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67.二俣での籠城

定期投稿ですが、今週は二話連続です。

まずは二俣城攻防の前編になります。



 元亀3年10月5日、遠江国一言坂。


 武田軍が青崩峠(あおくずれとうげ)から遠江に侵入した。二万の大軍が秋葉街道を南下し始め、その姿を徳川の物見が発見し浜松にその報が届けられる。連絡を受けた徳川家康はこれを迎え撃たんと諸城へ伝令を送り、自らも五千の兵を率いて出陣する。

 家康が出陣した頃には、北遠江の諸城は武田の大軍を恐れて次々と降伏していた。信玄は下って来た遠江衆を先方隊に組み込み、道案内をさせて更に南下した。犬居城、光明城、真田山城、天方城などを次々と落とし、わずか二日で山間部を抜け磐田原北部に出る。

 家康は武田軍の進軍路に合わせて天竜川を越え。磐田原に本陣を敷き、本多忠勝隊を偵察に向かわせたが、不運にも武田軍の先方と遭遇してしまった。

 忠勝は敵を発見した時点で敵との戦力差を見抜き撤退を始める。だが武田先方の馬場信春が素早い動きで追撃を開始し、本多隊は一言坂まで下がったところで追いつかれてしまった。

 本陣の家康は本多隊に群がる武田軍を迎え撃とうと進撃を命じるも、付き従う榊原康政、大久保忠世らは戦況が不利な状態にあると見定めて、主君を守る為の行動に出た。

 大久保隊が家康の前に陣を動かして壁を作り、康政が旗本衆らに命じて天竜川の渡河支度を始める。命令通りに動かない家臣らに家康が激怒するも、康政は身を挺して家康を引きずって川を渡る舟に乗せた。

 本陣が退却する動きを確認した本多隊は忠勝自らが殿となって武田軍先方の猛攻を防ぎ、主君が撤退する時間を作る。だが、馬場信春が波状攻撃で本多隊に襲い掛かり本多隊はこれに耐え切れず陣形を崩し始めてしまった。更には武田兵の一部が本多隊の後背に回り込み鉄砲を撃ち掛けた。本多隊は陣形を維持できない状態に陥り退路も断たれる状況となるも、武田の鉄砲隊に大久保隊麾下の本多正重が突撃を敢行してこれを蹴散らし、本多隊の退路を辛うじて確保する。

 陣形を立て直して撤退し始める本多隊を見て、これ以上の追撃は無意味と判断した馬場信春は善戦した本多忠勝に謝辞の鏑矢を放って兵を下がらせた。矢を受け取った忠勝は下がっていく信春の姿を一瞥して兵を引いた。


 徳川軍を退けた武田軍は、真田一徳斎の指示を受けて渡河をせず天竜川を北上する。武田軍の目標は二俣城であった。…其の城は、福釜康親が一年かけて改修を施し、強固な城へと変貌しており、且つ康親自身が武田軍の襲来に備えて詰めていた。


「殿は無事浜松城に撤退された模様に御座います。」


 半蔵は康親の後ろに近寄り静かな声で報告した。



「…被害は如何ほどであった?」


 康親は振り向きもせず聞き返す。


「四百ほどと思われまする。その多くが本多隊に御座いまする。」


「…結局殿は野戦を望まれたか。……ご苦労であった。次は西を頼む。」


 康親は半蔵に次の命令を指示した。西とは、奥三河から再び進軍してきた武田の別動隊の事であった。今回の武田軍の侵攻は北遠江から信玄本隊二万二千、奥三河から山県政景率いる八千。更には穴山信君率いる駿河衆六千の総勢三万六千という大軍であった。ただ、穴山隊は東遠江の兵を釘付けにするための派兵のようで大井川を渡ってからは目立った動きは見せていない。それでも東遠江の兵を封じられたことは確かで、この戦の初戦は武田方に軍配が上がった。


「敵は磐田原周辺を抑え浜松と東遠江を分断致しました。加えて三河野田城に別動隊が襲い掛かったことで三河衆も動かせませぬ。…我らは浜松、浜崎、そしてこの二俣を合わせても一万に届くか…依然劣勢に御座りまするな。」


 半蔵に変わって本多正信が康親の後ろに控えて話しかける。こちらも口調は静かであった。


「最初から分かっていたことだ。しかも今度は時期的に敵の兵糧不足を誘う手も使えぬ。残された手は守りに徹して織田殿援軍を待って挟撃するしかない。」


 康親は不機嫌そうに言い返す。だが織田家から約束された兵数は三千。しかも史実ではまともに戦をせずに尾張に帰ってしまっている。

 康親は史実通りに信玄をしに至らしめる為に辛辣なほどの策を既に練っていた。だがこれだけの戦力差をひっくり返す決定的な策については正信にも明かさず、服部衆には武田の動きを追わせ、千賀地衆には織田の援軍の動きを見張らせていた。そして敵を押し止めさせる手は幾つも考えており、自分が二俣城に詰めているのもその為であった。


「我らはこの二俣城で敵を惹きつける。その為に敵にとって無視できぬよう中根殿の千二百に我等八百を加えた二千で守りを固めて挑発した。…敵の本隊を縛り付け、三河の別動隊も惹きつけて、岡崎、吉田の兵を動かせるようにすれば…勝機を見出せん。」


「…焼石に水かも知れませぬぞ。」


「…そうはっきりと言うな。できうる限り足掻こうとしておるのだぞ。」


「足掻く…?…某には織田の援軍以外の何かを待っているように見えまするが?」


 正信の推測は図星ではあるが、康親は表情を変えずに反論した。


「織田殿以外の援軍は見込めぬ。ここ最近織田殿との関係が不穏な水野殿に支援を求めるのも下策だ。北條家も武田と和睦した故、支援も求められぬ。…足掻くしか残っておらぬのだがな。こんな話は中根殿には聞かされぬがな。」


 康親は軽く笑った。だが正信はそれに応じる訳でもなくじっと主君の顔を見つめていた。



 元亀3年10月16日、匂坂城を落城させた武田軍は二俣城へと迫った。信玄は天竜川沿いに北上して支流となる二俣川を渡ったところに陣を敷いた。二俣城から見れば真東の位置にあたる。そこから馬場信房隊を南下させ南山という小山に三千を陣取らせた。こちらは二俣城からは真南に位置する。一日かけて十分な陣構えを準備したのち、信玄は降伏を勧告する使者を二俣城に遣わした。


 使者としてやって来たのは武藤喜兵衛であった。松平康親は以前に躑躅ヶ崎へ出向いた時に見知った者が来たことで一瞬悩んだが、堂々と相手に自分の存在を見せつけることにした。喜兵衛のほうも対面した将の中に松平康親が居るとは思わず驚いた表情を見せていた。


「我が“隋空”と名乗っていた頃に、躑躅ヶ崎にてお会い致しましたかな、武藤殿?」


「…某は御屋形様との会見を傍らで見ていただけで御座いましたが。」


 二人は互いに言葉を掛けて暫く見つめ合った。やがて康親は喜兵衛が持ってきた書状に視線を移す。


「信玄殿からの書状は受け取った。…だが城を明け渡す気は御座らぬ。……それは我が此処に居る事で貴殿もわかっておろう?」


「某は御屋形様の書状を届けるのが役目…何方がおられるか、幾らの兵が籠っておるのかを見極め判断することはできませぬ。…ですが貴殿が此処に居られることが徹底して抗戦なさるおつもりであると感じてはおりまする。」


 喜兵衛は敬意を込めて頭を下げる。康親はフッと笑った。


「ならば信玄殿に伝えられたし。我は此処にいる。この城が欲しくば全力をもって当たられよ。それでも此処は差し出さぬ。我が全力で迎え撃つ。」


 康親の力強い言葉に武藤喜兵衛は清々しい顔で見返した。


「承った。…ですが後悔無きよう。我等は二万の軍勢で囲んでおりまする。逃げ場などないと思われよ。」


 武藤喜兵衛も負けじと言い返し、二人は再び見つめ合った。この時、康親には徳川家に立ちはだかる未来のこの男の姿を見つめていた。




 武田信玄は本陣にはその身を置かず、後方に佇む栄林寺で甲冑を脱いで身体を休めていた。そこに二俣城から戻って来た武藤喜兵衛が姿を現す。喜兵衛は信玄の傍に腰を下ろして平伏し、降伏勧告の結果を報告した。


「敵は降伏を拒みました。更にはあの福釜の男が居りました。」


 喜兵衛の報告に信玄は眉を吊り上げた。


「…二万を相手に戦う気か?」


「そのようです。全力で掛かって来いと申されておりました。」


「はっはっはっは!大言を吐いたな!…そうか、あの男が此処を守っていたということは、此処が徳川の生命線だと言うことだな。一徳斎の見立ては間違っていなかったようだな。」


 信玄は快活に笑うと小姓から白湯を受け取り口に含んだ。口をゆすいで近くに置かれた桶に吐き出す。わずかに赤く色味掛かった水が吐き出され信玄は舌打ちする。


「御屋形様!」


 喜兵衛が慌てて近寄るが信玄はそれを手で制した。


「大丈夫だ。それよりも本陣へ戻るぞ。諸将を集め儂が直々に喝を入れてやる。」


 信玄は重い体を起こして本陣へと向かった。諸将を集め軍議を開く。信玄の考えは全軍をもって一気に攻め込む算段であったが、真田一徳斎二俣周辺調査の報告を聞いて考えを改めることにした。

 二俣城の周囲は北と西を流れの速い天竜川で守られており、南は険しい尾根に頑丈そうな柵で覆われ、城への唯一の出入り口である東側は山頂にある城まで続く坂道になっていた。坂を駆け上がれば追手門横の櫓から弓矢で射降ろされるであろう。また道幅も狭く曲がりくねっており、大軍を一気に寄せるのも難しかった。そして武田軍は知らないが、此処までに二俣城を堅牢な城に作り替えたのは、松平康親であった。彼は一年以上かけてこの時を想定して改築していた。更にはあらん限りの弓矢と千賀地衆の伝手で得た堺の商人から買い入れた鉄砲を運び込んでおり籠城戦の備えは十分に行っていた。

 予想以上に守りの固い城の様相に信玄は大きく息を吐き出すように暫くの間唸っていた。


「……誰ぞあの城に攻め入る策はあるか?」


 信玄の問いかけに一徳斎を初め諸将は黙り込む。そこに武田勝頼が意を決したように発言した。


「父上…ここは二俣城を放って進軍するか、腰を据えて囲い込み、敵の疲弊を待つ長期戦しか御座りませぬ。」


 息子の言葉に信玄は不満そうな表情で頷いた。


「二俣を無視するわけにはいかぬ。此処は遠江の要だ。此処を無視して通り過ぎれば、北遠江の国衆は再び徳川家康に帰属してしまう。浜松との連結路は断っておかねばならぬのだ。」


 そう言い切って信玄はまた長い息を吐いた。喝を入れに来たつもりであったが、結果それを断念した。


「…四郎、儂はまた身体を休める。お前が指揮して城攻めを行え。但し、兵をできるだけ損なわぬ策でやるのだ。多少時間が掛かっても構わぬ。どうせ織田は大した援軍を寄越さぬのだ。」


 勝頼は「ははっ!」と返事をする。その後で何か考え込んだ。


「父上、三河にいる山県隊もこちらに向かわせても宜しいですか?」


「好きに使え。但し、野田城だけは落とさせよ。」


 信玄は総指揮を息子の勝頼に任せ、再び栄林寺で休息することとなった。武田軍は二俣城攻略について、短期決戦を捨て長期戦で挑むこととなった。それは信玄の病のことを考えると苦渋の決断でもあった。




 一方、浜松城に撤退した徳川家康は再戦を挑もうと軍の再編を急がせていた。榊原康政と鳥居元忠が思いとどまらせようと説得を続けていたが、一向に考えを改める様子はなく、家臣一同は困り果てていた。

 そこに三河からの援軍が到着した。と言っても兵居数は二百ほど。そして率いていたのは既に隠居していた酒井正親と福釜松平親俊、長坂信政であった。正親らは本殿大広間で家康に謁見する。家康は首を垂れる三人の老将を不満げに見やる。


「…援軍として来るは良いが、兵が少ないのではないか?」


 家康の不満は兵数の少なさであった。だが彼らは西三河衆の一員…岡崎の三郎信康の指揮下にある武将であった。しかも三人とも隠居して子に家督を譲った身。動かせる兵力など知れていた。それでも武装して浜松にやって来たのは理由があった。


「殿が武田と一戦交えようと聞き、それをお止めせんと罷り越して御座いまする。」


 正親が代表して答える。家康の眉がつり上がった。額には青筋が浮かび怒りを露わにしていた。だが正親はその変化に臆することなく話を続けた。


「武田は三万に届く兵力で攻めて来ております。此れを迎え撃つに野戦では勝ち目は御座いませぬ。それでも御出陣なさるのならば、我らは表門の前にこの身をたて、殿を命がけで押し留める覚悟に御座います。」


 正親が言い終わると同時に甲冑を鳴らして平伏した。その仕草は家康にはイラつきを与えるものとなる。


「三郎次郎が己を犠牲にして戦っておるのだぞ!主君たる儂が助けに行かずしてなんとする!?左様な事では誰も徳川家について来ぬわ!」


 家康の怒号が響き渡る。だが三人は動じなかった。今度は福釜親俊が口を開いた。


「妹婿殿は己を犠牲にする男では御座らぬ。秘策を持って二俣に入り、殿に浜松城でじっとするよう言われているのです。…彼の者をお信じになられては如何ですか?」


「信じる信じないの問題ではなかろう!徳川家存続か否かが掛かっているのだ!」


「…そうして家臣を信じずお一人で事をお進めなされますか?それでは誰もついては来ませぬ。」


「なんだと?」


 親俊の辛辣な言葉に家康が怒りを込めて睨みつけた。


「もう一度申し上げます。家臣をお信じなされませ。それが徳川家の結束を強め、栄える道となりまする。」


 親俊は静かに頭を下げた。正親と長政もこれに倣う。家康は拳を握り締めて身体を震わせながら立ち上がった。仁王のように開いた眼で三人を睨みつけた。長い間肩で息をする仕草を続け、扇子を床に叩きつけた。


「…貴様らは、浜松城の出入りを禁ずる。儂の代わりに武田の進軍を受け止めよ!」


 吐き捨てるように言うと、家康は足音を激しく鳴らして広間を出て行った。一同はその足音が聞こえなくなるまで身動きせずにじっと家康の言葉を受け止めていた。


 やがて榊原康政が重い口を開く。


「御三方には感謝致す。城の出入りについては某が殿に…」


「いや、もう我らも年で御座る。これが最後の御奉公と思い、勤めて参る。榊原殿も鳥居殿も本多殿も後をお頼み申す。」


 正親が康政の言葉を遮って言うと、ゆっくりと頭を下げた。



 元亀3年10月20日、酒井正親、松平親俊、長坂信政はたった四百の兵を率いて浜松城を出立した。隊は北へと進軍し、後に小豆餅と呼ばれる地へと向かった。そこは二百程度の兵が隠れられる広さの森があった。隊は森の中に陣を敷き、約二か月の間、武田軍を監視する役目を負った。

 その場所の北西には、多くの徳川の勇将がその命を散らした「三方ヶ原」の台地がそびえていた。





松平親俊

 徳川家家臣。福釜松平家の前当主で西三河衆の相談役も務める。年の離れた妹に生まれた子が可愛いくて仕方がない。


酒井正親

 徳川家家臣。雅楽頭系酒井家の前当主で西三河衆の相談役の一人。最近生まれた孫と過ごすのが楽しみ。


長坂信政

 徳川家家臣。既に隠居して家督は譲っていたものの松平康親に請われて岡崎城警護役に就いている。最近二人目の孫が生まれて嬉しい。


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