68.ひと時の再会
連続投稿の二話目です。
二俣攻防に後編となり、次話より三方ヶ原戦となります。
第六部の終わりが見えてきました。
元亀3年11月8日、山県昌景率いる九千は野田城を再び攻め落とした。城を守っていた西郷清員はからくも脱出するも、菅沼定盈は捕らえられてしまう。その後昌景は野田城に二千の兵を残し、軍を東に進めて遠江に侵入した。彼らの行く手には井平城、井伊谷城、そして信玄本隊が囲う二俣城があった。
11月11日、山県隊は井平城を攻め落とし、次いで井伊谷城を開城させ、更には天竜川へと向かう。12日には根堅に到着し、岩水寺に陣を敷いた。そこは山上から浜松城を睨みつけるような位置にあり、これで徳川軍は益々援軍を出しにくい状況に陥った。
山県隊の合流後、信玄に代わって全軍を指揮する武田勝頼は何度か二俣城を力攻めする。だが城の守りは固く、特に表門から撃ち下ろされる鉄砲と弓矢が予想以上に武田兵の進軍を阻み、門に張り付かんとする多くの兵を死なせる結果となり、やがて勝頼は力攻めを諦めた。その後約一か月に渡って膠着状態が続く。
12月10日、武田軍では久しぶりに信玄が本陣に顔を出していた。久しく体調が良かったのと、甲斐から呼び出した二人に会う為である。板盾の机を挟んで二人の甲冑姿の男が信玄に挨拶する。
「兄上、今日は顔色も良いようで。」
一人は信玄の実弟、逍遙軒である。兄に似た甲冑と兜を着込んで佇んでいる。
「うむ、だが依然、儂は此処で指揮し続けることは難しい。それでは何かと都合も悪くてな。よってお前に代わりをやって皆を鼓舞して貰う。」
「承知いたしました。…で此方には何を?」
逍遙軒は共に甲斐から呼び寄せられた男…瀬名伊予守氏俊を見つめた。氏俊はこれに反応して軽く頭を下げる。
「うむ…伊予守はこの二俣の城主を務めていたそうじゃな?」
信玄の威厳に満ちた言葉に氏俊は俯き加減で返事をする。
「はっ…されど某が務めたる頃からは随分と様相が変わっておりまする。」
「だが、水の手はそうそう変えられるものではない。この城の水はどうやって確保しておった?」
氏俊は信玄の問いに一拍置いてから答えた。
「……城の西の崖に天竜川から水を汲み上げる櫓が御座います。崖上から櫓伝いも下に降りて水を汲んでおりました。某が居た当時はこれ以外には御座いませぬ。」
氏俊の答えは信玄に笑みを浮かばせた。
「そうか、だが天竜川の流れは速くそうそう近づく事は叶わぬ。如何にしてその櫓を落とすか……」
信玄は傍に控える真田一徳斎に視線を移した。一徳斎は顎に手を当てて考え込んだ。
「御屋形様、水の手を落とす役目…某にお命じ下さりませ。」
一徳斎を横目に瀬名氏俊は立ち上がり拳を握り締めて言葉を発した。信玄はやや目を細めて氏俊を見やった。
「伊予守、流れの速い天竜川を渡っての櫓落とし…何か策があるのか?」
「上流の村々から舟を集め、漕ぎ手を乗せて下らせます。十艘以上は必要でしょうが、集めた舟を流して櫓にぶつけて壊すのです。」
信玄はもう一度一徳斎に視線を移す。一徳斎はやや首を捻って考えるもやがて頷いた。
「宜しいかと。盾を持たせた兵を漕ぎ手と共に乗せればより確実に櫓を落とせるでしょう。」
一徳斎の発言を受けて信玄は了とした。氏俊に直ぐに支度に取り掛かるよう命じ、返事と共に本陣を出て行く。その背中を目で追った後、信玄は一徳斎に声を掛けた。
「あ奴も手柄を立てんと必死のようだな。」
しかし一徳斎は微妙な顔で主君を見返した。
「…あの者の策、舟の乗り手にとっては命を懸けた特攻に御座います。命の保証など御座いませぬ…。」
「だが手柄にはなる。それに漕ぎ手も乗せる兵も甲斐の者ではない。」
黙り込む一徳斎をよそ目に信玄は酒に口をつけた。一徳斎には信玄が上機嫌に見える。確かに信玄は機嫌が良かった。
「儂の命がある間に二俣城が落とせる。…その次は吉田城だ。これで浜松の徳川家康は孤立する。そうなれば我らの勝ちだ。」
一徳斎が見ると信玄の頬は紅潮していた。酒によるものだと思ったが違っていた。信玄は明らかに興奮していた。二俣を落とせるとなって高ぶっていると思いたかったが、一徳斎には死を前にした最後の輝きにように見えて仕方がなかった。
元亀3年12月18日、天竜川の上流から十数艘の舟が流れて来た。見つけたのは服部半蔵で報告を受けた本多正信はその舟の群れの意図を直ぐに把握した。
「敵は水の手を攻めてきました!舟を流して崖下の櫓を壊す気に御座りまする!」
珍しく慌てた口調で正信は松平康親に駆け寄って報告した。康親はそんな正信を見て僅かに苦笑する。
「慌てなくとも良い。何時かは気付かれると思っておったのだ。」
「いえ殿、その舟を指揮しているのは…瀬名伊予守殿に御座る!」
正信の言葉に康親は正信の後ろに控えていた半蔵を見やる。半蔵は小さく頷く。二人は康親の瀬名家との関係を知っており、半蔵に至っては氏俊とは面識があった。武田家に仕えていることは知っているが、まさか自分達の籠る城の水の手切りに関わって来るとは考えていなかった。
「…義父殿であれば水の手の場所、その切り方を知っていてもおかしくはないか。弥八郎、迎え撃つぞ。」
納得したように頷くと康親は立ち上がる。半蔵が心配そうな目を向けた。
「…敵味方に分かれたのだ。何時かは斯様な時が来る。気後れするな。」
康親は半蔵の軽く肩を叩いて部屋を出た。正信はその様子を見届けると安心したように息を吐いた。
「…某の心配は杞憂であった。殿は義父殿に臆するかと思っておったが…臆したのは我らのほうであったわ…。」
正信は立ち上がり、痛む足をさすった。そして脇差を指し直し康親の後を追って部屋を出て行った。半蔵はまだ立てずにいた。瀬名氏俊は父半三にとっても半蔵本人にとっても恩人である。その方と戦わねばらぬのがどうしても身体を強張らせていた。
瀬名隊が舟に乗って二俣城に近づいた。用意した舟はこぎ手の絶妙な操作で急流を下り次々と櫓に向かって言葉通りの突撃を敢行した。守り手は櫓から矢を射かけるも、舟を覆う様に掲げる矢盾に阻まれ効果を得られなかった。効果のない矢を射ている間に舟が櫓の支柱にぶつかる。大きな音と共に舟は転覆し人が流される。だが次々と舟はぶつかり支柱は傷つき、やがて根元に大きなひびが入った。
「崩れるぞ!」
誰かの叫び声が聞こえ、同時に櫓が大きく傾いた。そして上で弓を構える兵ごと音を立てて崩れる。その瞬間を康親は目の当たりにした。崩れ落ちる櫓の下には幾つもの武田兵の乗る舟がひしめいている。その中に瀬名氏俊の姿があった。
「危ない!」
康親は思わず叫んだが、轟音によってかき消される。櫓は大量の砂煙と水しぶきを上げて崩れ落ち、同時に絶叫と悲鳴が交錯した。
「弥八郎!半蔵!下へ降りるぞ!」
康親は近くの兵から槍をもぎ取ると敵に見つからないように巧妙に隠しておいた崖下に降りる急な階段を駆け下りた。慌てて半蔵が追いかける。
下まで駆け下りた康親は槍を構えて瓦礫と化した櫓の傍に近寄った。難を逃れた武田兵が康親の姿を捉えて刀を抜いた。
「聞けぇえい!争っておる場合か!貴様らの目的は達しておろう!これ以上の命のやり取りは無用!櫓の下敷きとなりたる者どもの手当てを行いたい!刀を捨てて我を手伝え!」
康親のは大声で叫ぶと真っ先に崩れ落ちた櫓へと走った。半蔵らが慌てて康親の下に駆け寄るが、康親は「息のある者を運び上げよ!」と怒鳴りつけた。生き残っていた武田兵は目の前で起こる敵方からの救出に最初は刀を持って身構えていたが、一向に襲い掛かられず、逆に背中を見せてまで怪我した者の救出に回るさまを見て、暫く茫然としていた。やがて意を決したかのように一人、また一人と刀を捨てて櫓の残骸へと走り寄った。
冷静に見れば奇妙な光景であったろう。敵味方入り乱れての救出劇…だがそれは失う必要のない命を救う行為なのであった。次々と人が助け出され、数人がかりで崖上へと運ばれていく。それは敵も味方も関係なく、ただ命を救うことに一生懸命な人間でしかなかった。既に崖上では本多正信が御座を敷いて待機しており、怪我した足軽や漕ぎ手らが寝かされていく。甲冑を脱がし、貴重な水を使って身体が洗われ、医術の心得のある者が止血などの治療を施していった。
康親らによる救出の輪は瞬く間に広がり、多くの籠城兵が集まって手当てを行った。救出の最中で息を引き取る者もいたが、処置が間に合い二十名ほどはなんとか助かった。そしてその中には、隊を指揮した瀬名氏俊も含まれていた。
…目が覚める。自分は布団に寝かされていることに気付く。身体の節々が痛み、特に頭が酷くズキズキした。頭に手を当てると布がまかれていることに気付く。暫く頭を触り痛みの原因が頭から血を流しているからだと把握した。
「気が付かれましたか?」
ふいに声を掛けられ声の方を見ると、若い甲冑姿の男が片膝を付いて座していた。見覚えのある顔であった。義息の忠臣、服部半三の子に違いない…。
「……半蔵…なのか?」
自分は男の名を呼ぶ。小さく頷いたのを見て顔をほころばせた。
「立派になったものだ。…お主が居るということは…此処は二俣の城内か?」
半蔵は再び小さく頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「…気が付かれたことを主に報告して参ります。暫く…お待ち下さりませ。」
半蔵はそう言って部屋を出て行く。“主”と聞いて自分の心の蔵が高鳴るのを感じた。周囲の様子を確認するために起き上がり、ゆっくりと見渡す。既に陽は落ちて暗闇に包まれていたものの、外に焚かれた篝火の灯りでぼんやりと様子が伺えた。戦の喧騒の音は聞こえず静まり返っている。じっと待っていると、やがてこちらに近づく足音が聞えた。
半蔵の報告を受けた“主”が甲冑姿で現れ自分の傍まで寄ってゆっくりと座す。後ろで半蔵が襖を閉め、二人だけの空間が出来上がった。
「……御久しゅう御座います…義父殿。」
懐かしい声が自分の耳に届く。野党に襲われ討取られたとされていた自分の娘婿の声であった。
「…夜次郎……。」
思わず昔の名を呼び、無意識に手が伸びる。その手を夜次郎と呼ばれた男が握り締めた。
「このような形でお会いするのは真に残念では御座いまするが……もう一度お会いしとう御座りました。」
「儂もだ……いや、こうすれば会えるかも知れぬと言った方が正しいな。」
「ならばお助けした甲斐が御座いました。」
「…儂は水の手を壊せたかの?」
「櫓を壊されましたからな。以前より水の確保は厳しくなり申した。」
夜次郎は笑って答える。悔しさを感じられないのが妙であった。
「まあ、矢も兵糧も尽きかけておりましたので…引き時と思うておりましたから。」
「…逃げ道を用意しておるのか?」
「抜かりなく。」
夜次郎の言葉で彼の考えを把握する。夜次郎は初めから城を明け渡す気でいたのだ。ただその時期を見計らっていただけ。そしてその目的はただ一つ。
「…夜次郎は御屋形様の病を知っておったか?」
夜次郎は僅かに笑みを浮かべる。
「養父殿……いえ瀬名伊予守殿、我らは水の手を失い止む無く城を出まする。生き残った貴方の兵は隣の屋敷に居ります故、武田方の突入までおとなしくお待ち下さりませ。」
言い終えると夜次郎は立ち上がり、出て行こうとした。
「待て……頼みがある。」
何を言おうとしているのだ?
「御屋形様の小姓衆に飯田直政という者が居る。」
これは夜次郎に頼むべきことではない。
「輝はその男に嫁ぎ、須和と共に居る。」
夜次郎が振り向く。顔を見ることができない。
「もし、武田家に何かあれば……娘と孫を頼む。」
御屋形様が亡くなられることで武田家が終わるわけではない。それに夜次郎と輝は死別したことになっているのだ。今更頼める相手ではない。…だが、言わずにはおれなかった。それほどまでに夜次郎がここで武田軍を足止めさせたことに対して恐怖を感じたのだ。御屋形様はこの戦の中で亡くなられる。その一因を夜次郎は此処に籠って作っていたのだと直感した。
夜次郎は何も言わず歩き出し、部屋を出て行った。果たしてこれで良かったのか?自問をするも何も答えは沸き上がっては来なかった。ただ静寂だけが自分の頭の痛みを強く感じさせ続けただけであった。
元亀3年12月18日夜、二俣城に籠る兵一千二百は夜陰に紛れて城を脱出する。最初から城の北側に細道を用意しており川伝いに北上できるようにしていた。逃げる兵のほとんどは甲冑を脱ぎ捨て百姓の恰好に変えて北の集落へと姿を消した。一部の者は用意していた舟に乗り込み、夜の間に天竜川を下って浜松方面へと逃げていく。
翌朝、城内の篝火が消えていることに気が付いた武田軍が表門から攻め込み、何の抵抗もなく開門できたことによって、夜の間に逃げられたことが発覚した。
瀬名氏俊らは城内に突入してきた武田兵によって救出され事情を聴かれるも、「徳川方は、水の手を失ったことで西の崖下から逃げて行きました」と答えた。
12月22日、武田信玄は二俣城に二千の兵を残し、進軍を開始した。その数三万、隊列を組んでの堂々たる威風で南西の方角へと進軍し、その姿は浜松城からでも遠目に見て取れる有様であった。
徳川家康はこれ以上領内を堂々と闊歩する武田軍を受け入れ難く、無理矢理旗本衆を引き連れ出陣してしまう。
三方ヶ原の敗北の始まりである。
山県昌景
武田家家臣。武田四名臣の一人。遠江侵攻戦では信濃から東農経由で三河に侵入し、野田城を攻め落とす。その後信玄と合流し三方ヶ原の戦いで武功を上げる。
武田逍遙軒
武田信玄の実弟。病を押して出陣した信玄に代わって陣頭指揮を振るう。そしてこれが最後の影武者活動となる。
瀬名伊予守氏俊
武田家家臣。二俣城攻略の為に甲斐から呼び出され、その期待に応えて見事水の手を奪う功をあげる。
瀬名夜次郎氏広
自分の良き理解者であった養父氏俊と話をするために姿を現す。だが氏俊との会話内容については誰も知らない。




