。一撃で胴鎧ごと正豊を貫き、馬から転げ落ちる。その瞬間に勝敗は決した。正豊を討取ったのを見届けた忠勝は追撃をの手を緩める。これ以上の追撃は自棄になった武田兵に思わぬ痛手を食らう可能性があり、これ以上追撃しても武田勝頼を追いつめることは不可能と判断したからだった。本多隊の停止を見て、鳥居隊、大久保隊も足を止めた。後は残った武田兵が逃げて行くのを見守るだけに留めていた。
天正3年5月21日夕刻、設楽原の戦いは織田徳川連合軍による圧勝に終わった。武田勝頼は側近らに守られて戦場を離脱し、寒狭川沿いに甲斐へと撤退した。この戦で武田軍は足軽兵を含めて八千に届く死傷者を出し、多くの武将を失った。
この戦での敗北は武田家に大きな損害をもたらしている。人的な損害もあるが、最も大きな損害は国力の低下であった。領内の兵糧が失われ、農業に携わる働き手を失い、収穫量を減らし、人口を減少させてしまう。武田家の諸将は多くの金銀、人的資源を支払って補填を行い、その結果多くの国衆が継戦能力を低下させた。勝頼は大軍を率いて戦を仕掛ける力を失った。武田家という権威こそはまだ保持しつつも、運営方針は外征から必然的に内政へと変わる。この機に乗じて徳川家は攻勢へと方針を転じる。
天正2年6月、長篠城の守将を務めた奥平家に長女亀姫を輿入させて奥三河衆との結びつきを強めた後、遠江北部の武田の諸城を次々と攻略し、遠江衆の安定化を図った。更には東遠江へも軍を進め、武田軍の拠点となっていた諏訪原城を落とした。更には高天神城攻略拠点とする目的で城東郡横須賀に築城を始めた。
だが、多大な戦果を挙げた徳川家にも大きな変化がもたらされていた。それは織田政権下における徳川家の立場と、嫡男信康との関係である。
設楽原で家康が信長と面会してから、家康の信長に対する態度が変わる。以前は同盟相手と言えど信長の事を家の仇と見て毛嫌いしており、積極的に交流しようとはしなかったが、戦以降はどこか尊敬の念を込めるようになり、文も認めるようになった。家臣から見れば明らかに信長を目上と見ている態度に映っていた。
逆に信康に対しては露骨に距離を取るようになった。設楽原の戦で信康は堂々とした態度で戦況を見ていたことで信長からも称賛され、家臣…特に西三河衆からの評価が高まっており、そのことが家康には気に食わない様子であった。また父よりも康親の事を慕っており、それが元で家康は信康の指南役を康親から外している。
天正4年3月、無職状態の松平康親に家康からの辞令が届く。それは康親の新たな活躍の始まりであった。
真田信綱
武田家家臣。信玄死後も信濃先方衆の大将として仕える。戦時には第一陣を仰せつかることが多く信玄、勝頼と二代に渡っての信頼も厚かった。設楽原の戦いで討死。
真田昌輝
武田家家臣。兄と共に信濃先方衆として活躍する。武勇に秀でていたと言われるも設楽原の戦いにて鉄砲玉を浴びて討死。
武藤喜兵衛
武田家家臣。信玄死後も勝頼の側近となって武田家に仕える。設楽原の戦いで兄二人が討死した為、真田家に出戻り、名を真田源五郎昌幸と改めて家督を相続する。
山県昌景
武田家家臣。設楽原の戦いで第二陣として出陣するも鉄砲玉を浴びて討死する。
馬場信春
武田家家臣。設楽原の戦いで第二陣として出撃、本多忠勝と壮絶な一騎打ちを演じるも決着つかず、最後は大久保隊によって命を奪われる。
内藤正豊
武田家家臣。設楽原の戦いで第四陣として出撃。この時点で武田軍は撤退モードとなっており、実質的な殿役であった。今川家臣の朝比奈泰勝に討取られる。
織田信長
織田信忠
設楽原の戦いを経て、二人は徳川家の扱い方を共有する。これ以降、家康の変心もあって徳川家は織田家の属国に変貌する。
蒲生氏郷
織田家家臣。元は近江国の出身で、六角家臣から織田家臣に服属する際に人質として岐阜に送られる。その器量を信長に気に入られ信長の娘を娶り一門格となる。設楽原の戦いでは本陣付きの小姓であった。
武田勝頼
武田家当主。設楽原の戦いでは家臣らの反対を押し切って決戦に挑むも大敗を喫し自失する。以降は国力の低下を招き内政に専念する。上杉謙信没後の「御館の乱」では上杉家との長期的な盟約を得るために上杉景勝を支援し、北條家との関係を悪化させた。




