72.設楽原の戦(前哨)
第七章の始まりです。
切りのいい形で話を進める為、二話連続投稿になります。
舞台は世に言う「長篠の合戦」になります。
…登場人物が多いので後書きが長文になっておりますがお許しを
三河国設楽郡。南北に山々が連なり、中央部は豊川が長い年月をかけて作り上げた平野が広がり、豊川沿いには三河と信濃を結ぶ別所街道と徳川家東三河衆に与する国衆の居城が立ち並ぶ。平野は大小様々な起伏のある丘陵に覆われ、設楽原と呼ばれていた。
天正3年5月初旬、長篠城は武田軍の攻撃を受ける。城に籠る奥平信昌は直ぐに援軍要請を送り、徳川家康は、岡崎、吉田、浜松から合計一万二千の兵を出陣させ、三河に侵攻してきた武田軍を迎え撃つ為にこの設楽原に軍を進めていた。
岡崎からは、総大将の徳川家康、嫡子信康の他に平岩親吉、福釜松平康親ら傅役衆、石川数正、藤井松平信一、久松松平定勝ら西三河衆、榊原康政、本多忠勝、鳥居元忠、大久保忠世、忠佐ら旗本衆が出陣し、吉田からは、酒井忠次、本多広孝、本多正重、菅沼定盈ら東三河衆が、浜松からは、内藤信成、大須賀康高、朝比奈泰勝ら遠江衆、更に荷駄衆として岡崎奉行の本多重次、遠江奉行の高力清長が出陣していた。
進軍の道中、康親は信康に馬を近づけた。信康は不機嫌そうな表情で荒々しく馬を進めており、見かねた康親が信康に声を掛けた。
「若殿…そう膨れた面をなさいまするな。公私の混同は若の器量を疑われまするぞ。」
信康は寄って来た康親を一瞥して不貞腐れたような表情をした。
「先生に言われずとも判っている……。布陣の際には平静に戻る故、今は怒らせてくれ。」
そう言うと信康は康親とは反対のほうに顔を向け黙り込んだ。康親は、はぁとため息をつくと馬を後方に向かわせた。後ろは家康の本隊が信康隊を追って進軍しており、康親は気が重い表情で家康に合流した。
「…若殿様は先の水野家の騙し討ちの一件をえらく立腹されておりまする。」
康親から小声で家康に報告すると、家康は嫌そうな表情で舌打ちした。
「弾正殿からの命を無視するわけにもいかぬだろう?それに騙し討ちではない。詰問したら抵抗したので討ち果たしただけだ。……それより、水野殿の家族の件はまだ知られておらぬだろうな。」
家康は康親に身を寄せ更に小声で問いかける。
「服部衆の知己で土居と言う者に金子を与え、匿わせておりまする。織田家には知られておりませぬ。」
「藤十郎は知っているのか?」
「まだ…。この戦のあと、水野を名乗らぬことを条件に見逃すよう申し伝えるつもりです。」
「わかった……弾正殿の援軍を得る為とは言え、申し開きの暇を与えず手に掛けたのだ。斯様な事は儂も二度とやりとうない。…三郎が怒っているのもよう分かる…。だが公私は混同するなと伝えておけ。」
「既にお伝えいたしました。…殿と合流する頃には平静を保つそうに御座ります。」
康親の言葉を聞くとふんっと鼻を鳴らし前を見据えた。家康の視線の先には信康隊の後尾が映っていた。
天正3年5月19日、徳川家康は三河国設楽原の極楽寺に着陣する。半日遅れて織田信長が精鋭三万を率いて家康軍に合流し、主だった将を集めて軍議が開かれた。その席で家康は久しぶりに信長と対面した。
家康は信長の姿に度肝を抜かれた。銀色に輝く南蛮胴に籠手も脛当も草摺も黒地に銀糸を編み込んだ見たこともない甲冑姿。表が黒、裏地が深紅のびろうどマントを羽織り、余りにも派手な出で立ちに家康は時が止まったかのように動けなくなった。その姿に釘付けになったのだ。
「如何した、三河守殿?」
家康は信長に声を掛けられても微動だにせず、ただじっと信長の立つ姿に呆然としていた。慌てて酒井忠次が前に進み出て釈明した。
「申し訳ございませぬ。主は弾正殿のその甲冑姿に見惚れてしまっているご様子…主に代わってお詫びいたしまする!」
「…儂の鎧?…フフ、成程…南蛮の「ぷれーとめいる」なるものを真似て作らせたのだが、驚いたか。であれば三河守殿にもくれてやろう。…そうなだ、赤漆が似合いそうだな。又左、後で甲冑師に伝えておけ。」
前田利家が勢いよく返事して、ようやく家康が我に返る。
「……弾正殿、その甲冑は一体……?」
信長は高々と笑った。さっき説明したのも聞こえていなかったようだ。機嫌よく話繰り返して聞かせると家康は上気した表情を見せた。
「斯様なものを着こなせるのは弾正殿以外には居らぬでしょう。…されど、某も一度は来てみたいと願う所存。有難く頂戴致しまする。」
家康の恍惚状態への変貌に軍議が脱線しかけたが、丹羽長秀が斥候による長篠城の様子を報告し始めた事で軍議は開始された。
出席者は、織田方からは信長、信忠親子に柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、佐久間信盛、河尻秀隆となり、徳川方は、家康に酒井忠次、石川数正、松平信一、榊原康政、本多忠勝であった。先ずは榊原康政が絵地図を広げ自軍の配置を説明する。設楽原は多くの窪みがあり、これに兵を配置すれば敵方からは見えにくい事を説明した。
「ならば、此処に馬防柵を設け敵の突撃を阻止できるようにせよ。高さは敵陣からは見えぬように調整するのだ。」
信長の指示に秀吉と一益が返事する。大きな声が陣幕内に響き、諸将が二人に視線を向けた。その瞬間に石川数正が紙切れを信長にすっと差し出した。信長は驚いたものの平静を装い紙切れを手に握り締め数正を睨みつけたが、数正は平静を装い無言のままだった。
軍議は進み、各将の配置が決まる。
織田徳川連合軍の第一陣は連吾川の流れる窪みに決まる。川はさほど深くはないため舟を使わずとも渡河ができるが、東岸の相手方からは見えにくい位置に馬防柵を連ねて立て、更にその背後に矢盾を並べて織田軍一万二千、徳川軍八千を配置した。本陣は周辺一帯で一番高い茶臼山に置き、信長、信忠、家康、信康の六千、その手前の丘に第二陣として八千、南の豊川沿いに五千、荷駄隊の三千は極楽寺に残す形となった。
武田軍は長篠城の周囲に砦を築いて四方を包囲した状態で医王寺山に本陣を置いていた。連合軍としては敵を挑発して山から西へ寒狭川を渡らせ、一気に決戦に挑もうというのが作戦であった。
夜になり、連合軍は移動を開始する。軍議で定められた場所へ各将は部隊を引き連れ進み始めた。信長も息子信忠と共に本陣と定めた茶臼山へと向かう。が、途中で信忠に後を任せてわずかな供を引き連れ隊を抜け出した。向かった先は第一陣の一番南側を陣取る酒井忠次隊であった。
天正3年5月20日深夜、酒井忠次隊を訪れた信長は思わぬ人物と面会した。信長は握り締めた紙切れを差し出して睨みつけた。
「……やはりこの字は貴様であったか、康親よ。」
信長は紙きれを後ろに控える蒲生氏郷に投げつけた。氏郷はそっと紙切れを見る。
“着陣後、密かに酒井隊を訪れたし”
氏郷ははっとなって主君を仰ぎ見た。
「何やら策を思いついたのであろう?…申せ。」
驚く氏郷に目もくれず信長は話を進めた。康親はにっと笑って酒井忠次が考えた策を説明した。
「夜の間に酒井隊は此処を発ち、大きく南を回って長篠城へ向かいまする。二陣に控える者らが鬨の声やら太鼓やら篝火で挑発致しまする。敵は我らの突撃に備えるために、この寒狭川を渡って陣を構えるでしょう。…その時を見計らって敵の砦を叩きまする。」
「待て、敵の兵力は判っておるのか?」
「既に調べは終えておりまする。軍議では敢えて申しませんでした。」
信長の問いに今度は忠次が説明した。信長は二人の表情を見て味方に間者が紛れているのだと理解した。
「我等徳川兵の中には武田軍に捕まり解放されて戻って来た者が多く居りまする。その中に武田の間者が紛れていてもおかしくは御座いませぬ。故にこのような処置を取らせて頂きました。」
康親は補足する。信長は薄ら笑いを浮かべ大きく頷いた。
「五郎八、本陣に戻り二千を率いて酒井隊の後を追え。」
信長の言葉を聞いて後ろに控えていた男が返事してさっと陣幕を出て行く。
「儂の軍を囮にするわけか。良かろう。こちらも派手に踊ってやろう。」
信長は酒井忠次の案を了承した。直ぐに編成が組み直され、武田軍との戦いの準備は先に織田徳川連合が整った。一方、武田側の方は意見が分かれていた。
天正3年5月19日、医王寺山武田軍本陣。
敵が設楽原に軍を進めてきたことは掴んでいた。だがその兵力が不確定であった。信玄の死後、武田の忍衆の多くが甲斐を去り、素破を纏めていた真田一徳斎もこの世を去っていたことから、武田勝頼の諜報能力は大きく下がっていた。この為、特に織田軍の兵力を五千ほどと見誤っていた。勿論、少数と見える様行軍していた信長の指揮能力によるところも大きい。松平康親は自軍に敵の間者が紛れている可能性を考えていたが、実は武田軍は事情があって全く間者を放っていなかった。
とにかく十分な情報を得られていない状況で敵と戦うのは危険だと家臣らは主張していた。武田軍の当初の予定は岡崎城に仕官する者を調略したことから直接岡崎城を攻め込む想定だったのだが、その者が内通を疑われて処刑され、家康の岡崎入りを招いてしまったことから、長篠城に攻撃目標を変えただけであった。此処を落とした後どうするかも定まっておらず、此度の戦の重要性は家臣らから見ればたいして無いと考えていた。
「御屋形様、此処は敵の軍容を確認すべきです。徒に兵を進めて負けては元も子も御座いませぬ。」
重臣筆頭の馬場信房が具申するも、勝頼はその言い方が癇に障った。
「我らが負けるとでも?何時から馬場美濃はそのように憶病となったか?徳川の兵は籠城ばかりを選択する弱兵、織田は畿内の戦で疲弊しておるのだ。たとえ数が上回っていようとも、我らに勝てる道理はない!」
勝頼の怒りの激が家臣らを萎縮させ武田軍の方針も決まった。寒狭川を渡り真田隊を先鋒として魚鱗陣で布陣し壊滅させる、となった。
5月21日夜明け前、武田勝頼率いる一万二千が設楽原に布陣する。先鋒は真田信綱、昌輝兄弟が率いる信濃先方衆、次いで山県政景、内藤正豊、本陣前には馬場信春、小山田信茂、本陣には逍遙軒信廉が配され重厚な魚鱗の陣を形成した。
日が昇り始め、長篠城を囲む砦から炊飯の煙が上がり始めた頃、突然騒がしくなった。酒井忠次率いる四千が一斉に宇連川沿いの山々に築かれた砦に襲い掛かったのだ。完全に虚を突かれた形であった為、まともな抵抗もできずに砦は陥落していく。この初手によって酒井忠次軍は勢いづき、敗走する武田兵には目もくれず一気に山を駆け下りて渡河を始める。対岸には長篠城がそびえ、その周囲を動揺し混乱の見え始めた武田軍一千が居た。
「このまま掛かれぇえい!」
忠次の号令で槍衾隊が駆け込み、風穴を開けると騎馬隊が躍り込んでかき回した。武田軍はあっという間に大混乱に陥り反撃する者も少なく、陣が壊されてゆく。やがて本隊のいる西へと逃げ出し城の周囲は徳川兵によって完全に蹴散らされた。
「東の方が騒がしいようですが?」
同じ頃、徳川家康は信長の本陣を訪ねていた。目的は信長の甲冑を眺める事であったが、信長は気前よく家康を朝餉に誘っていた。そして湯漬けを食べようとしていた時に遠くから聞こえる喧騒に気が付き、信長に話しかけた。
「…始まったか。忠三郎!各将に伝令!三河守殿の別動隊が長篠城を囲む武田兵を急襲した!少なからず目の前の本隊にも動きがあるであろう!決戦に備えよ!」
信長の言葉に家康は椀を落とした。儂の別動隊…?儂はそんな命令は出しておらぬ…。いったい誰が?そして何故信長様はそのこと知っている?
次々と疑問が浮かび上がり、そしてある名前が浮かび上がる。
福釜の松平三郎次郎…あ奴が何かしたに違いない。家康は立ち上がって信長に一礼すると陣幕を出て行った。向かう先は信康の陣。そこには松平康親が息子の補佐を務めていた。
家康が信康の陣幕を破り捨てるかのように入って来た。そして湯漬けを食していた康親をギロリと睨みつける。
「…何故儂に報告せなんだ?」
康親は怒髪天の家康を前に平然としていた。
「しましたよ?弾正殿と策を練った後、我からも酒井殿からも使者を出して報告に行かせました。ですが、殿は既に就寝されたと若い小姓に追い返されてしまいました。」
飄々と答える康親を見て家康は軍配を投げつけた康親はそれを椀を持った左手で払いのける。湯漬けの汁が周囲にまき散らされた。
「せ、先生も左衛門督も某に報告しております!某が朝一で父に報告すると申して返しました!」
信康が言い合いになりそうになった二人の間に入る。だがここで家康の怒りの矛先が信康に向いてしまった。
「ならば何故儂に言わぬ!」
「父の下に向かった時にはもうおられなかったではないですか!」
信康も気の強い方なのか父を相手に言い返した。
「喧しい!それでも儂に報告するのが当然であろうが!」
「ならば勝手に弾正様の陣に行ったりしないで下され。…せめて虎松には行先を言っておけば宜しかろう!」
すかさず康親が援護射撃をした。話の筋としては家康が完全に悪かった。昨日の行軍で家康は茶臼山に真っ先に入りさっさと就寝してしまった。誰も取り次がぬように小姓の年期が短い井伊虎松に言いつけ、虎松はそれを言葉通りに実行した。翌朝になって虎松にも言わずに自陣を抜け出し信長の甲冑姿を見に行ったのだ。誰が悪いと言われたら家康であった。
怒りの矛先を失った家康は完全に癇癪を起し信康の陣幕引っ張っては破り回り、止めようとした小姓らを払いのけてどこかへ行ってしまった。家康を追ってやって来たところであった井伊虎松は申し訳なさそうに二人に頭を下げ、再び家康の後を追っていった。
二人は家康の姿が見えなくなってから笑いあった。妙におかしくなったからであった。
「なんかすっきりしました。我々も支度をせねば今度こそ父に怒られまする。」
「先ずは破られた陣幕の張替えからしますか。」
康親の返した言葉で信康はまた笑った。大戦の前ではあったがこの一件で信康は落ち着きを取り戻した。既に周囲は慌ただしく動き始めており、康親も湯漬けを片付け、東の空に視線を送っていた。
天正3年5月21日、武田勝頼率いる一万二千と織田徳川率いる三万四千が連吾川を挟んで対峙する。だが豊川を大きく迂回して長篠城を囲む三千を急襲した酒井忠次により、長篠城の囲みは解かれ攻城隊は四散した。その一部が寒狭川を北上し、武田軍の退路を確保するように隊を再編する。酒井忠次隊も長篠城には入らず迂回路を後発して遅れて到着した金森長近隊と合流し、有海原に兵を進めて布陣した。武田軍本隊は東西から挟まれる形となり、寒狭川を北上して撤退するか、西へ突撃を敢行して活路を見出すか選択肢が残されていない状況となった。
徳川三河守家康
徳川家当主。設楽原の戦いにて信長と久方ぶりの対面をする。この時信長が着込んでいた甲冑姿に入れ込み、信長に対する態度を改める。
徳川三郎信康
徳川家嫡男。徳川軍本陣にて松平康親先生の手ほどきを受けながら大軍の指揮について学ぶ。直前に怒った水野信元謀殺事件に対して憤りを感じている。
松平三郎次郎康親
徳川家家臣。信康の指南役として設楽原の戦いに参加。酒井忠次考案の急襲作戦を信長に伝え戦況を有利に導く。水野信元謀殺事件において密かに信元の家族を保護し匿う。
織田弾正忠信長
織田家当主。先の進言侵攻の際は畿内での戦に追われまともな援軍を用意できなかった。今回も本願寺勢の拠点を囲っていたが、これを解いて岐阜へ戻り大軍を率いて参戦した。
織田勘九郎信忠
織田家嫡男。父の戦を見学すべく織田軍本隊に従軍する。
平岩七之助親吉
徳川家家臣。信康の傅役衆の筆頭を務め、設楽原の戦でも本陣の信康隊を率いた。
石川伯耆守数正
徳川家家臣。織田家との交渉役を任されており、此度の武田軍侵攻においても織田家への援軍を頼みに摂津まで走った。
松平勘四郎信一
徳川家家臣。藤井松平家当主で西三河衆の猛将と称される。
松平五郎衛門定勝
徳川家家臣。家康の異父弟で久松松平家の当主。設楽原の戦いが初陣。
榊原小平太康政
徳川家家臣。旗本衆の一人で家康の側近筆頭として共に行動する。が、主には家康の暴走を止める役が多い。
本多平八郎忠勝
徳川家家臣。旗本衆の一人で剛勇の将で本陣左翼隊を任されている。決して脳筋ではなく筋の通った義を重んじる武将。
鳥居彦右衛門元忠
徳川家家臣。旗本衆の一人で本陣中央隊の指揮を任せられている。家康からは幼い頃から一緒に過ごしているためか信頼が厚い。
大久保七郎右衛門忠世
大久保治右衛門忠佐
徳川家家臣。旗本衆の一人で忠勝と並び称される勇将で本陣右翼隊を任されている。
酒井左衛門督忠次
徳川家家臣。西三河衆筆頭を務める。此度の戦で長篠城包囲部隊を急襲する策を考案し実行して見事成功する。息子の家次を初陣目的で従軍させていた。
本多彦三郎広孝
徳川家家臣。西三河衆の副将を務める。先代当主から徳川家に仕える譜代重臣で、忠勝と並び称される勇将でもある。
本多三弥左衛門正重
徳川家家臣。酒井忠次の与力として西三河衆に属する。兄の正信以上に軍を指揮する能力に富み、西三河衆の機動力を支える。
菅沼織部正定盈
徳川家家臣。三河野田城主で、先の信玄侵攻の際に城を奪われるも、信玄死後の野田城、長篠城奪還戦で活躍し、再び野田城主に返り咲く。
内藤三左衛門信成
徳川家家臣。家康の異母弟であるが松平家の相続権は持たず、内藤清長の養子として育てられる。
大須賀五郎左衛門尉康高
徳川家家臣。旗本衆の一人であるが、今回は遠江衆を率いる将として登場。
朝比奈宗左衛門泰勝
今川家家臣。氏真と共に小田原に逃れ、共に浜松に亡命して遠江衆の指揮下に入る。
本多作左衛門重次
徳川家家臣。三河の奉行衆筆頭で、設楽原の戦いでは三河の荷駄奉行として兵站を担当。別名:鬼作左
高力与左衛門清長
徳川家家臣。三河の奉行衆のひとりだが、ここ数年は遠江開発の為に浜松に在住。設楽原の戦いでは遠江の荷駄奉行を担う。別名:仏高力
井伊虎松直政
徳川家家臣。遠江井伊谷の当主。武田軍来襲の恐れを感じて松平康親に庇護を求め、岡崎で過ごして元服する。その後、康親の推挙で家康の小姓衆に加わる。
柴田権六郎勝家
織田家家臣。織田家の重臣として一翼を担う。
丹羽五郎左長秀
織田家家臣。織田家の重臣として以下同文。
羽柴藤吉郎秀吉
織田家家臣。織田家の以下同文。あ、姓を木下から羽柴に変更。
滝川左近将監一益
織田家家臣。以下同文。
佐久間半羽介信盛
織田…以下同文。
河尻与四郎秀隆
以下同文。
前田又左衛門利家
織田家家臣。この頃は柴田勝家の与力を務めている。
金森五郎八長近
織田家家臣。酒井隊を追って迂回路を進軍し、武田軍の後背に着陣する。
水野藤十郎忠重
徳川家家臣。織田家に従属した兄と袂を分かち徳川家に仕える。兄が武田家内通の嫌疑を掛けられ謀殺された後、遺領の一部を相続する。
武田大膳大夫勝頼
武田家当主。信玄の後を継ぎ甲州軍団を率いる。父の遺言を破って天正2年頃から遠江侵攻を行い、高天神城を奪取し東遠江を支配下に置く。勢いに乗って三河を手に入れるべく、家康に不満を持つ岡崎衆を調略して出陣するも、直前になって内通が発覚して処罰されたため、矛先を長篠城に向ける。家臣らの反対を押し切って織田徳川連合軍と対峙したため、背後を取られ挟撃されかかっている。
真田一徳斎
天正2年に死去。




