70.時代の終わり
朝の二話連続投稿の二話目です。夜に六章最終話を投稿いたします。
元亀4年2月14日夜、三河国野田城。
信玄の病は急速に快方に向かっていたのだ。
前年12月の大戦の最中、信玄は昏倒する。逍遙軒の機転で自分が大将となって戦は継続させ、何とか徳川軍に痛打を浴びせることに成功したものの、信玄が重篤に陥った為に急遽野田城に軍を移動させて医師を呼び寄せ治療にあたった。三河領侵攻を中断して皆で信玄回復の祈祷を行ったせいもあってか、年を越して1月10日には意識を取り戻し、ひと月ほどで容態は信じられぬほど回復したのだった。
馬にも乗れるまでとなった信玄は近々野田城を発って吉田城へ向かうことを決定すると、諸将を集めて軍議を開いた。城内の広間では信玄の回復を祝う宴も開き酒が振舞われる。
その宴の最中で、信玄は吐血する。
広間の空気は一変した。
信玄は吐き出した血だまりに倒れ込む。逍遙軒が駆け寄って抱きかかえる。皆が信玄の下に集まる。医師が呼び出され別室へと運ばれる。
いよいよ出陣と言うときに御大将の吐血に卒倒…。諸将の意気込みは一気に消沈した。
2月15日、信玄の容態は安定し静かに眠っている。逍遙軒は主だった将を広間に呼んで今後について意見を求めた。呼ばれたのは嫡男の四郎勝頼、五男の仁科五郎盛信、馬場美濃守信春、山県三郎兵衛尉昌景、内藤修理亮昌豊、高坂弾正忠昌信、そして真田一徳斎であった。今後とは徳川領侵攻作戦についてである。
「兄上が動けぬ状態となって一月以上…。これ以上軍を滞在せるは徳川の不審を受けることになろう。…これからどうするか皆の意見を聞きたい。」
逍遙軒が口を開き、主無き軍議が始まる。まず勝頼が意見を言う。
「父の考えし策は吉田城の攻略まで。此れを完遂せしむることこそ父の御意向と考える。」
これに対し盛信が反発する。
「父の事は多くの者が知っております。その動揺は足軽にまで達し、斯様な状態での戦は危険に御座る。ましてや敵に知られたる可能性も含めて吟味すべし。」
盛信の意見を聞いた勝頼は弟を睨みつけた。
「戦には“機”があるのだ!今攻めずしてなんとする!」
勝頼は声を荒げて言うも盛信は冷静に言い返した。
「攻めぬ、とは言って御座りませぬ!吟味すべし、と申し上げているのです!」
「…某も五郎様の意見に賛成致す。……このひと月、我らは周辺の様子を確認しておらぬ。誰ぞ吉田や浜崎、岡崎や浜松の様子を調べたものはおらぬか?」
二人の間に割って入ったのは家臣団の重鎮、馬場信春である。彼は尤も信玄と共に戦を経験しており、その数も引けを取らず、このような時であっても冷静であった。
「…おらぬなら、直ぐにでも斥候を走らせるべきであろう。」
「いや、真田の素破衆を吉田、浜崎に走らせておる。…明日の夜には戻る予定だ。」
ここで一徳斎が口を開いた。どこかしか生気のない表情であり、信玄と同様に今にも倒れそうな様子だった。それでも歯を食いしばって姿勢を正し、喜兵衛を呼んで絵地図を広げさせた。
「まず、御屋形様が動けぬ以上守りは必要で御座る。五千の兵は野田に置く。…敵が吉田と浜崎に兵を集めておれば、先に浜崎を落とす。…吉田城のみに兵を集めておれば、当初の計画通り、吉田を落とす。」
一徳斎の案に高坂昌信が唸り声を上げた。腕を組み考え込む。
「高坂殿の存念は?」
逍遙軒に促され昌信は意見を述べた。
「一徳斎殿の案ではどの程度の敵兵数を想定しておられる?」
「……五千以上。今の徳川でも集められぬ数字ではない。我等としては吉田城を攻めたい。その次の軍略が生きるからだ。」
一徳斎は自分の頭を指でつついた。一徳斎の中には次の作戦を考えているようであった。その仕草で武田の四将は大きく頷く。
大勢は決した。逍遙軒も一徳斎の案を支持し、作戦は真田の素破衆の報告を受けてからと決まった。
2月16日、斥候の報告が届く。徳川軍は吉田城に凡そ八千、浜崎城に五千の兵を待機させている情報を手にした。逍遙軒は諸将を集めて軍議を開き、二万の軍勢を浜崎へ進めることで決定した。
2月19日、先陣として真田信綱率いる信濃衆が野田城を出立する。そして第二陣として馬場、山県率いる六千が野田城を発ったところで、知らせが届いた。
野田城から見て西側に位置する足山田に徳川の旗差し物、そして東側に位置する風切山にも徳川の旗。その軍容は明らかに野田城に向けられていた。
敵軍出現の報を受けた一徳斎は全てを察した。そして拳を握り締め力の限り床を叩く。
「……敵は、御屋形様の病状を知っているに違いない!我らが出陣する時を見計らって野田城に兵を進めてきおったわ!」
武田軍は信玄を警護し且つその病状を秘匿するために兵を割く。残った兵で城攻めをすることになるが、仮に野田城を攻められたらどうするか。既に野田城では守り切れないことは武田軍自身が証明している。つまり野田城を守る為に、南へ進軍させた兵を呼び戻して東西の敵と野戦を敢行するか、野田城を捨てて…つまり信玄の命を諦めてそのまま進軍して敵城に襲い掛かるかの二択に迫られてしまったのだ。
「あの坊主あがりめ!」
一徳斎はもう一度床を叩いた。彼には分っていた。こんな悪辣な策で徳川軍を動かすのは福釜の康親しかいないと。実際そうであった。康親は野田城から武田軍が動かなかったことで信玄に病が悪化したと判断し、西三河衆と遠江の全軍を動かしたのだった。
この作戦は武田軍が三河と遠江の分断を狙っていることが判っていたからできた作戦で三河遠江の重要拠点を空にして出陣など普通ではできない。武田の全軍が野田に集結しており且つその目標が吉田若しくは浜崎だとわかっていたからできた芸当なのだった。
もはや選択の余地なしと逍遙軒は送り出した先陣を呼び戻す伝令を出す。そして東西に現れた敵の全軍と戦う為に諸将を参集した。
軍議はどのように敵と戦うかが話し合われた。各将の兵数と配置を確認して軍議を締めくくろうとしたとき、板盾に乗せられて武田信玄が運ばれてきた。皆が一斉に平伏する。上座に板盾が置かれ信玄が武藤喜兵衛に支えられながらゆっくりと起き上がる。
「皆の者……大儀で…あった。」
信玄の弱々しい声が軍議の場に通る。皆が再び頭を下げる。
「ふ…ふはは……まんまと敵の策に…嵌められたものよぅ…。またしても…福釜の男か?」
信玄は薄ら笑いを浮かべ一徳斎に問いかけた。一徳斎は短く返事する。
「儂は…助からぬ。己の身体のことだ。よう分かる…。ならば儂を捨てて南へ攻め込むのが上策であろう?」
「左様な策などできませぬ!」
勝頼が言い返す。信玄は息巻く勝頼をちらりと見てまた笑った。
「ならば…儂を抱えて…甲斐へ撤退せよ。…とは言っても、儂はその途上で死ぬるであろうが…。」
彼方此方から嗚咽が漏れる。信玄は気にせずに話を続けた。
「敵に儂の死を悟られるな。喪になど服さず…儂の養生を待つかのよう振る舞い…雌伏せよ。…そうじゃな三年は隠せ。その間に…体制を立て直し隣国との盟を四郎の名で結び直し、再び公方様と連携して軍を動かすのだ。」
言い終えると信玄は勝頼を手招きした。勝頼は涙を拭って信玄に近寄る。
「良いか…家臣の言をようく聞け。お前は若い…じっくりやれば、儂以上に多くの国を支配できるようになる。…だから…まずは、甲斐、信濃、駿河…そして此度手に入れた北遠江の地盤を固めよ。」
信玄は苦しそうに肩で息をしながら、笑顔で優しく勝頼の背中を叩いた。勝頼は再び涙を流した。やがて信玄は気力を使い果たし板盾に臥せった。喜兵衛の合図で信玄は広間の外へ運び出されていく。それを見届けた逍遙軒は四郎勝頼に上座へ座るよう促した。勝頼の床几が上座に置かれ、若き武田の次期当主がゆっくりと座る。皆が一斉に平伏した。
「……これより、父の言に従い…甲斐へ帰還致す。…これは敗北に因る撤退に非ず……新たなる武田家に向けての勇退である!」
勝頼の悔しさを噛み殺して放つ言葉に四人の宿老と逍遙軒、盛信が一斉に返事をした。
2月20日、武田軍は三陣までを城外に出して東西に陣取る徳川家を警戒した。翌21日、主力である高坂昌信の一万が豊川沿いに北へ進軍を開始した。騎馬隊、弓隊、槍衾隊が整然と並んで別所街道を進軍する姿には隙が無く、徳川軍は北に向かって小さくなる姿をじっと見守っているだけであった。
2月22日高坂隊は長篠城に到着する。此れを合図に野田城周辺で警戒にあたっていた馬場隊、山県隊、真田隊、小山田隊、仁科隊も順次北上を開始した。
2月25日、武田軍は湯谷に移動し、3月に入ってから鳳来狭を渡って東栄へと縦深陣の型で北へと帰って行った。
元亀4年3月3日、三河国足山田砦。
服部衆からの報告で、武田軍が鳳来狭を渡り始めた事が松平康親にもたらされる。康親はほっと安堵の溜息を洩らした。横で真新しい甲冑に身を包んだ徳川信康がくすくすと笑う。兜の大きさがまだ合っていないのかかくっと斜めにずれた。
「先生の言う通り、敵は撤退していきましたね。」
「自棄を起こして攻めて来られたらどうしようかと思っておりましたが…」
康親は信康の兜のずれをそっと直した。
「斯様な初陣となってしまい申し訳御座いませぬ。」
「よい。こうして先生の神謀鬼略を間近で見られたことが嬉しい。…されど敵と見えるのも経験したかったものではある。」
「いずれ武田とは雌雄を決することとなるでしょう。若殿の武勇はそれまで磨いておいて下さりませ。」
「相わかった。それにしても風切山の父はよく動かずに我慢しておられたな。」
「殿も負け戦には懲りたので御座いましょう。榊原殿の言うことをよく聞き、おとなしくされておるそうです。」
言い終えて康親は噴き出し笑いをした。信康もつられて笑う。
「これでは父に失礼だな。先生、撤退の命を出しますぞ。」
信康に問いかけに康親は空を見つつ小さく頷いた。
3月4日、徳川軍は武田軍が撤退するのを見届けてから兵を引き始める。徳川家康は奥三河を含む三河北部、遠江北部を失い、多くの勇猛な家臣を討取られるも、東西の分断という最悪のシナリオは避けられた。反対に武田軍は南へ大きく領域を広げるも、当主たる武田信玄の重篤な状態に侵攻半ばで撤退を余儀なくされた。
元亀4年3月10日、戦後処理を終えて松平康親はようやく福釜城に戻って来た。既に服部半蔵が義兄親俊の亡骸を届け、北の間に長坂信政と共に安置していた。康親が北の間に入ると既に福が座って物言わぬ兄に念仏を唱えていた。康親は静かに福の隣に座り手を合わせる。
「済まぬ……義兄殿をお守りできなんだ。」
「…兄は満足しておられます。長坂様や酒井様と共に逝かれたのですから。」
酒井正親の亡骸は雅楽頭家の本領である西尾城に運ばれ此処にはない。代わりに正親の髪の毛を束ねて置かれていた。康親は正親の髪が詰められた木箱を眺める。
「正親殿とは…我が駿府で暮らしている頃からだった。」
康親の脳裏に母が存命の頃の情景が描かれる。そこには竹千代に振り回される正親の姿が映し出されていた。
「長坂様の御嫡子は?」
「掛川には使いを送っている。間もなく着くであろう。…あ奴にも謝らねば。」
「…此度の戦で貴方様は謝ってばかりです。あの武田信玄を追い払ったのです。もっと堂々として下さいませ。さもなくば、兄様も浮かばれませぬ。」
福は険しい顔をして康親を見返した。そしてすっと頬を緩める。
「御無事で何よりでした。」
「…苦労を掛ける。」
福は康親の膝にそっと手を置いた。
「紅凪はまだ幼いことをお忘れなく。」
それはお家の為にも死なないで欲しいとの福の願いであった。康親は膝に置かれた手を握り締めた。
「我は死なぬよ……徳川の世を見るまではな。」
康親は福にも聞こえないほどの小さい声で固く誓った。そしてもう一度手を合わせた。福も隣で夫と同じように手を合わせた。
元亀4年7月、織田信長に対し反抗の狼煙を上げて槇島城に立て籠もっていた足利義昭が、信長との戦に敗れて京からの追放を受ける。
信長は義昭を追放したことで“足利将軍家”という威光を失うのだが、京における統治には支障はなしとばかりに公家衆や朝廷に働きかけ、改元を奏請した。
元亀4年7月28日、元号は「天正」と改められ、織田信長による畿内の支配は足利家がなくとも問題なく行えることを天下に知らしめた。
源氏による武家の統率と言う時代は終わりを迎え、織田信長による新たなる武家支配へと変わる。
武田信玄
甲斐武田家当主。史実では甲斐に帰郷する途上の4月12日に死去している。
徳川信康
徳川家嫡男。野田城に留まる武田軍を追い返す為に出陣した西三河衆で編成した軍の将の一人として初陣する。直接的な戦はなかったものの、冷静に敵陣の視察分析、引き際の判断など役目を無難にこなし、周囲からは評価を受けている。
福
三方ヶ原の戦で討死した松平親俊の妹。康親を婿に迎え入れて福釜松平家を相続させ、康親との間に紅凪を産んでいる。




