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71.三郎次郎の独り言

第六章の最終話になります。

主人公の独り言は、最後に出て参ります。



 元亀4年6月4日、駿河国瀬名郷陣屋。


 二俣城攻略の功で瀬名家は旧領である瀬名郷を与えられたもの、当主である瀬名氏輝は諏訪城を守る武田逍遙軒の下で働いており、当面は戻って来ない。代わりに隠居した氏俊が城番として統治を行っていた。

 氏俊は先の戦で櫓の下敷きになった怪我が思った以上に酷く、戦場に立つことが難しい体になっていた。それでも、信輝の家族と娘婿夫婦をこの瀬名郷に呼んで共に暮らし、落ち着いた隠居生活を続けていた。だがその安寧も信濃からの手紙が届いて終わりを告げる。

 娘の輝が嫁いだ飯田家は元々甲斐の国衆であったが久左衛門直政の代に故あって駿河に移住して今川義元に仕えた。武田家が駿河に侵攻した際に再び武田家臣となり、駿河国衆との結びつきを強める為に信玄の命で瀬名氏俊の娘を迎え入れ、氏輝の与力となっていた。

 氏俊は細やかな膳を用意し、飯田直政夫婦を呼び出す。直政は体調の悪い輝を気遣いながら登城し氏俊と面会した。


「今日は輝の為に薬膳を用意した。…味は兎も角、体には良いと評判故、遠慮なく食べてくれ。」


 直政と輝は苦笑しつつ父に礼を述べ、三人で薬膳を食した。夕餉がある程度進んだところで氏俊は話を切り出す。


「呼んだのは他でもない。二つほど話があるのじゃ。」


「何で御座いましょう?」


 今日は比較的に元気なのか、やや上気した顔で輝が聞き返す。


「1つめは須和の事じゃ…。嫁ぎ先が決まった。久左衛門の願い通り神尾殿に嫁ぐこととなった。」


 直政が思わず立ち上がる。喜びが爆発しそうな勢いであった。輝も安心したかのように胸に手を当てた。須和は輝の前々夫の子…直政とは血が繋がっていないが此処まで喜んでくれると、氏俊も嬉しくて笑顔になった。


「まだもう一つある。雲松(くもまつ)の元服も決まった。諱も既に頂いておる。」


 直政は今度はすとんとしりもちを突いた。輝の驚きの表情で口を開けてしまっていた。


「伊予守殿、雲松はまだ十三(・・・・)で御座る。些か早いのでは?」


「儂がこのように戦に出られぬ身体となってしもうたからな。久左衛門が元気なうちに一人前に育てられるよう申し上げていたのが此度目出度く通ったのじゃ。」


 二人は顔を見合わせる。そして箸を置いて同時に氏俊に向かって頭を下げた。


「父上…斯様なお計らい、真に有難く存じまする。」


「某はこれまで以上に与力として瀬名家に尽くす所存に御座いまする。」


「久左衛門よ、礼を言うのは儂の方じゃ。実の子でない須和と雲松を此処までよう育ててくれた。」


「で、どのような諱を?」


「うむ…“又左衛門 頼直”…「頼」は御屋形様より頂いた。」


 二人は嬉しそうに氏俊が差し出した諱の書かれた紙を眺めていた。氏俊は特に輝の嬉しそうな顔を見て安堵の息を漏らした。このところ体調を崩して伏せがちになっていたのでいまある血色の良い顔を最後に(・・・)見れて嬉しさが込み上げた。


「さて…本題じゃが、儂は信濃に行くことになった。……源五郎とは別で真田一徳斎殿のところじゃ。恐らく此処へは戻って来ぬであろう。」


 二人の顔から笑みが消える。


「この瀬名の館は久左衛門を城番と致す。…輝と共に宜しく頼む。」


 氏俊は頭を下げた。真田一徳斎から呼び出しがありその内容から今生の仕事と考えた氏俊は須和の嫁ぎ先と雲松の元服と家督相続を手配してくれることを条件に信濃行を了承した。


「そう悲しい顔をせんでくれ。大事な役目を仰せつかることとなったのだ。儂は喜ばしいことと思うておる。……頼んだぞ。」


 氏俊は何か言おうとする二人との会話を無理矢理終わらせ薬膳を口に含んだ。苦みが口いっぱいに広がり顔をしかめる。だが氏俊は満足していた。




 福のお気に入りの唐の鏡で自分を見つめる。前世で使っていた鏡ほどではないが割とよく自分の顔が映っている。眉に櫛を通し小太刀の刃を器用に使って切りそろえる。続いて揉み上げと口髭を丁寧に剃って綺麗にする。そして長く伸びた顎鬚に手を掛けた。


「……やはりここを剃ると家康に似てしまうか。」


 顎鬚は剃らずに切り揃えることにした。頬から顎にかけて伸びた髭は表情にふてぶてしさを加えており、自身でも気に入っている。何よりも髭が無くなることで家康の顔に似通ってしまう事を嫌って、松平康親は顎鬚を剃らずに残すことにした。


「これから身分の高いお方にお会いするのだ。つやを出す為に香油を塗るか……。」


 康親は顎鬚を何度も撫でながら、気分が少し高鳴っていることを感じた。そして鏡に向かって苦笑する。


「別に思い人に会うわけでもないのに…だが旧主でありながら顔を合わせた事がなかったのだからな。まあ仕方無し。」


 康親は鼻歌を交えつつ、髭を整え衣服を正して立ち上がった。


「さて…どのような面で浜松まで来られたか…得と拝見致そうか。」



 元亀4年6月21日、遠江国浜松城。


 松平康親は外屋敷の広間で下座して相手を待った。やがて幾人かの武士に囲まれながら一人の男が姿を現す。男は武士の勧められるままに上座にゆっくりと腰を下ろした。


「儂が上座で宜しいのか?」


「…はい、貴方様は我等にとっては旧主に御座います。礼儀を持って接するべしと三河守より仰せつかっておりまする。」


 康親の返答に男は「ふむ」と納得したように頷いた。周囲の武士が一礼して部屋から去っていく。部屋は二人だけとなり、静寂が訪れた。そこから康親は間を十分に取ってからゆっくりと顔を上げた。男が品定めするかのように康親を見る。


「初めて御意を得ます…我は徳川三河守が家臣、松平三郎次郎康親に御座います。」


 男は扇子を広げ自分の顔を仰いだ。


「…以前は“隋空”と名乗り、仏に仕えており申した。」


 男の表情が変わる。少し喜々とした表情だ。


「ほう、貴殿があの“隋空”であったか。駿河に居た頃よりその名は聞いておった。…そうかそうか、三河守殿は貴殿を一門に列しておったのか。」


 男はやや身を乗り出し興味有り気に康親を見やった。


「……その前は…“瀬名氏広”と…名乗っておりました。」


「何!?」


 男の表情がまた変わる。腰を浮かせて身を仰け反らせ驚愕と恐怖のまじりあった顔になる。


「お主……真に夜次郎氏広か!?」


 男の問いに康親は頷く。男は暫く康親の顔を眺めた後、納得したように浮いた腰を落ち着かせた。


「…成程、“隋空”というのは“瀬名夜次郎”の存在を隠す人物だったのか。……瀬名家を守るためか?」


「…それもあります。…ですが一番の理由は、我も傍流ながら“今川”の血を引く者…。しかも姉弟が徳川の庇護下に…。野心ある者ならば……」


「関口兄弟や、瀬名源五郎のように、儂を追い落として今川を乗っ取ろうとしたように…三河守から徳川を奪おうとする一門が現れる…か。」


 康親は内心驚いていた。暗君と思われていたが、よくわかっている…足利一門としての権威を。


「ですが、貴方様が我らの庇護を求められたお陰で、我が出自を偽る理由は薄まりました。徳川家としましても、駿河に兵を進める名分を手に入れ…歓迎の限りです。」


 このお方が小田原から我らを頼ってきたのも受け入れてくれることを見越してのはずだ。康親はそう考え、徳川家の方針を軽く説明した。想定通りの方針だったようで男は軽く頷く。


「儂の名を好きなように使うが良い。儂の望みは駿河に儂の居館と…あと京にも欲しいのだが?」


 康親は腑に落ちた。既にこのお方はこの乱世の中、大名として生きる事を捨てられたのだと。


「全てご用意いたしまする。勿論奥方様、御嫡男様の身の安全も保障致しまする……今川治部大輔殿。」


 男は薄笑いを浮かべた。


「三河の土豪上がりが何処まで行くのか…見物じゃの。……で、三河守殿とは何時会えるのかな…康親?」


「明後日、城下で舞の宴を開きまする。奥方様とご出席致しまする。それまではこの館でごゆるりとお寛ぎください。」


 男は天井を見上げ、それから周囲の衾に視線を移した。


「…もう少し煌びやかな装飾が欲しいところだが、これくらいは我慢するとしよう。…だが歌会や蹴鞠会を行えるようには取り計らってもらうぞ。」


「…その時は我にお申し付け下さりませ。できる限り取り計らいまする。」


 康親は平伏して会談を締めくくった。立ち上がって部屋を去ろうとしたところで、何かを思い出したように振り向く。


「そうそう、我が主の嫡男を猶子とする件…ご了承いただいたと思って宜しいですか?」


「…岡崎の御嫡子殿か…それくらい構わんよ。」


 男の答えに康親はもう一度頭を下げて部屋を出て行った。




 やはり氏真の相手は疲れる。お陰で暫くは浜松を離れられんな。……今川氏真という駒を得たのは良いが、家中に公家社会に精通した者がおらぬのが痛い。…今後の事を考えれば、氏真に作法や振る舞い、京遊びなどを師事してもらうのも良いかも知れんな。となるとまずは宗哲殿を取次役にして様子を見るか…。


 気になるのは、義弟の瀬名源五郎信輝の所在だな。あ奴は武田の命なのか自身の謀なのか、築山御前にラブレター紛いの手紙を送っている。既にいくつかの証拠は握っているので家康に言って姉を軟禁することも可能だが…今の俺には何の得もない。寧ろ「人の女に手を出しやがって!武田め、許せん!」と息巻いて出陣を命じるかもしれんし…。まだ暫くは平助に任せるとしよう。


 一番問題なのは、徳川信康の器量だ。先の初陣でもわかった。信康の資質は家康以上だ。今はまだ俺が色々と師事しているからあまり表に出ていないが、大人となって一軍を任せられる立場となれば、あっという間に家中が家康派と信康派に分かれてしまう。完全にお家騒動だな…。その為には俺が岡崎で信康の指導と傅役らの監視も行わなくては…。



 ああ、身体が二つ欲しい。




瀬名伊予守氏俊

 武田家家臣。二俣城攻略の功で瀬名郷を与えられ、当主の代替わりもあって躑躅ヶ崎館での相伴役から駿河に移動、当主氏輝に代わっての城番となる。戦で負傷したことで足が不自由となり現役からは完全に引退した。


飯田久左衛門直政

 武田家家臣。武田家の駿河侵攻以降に武田家に臣従する。駿河先方衆の一員で氏輝の妹を後妻として迎え入れ、瀬名家の与力となる。


 瀬名氏俊の娘。前々夫、前夫と死別し飯田直政に嫁ぐ。二人との子供は無く、前々夫との娘、前夫との息子がいる。体調を崩して病がち。


須和

 輝と前々夫との子。駿河先方衆の一人である神尾忠重の下に嫁ぐ予定。


雲松

 輝と前夫との子。近々元服する予定。


今川治部大輔氏真

 今川家当主。駿河、遠江の守護を父義元から引き継ぐも器量の無さで家臣の離反が相次ぎ、武田・徳川連合軍によって所領を奪われる。正室春の実家である北條家に拾われるも、外交方針変更によって立場が危うくなり徳川家康に庇護を求めた。



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[良い点] さあ この辺からが歴史大改変覚悟かいの開始ですな。やらかすもよし、消え去るもよし、面白ければよし。期待、期待、期待。ワクワクやあ
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