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62.高天神城の戦い

定期投稿の二話目で御座います。

いよいよ武田VS徳川の戦いが本格的になっていきます。




 元亀2年1月19日夜、松平康親と榊原康政は二人だけで話をしていた。密談である。康政の屋敷で酒と細やかな肴を手にしながら、難儀な問題について語り合っていた。


「…福釜殿も怪しいと思うか。」


「うむ。確かに上総介殿の名はあるが、花押がない。」


「そうか……殿にこの書状を見せんで正解であった。見せておれば問答無用で家臣に迎え入れたであろう。」


「…そうですな。こうなると無条件で出奔した者らを助けるのも……。かと言ってこの書状が本物かどうかを確かめるのも難儀…。」


 直接信長に「この手紙は本物ですか?」と聞くことは相手に対して失礼。間接的に聞き出せれば良いがそれも下手を撃てば相手への礼を欠いてしまう。康親は考え込んだ。康政が捕らえて尾張に返すと主張した理由はこれであった。どうするかは信長に任せる。それが無難だからだ。


「その小姓らに書状を見せると言うのは?」


 康政が思いついたように言うと、康親は唸っていた。一旦庇護する。書状を見せて本物かどうか確かめる。本物ならば首を刎ねる。偽物ならば家臣に加える。良さそうに思えるが、小姓らが真実を言うかどうかがカギになる。本物であっても命を惜しんで偽物と言うかもしれない。


「迂闊に首を刎ねる訳には行かぬ…。先ずは探して密かに匿うしか無かろう。」


「前田殿にはなんと言うつもりで御座る?」


 康政の問いに康親は首を捻った。前田利家は口が軽そうだ。言えば直ぐに信長の耳に入るかもしれない。そうなれば、此方が不利になる。


「それは我が何とかする。元はと言えば我が個人的に受けた事…殿には旗本衆の何方かの組下に加えることで決まったとお伝え致そう。」


「……誰の下に?」


「……お任せ致す。」


 二人の話は結論を先延ばしにするだけの内容ではあった。康親としても史実は知っているから配下に迎え入れるのが正解と思って進めているものの、織田家との関係を拗らせるような行動は慎みたかった。前世の知識が実は俗説で真実はこうだった、なんて場合もある。とにかく慎重に進めることを康政と確認したのだった。




 元亀2年1月23日、重臣らを集めた徳川家康は軍議を開いた。居並ぶ諸将の中には家康が遠江侵攻後に家臣となった今川旧臣の者もいる。康親は念のため顔の左半分を布で覆って出席した。


「軍議を始める。小平太、現状の説明を。」


 家康は上座に座ると榊原康政に説明を命じた。これに応じて康政が前に進み出て大きな絵地図を広げた。それは康親が服部衆に命じてあらかじめ作成しておいた地図で既に要所となる城の位置に黒もしくは赤で点が付けられていた。


「これは三河遠江の地図に御座る。ここが我らがいる浜松、此処が若君の居られる岡崎…。」


 康政は白い碁石を置く。


「先日、奥三河の国衆が武田家の調略を受けた事が判り申した。これにより、奥平家、田峯菅沼家、長篠菅沼家が武田に寝返っておる。」


 康政は喋りながら地図上の赤い点に黒石を置いていく。


「これにより武田は奥三河、北遠江、駿河の三方面から徳川領に侵攻することが可能となった。…此度の軍議は此れに如何にして対応するかを決めるものに御座る。」


 言い終えると康政は一旦自分の席に着座した。それを見届けると家康は話を続ける。


「見ての通り、武田信玄は本格的に我らに攻め込む構えを見せて来た。我等はこれに対抗せねばなん。……三郎次郎、策を申せ。」


 家康は今度は康親に命じる。康親は短く返事して絵地図の前に進み出た。


「武田家は長年に渡って北信濃を争っていた上杉家と和睦を結びました。既に織田家とは同盟関係にあります。従って北條との同盟が締結されれば、本拠を脅かす者はおりませぬ。武田と北條との同盟…これが徳川侵攻の合図となりましょう。…その進軍路ですが榊原殿の申される通り、奥三河、北遠江、駿河の三方面のいずれか…或いはその全てから、と予想されます。」


 周囲が騒めく。どれか一方面となれば対策の講じようもあろうが、三面同時となると家臣らはどうにもできぬと背筋を凍らせる。


「流石に三面同時には敵方の蓄え具合から考えてないとは存ずるが…ここは敢えて三方面それぞれに対策を打つべきと考えまする。」


 そこまで言うと康親は白石を一つ置く。


「まず奥三河方面からの進軍ですが、経路は大きく二つ。矢作川沿いに西からと、豊川沿いに東から。しかし矢作川沿いの進路は織田領と近く援軍を受けやすいことから除外……豊川沿いですが、ここらは先の田峯長篠菅沼の領地もあり容易く南下が可能。そこで豊川から平野に出て来るこのあたりの防衛強化を行います。」


 石が置かれた場所は東三河衆の一人、野田菅沼家の領地であった。一同は置かれた石を食い入るように見つめた。言葉を発する者はなく、生唾を飲み込む音が聞こえる。


「次に遠江ですが、侵攻は北からか東からか…北場合、防ぐ場所は二俣城。東の場合は掛川城。しかし掛川城については先年武田勝頼が駿河衆を率いて攻め込んだ時に追い返しております。従って強化すべきは…二俣城。」


 康親は白い石を置く。周囲からは唸る声が漏れた。康親は周囲を見渡し一息置くと家康に一礼して下がった。


「…今のは三郎次郎と小平太で考えた策じゃ。異論はあるか?」


 家康は通る声で響き渡らせる。だが誰も意見も反論もなく防衛強化の場所は決まった。


「では野田城の改修奉行は菅沼織部正、目付に本多作左衛門とする。二俣城は大久保忠世、目付には高力与左衛門とする。」


 一斉に頭が下がる。だが一人これに異を唱えた。松平三郎次郎康親であった。


「二俣の改修…我にお命じ頂きたく…。」


 康親はじっと家康を見つめる。彼の城は勝手知ったる城、どうすれば強化できるかはよく知っていると訴えていた。


「…よかろう。」



 軍議は終わる。


 三河方面は岡崎城の守備と織田家との連絡役を西三河衆で受け持ち平岩親吉と石川春重が率いる。石川数正は遠江との連絡役として浜松に在城となった。

 武田が奥三河から攻め込んだ場合は野田城を防衛ラインとし、菅沼定盈、西郷清員、設楽貞通の兵を集めて籠城する。その他の東三河衆は吉田城の酒井忠次の指揮下に入り、後詰、補給、工作を行う。遠江との連絡役は小栗吉忠として同じく浜松在城と決まった。

 遠江は二俣城での防衛とし、遠江衆は浜松に集結後に防衛に向かうこととなった。また掛川城には引き続き石川家成を配して東からの備えとした。

 これらは事前に側近らで協議して家康の承認を得て諸将に説明して意思統一を図っている。


 だが、諸将に説明していないことがあった。


 それは東の備えは家成だけではないことである。康親は参集した諸将の中に内通者がいることを想定をして、敢えて東の防備を薄くする内容で説明した。

 康親としては東から攻めてくれるほうが有難い。地形的にも守りやすく、織田の援軍の到着まで時間を稼げると考えていた。


 そして康親の思惑は的中する。



 元亀2年2月、織田信長は佐和山城に籠る磯野員昌を寝返らせることに成功し、完全に中山道を掌握した。勢いづいた信長は伊勢長嶋で蜂起しと一向門徒を掃討すべく大軍を向けたが惨敗し、更に三好義継、松永久秀の離反を招いてしまう。畿内は再び荒れ始めるも、信長は不利な状況を打開すべく強気な行動に出た。


 天台宗総本山の延暦寺は、京に近く北陸と京を結ぶ要所にあり、山上広くに渡って防衛拠点が設けられており、軍事的な要件を多く満たしていた。しかしながら信長とは敵対しており、義昭や本願寺、浅井朝倉などを支援しており、信長にとっては鬱陶しい存在であった。

 信長は相手側にとって有利な条件で和睦交渉を行うも延暦寺側はこれに応じず、業を煮やした信長は武力行動にでた。


 比叡山焼き討ちである。


 これによって比叡山は火に包まれ多くの物資と軍事力を焼失した。織田家は畿内における軍事的優位を再び手に入れ三好三人衆、石山本願寺との抗争に注力する。



 元亀2年5月15日、武田信玄は重臣らを集めて軍議を開いた。居並ぶ諸将は信玄の若き頃から共に戦場を駆った歴戦の勇将達である。その彼らを前に信玄は囁くように言った。


「天の時が近づいている。織田家は畿内の争乱に手を取られる…。動くぞ、皆の意見を言え。」


 信玄の言葉に穴山信君が前に進み出た。


「御屋形様、徳川家の者から書状を受け取りました。ご覧下さりませ。」


 信君は懐から書状を取り出して信玄に渡した。信玄は書状を広げて中身を確認する。そしてニヤッと笑った。書かれていたのは徳川家の武田侵攻対策についてであった。


「…逍遙軒が受け取った内容と一致するな。徳川殿には中々儂を判っておる者がおるな……考えたのはあの隋空であろうか。」


「今は還俗して松平を名乗っております。」


 信君の返答に信玄は驚いた顔を見せる。


「ほう、一門に取り込んだか。で、奴はせっかく引き入れた奥三河の連中を抑え込むようだな…三河の兵を使って。」


 信玄の言葉で秋山信友が笑う。


「御屋形様の描く通りになりましたな。これで全軍を遠江に向けられまする。」


「…駿河における対北條戦線もきりが良い。…攻め込むぞ。各々支度に取り掛かれ。」


「で御屋形様は…どこから攻め込む御つもりで?」


 問いかけたのは武田の頭脳と呼ばれた真田幸綱であった。上杉との和睦がなったことで北への守りの任を解かれ信玄の傍に戻って来ていた。


「此度は某も連れて下され。駿河の戦の折は北で歯がゆく思っておりました故。」


「ほほう。では進軍路はお主が決めよ。…何処から攻める?」


「東から。……報告からすると守りも薄く、大井川を越えたところに我らの仮城もあることから大軍を用いるには最適かと。」


「……儂には東から攻め込むよう誘っているように思えるがな。」


「掛川城を使って何やら考えておるやも知れませぬ。しかし敢えて東から攻め、これを食い破ってこそ…相手に大打撃を与えられるというもの。」


 幸綱の含みを持たせた物言いに信玄は再びにやりと笑った。



 元亀2年5月19日、武田信玄は自ら二万の兵を率いて大井川を渡って徳川領に侵入した。前年に築いた諏訪原の砦に本陣を敷くと、遠征用に大量の物資を運び込んだ。軍議にて諸将の意思疎通を図ると南にある牧ノ原へと軍を進める。掛川城を攻めるのならそこから西に進路を変えるのだが、武田軍はそのまま南下させた。

 掛川では昼夜問わず篝火を焚いて抗戦の備えをしていたが、監視の兵千五百ばかりを牧ノ原に残し、本隊はさらに南下して高天神城に迫った。


「何も遠江を攻めるのに掛川を通る必要はない。海沿いに西へ進めば家康の城に着くのだ。掛川で歯を食いしばって構えている奴らに構うことはない。高天神城を攻めるぞ。」


 信玄は真田幸綱の調べに基づいて兵数の少ない高天神城の小笠原長時を攻撃目標に定めた。夜の間に城の近くまで兵を進めると南側の尾根に陣を敷いて攻城の支度に取り掛かる。明け方になり従軍する諸将を集め軍議を開いていると、小姓が伝令の来訪を告げた。


「申し上げます!諏訪原の砦が攻撃を受け敗北!守将栗原殿は残兵をまとめ牧ノ原の兵と合流致しました!」


 報告を聞いた信玄の動きが止まる。手で口を覆う様に当てて考え込み大きく息を吐き出した。


「してやられたか……。」


「蓄えていた兵糧は如何した!?」


 馬場信春が怒鳴るように使者に問いかける。使者は脂汗を流しながらも何とか「敵に焼かれて焼失」と答えた。兵糧を失ったことを知った諸将は各々憤った。立ち上がって椅子をけ飛ばす者もいれば歯ぎしりに震える者もいた。信玄は立ち上がり陣幕の外に出て北に見える高天神城を見つめた。城は篝火が焚かれ亜薄明かりの中に浮かび上がっている。朝日が昇ればその全容も見えよう。


「…敵は最初から我らの兵糧が目的だったのだ。その為に新たな砦は築かずに、掛川、高天神のどちらかにおびき寄せるべく篝火を焚いて抗戦の構えを見せ……補給を軽視しているわけではなかったが、この時期の出兵は浅はかであったか。」


 信玄は口惜しそうな表情で高天神城を見つめた。


「父上!何を言っておられまする!兵糧など敵から奪えば宜しかろう!目の前の城を全軍で攻めてしまえば…」


 信玄の後を追ってきた息子勝頼が後ろから意見を言うと信玄は振り返って息子を睨みつけた。


「甘いぞ四郎…。あの城に兵糧があると思うか?」


「な、無ければ次の城を襲い…」


「そこも無ければ?」


「……。」


 勝頼は言われてようやく気付いた。敵の意図に。徳川家は兵糧を焼き払い敵から奪うしかなくなった武田軍を懐まで誘い込むのが作戦だったのだ。城は奪えど米は奪えず、空腹のまま遠江奥地で決戦を挑まれれば、いくら精強を誇る武田軍でも勝ち目はない。そのことに気付いた勝頼は戦慄し、続いて唇を噛み締めた。


「…撤退じゃ。この戦に得られるものはない。」


 信玄の合図でいつの間にか幕外に出ていた諸将が一世に跪く。武田軍は高天神城の南に陣を敷いて半日で撤退した。その軍容は整然としており、追い討ちを掛けられるような隙はなく、二日後には大井川を渡って帰って行った。




「……なんとかなりましたな。」


 武田軍の撤退を高天神城の櫓より見ていた者らがいた。福釜松平三郎次郎康親と本多弥八郎正信であった。


「これも我の策を信用して頂けた小笠原殿のお陰である。礼を申す。」


 康親は振り返って後ろで心配そうに見ていた男に頭を下げた。その横で正信も頭を下げる。


「何を言われるか。某はここで立っていただけで御座る。」


 高天神城の城主小笠原長時は首を振った。長時は最初は石川家成の書状を携えてやって来た二人に驚いていた。策を聞かされてその驚きは激しさを増した。だが先の朝倉との戦で康親の的確な助言を聞かされていた長時は康親を信じて城内を兵糧を持ち出して山林に隠し城兵を減らしてまで敵の兵糧部隊を襲う兵を掛川城へ送り、もしもの場合の城からの脱出ルートの確保を行った。何もやっていないわけではないのだ。


「これで暫く武田軍はやってくることはないでしょう。我等は次の戦に備えるべく浜松に戻ります。…ですが東への警戒はお忘れなく。」


 正信は丁寧な口調で長時に念押しする。長時は彼の冷たい雰囲気に押されながらもこれを承知した。




 元亀2年5月23日、武田軍隊徳川軍の戦いは高天神城を攻めることを断念した武田軍の敗北で終わる。だがこれは武田と徳川との戦の序章ででしかなかった。




高天神城

 信玄が落とすこと叶わず、勝頼が家臣らの反対を押し切って出陣を強行して奪取したことで知られる。近年の研究では信玄による攻城はなかったとされている。


真田幸綱

 武田家家臣。信濃の豪族、滋野一族の分家の分家にあたる。真田信繁の祖父にあたり、信玄の軍師として活躍する。


小笠原長時

 徳川家家臣。遠江の豪族で、今川氏真に仕えていたが、武田家の駿河侵攻後は家康に恭順する。姉川の合戦に従軍し朝倉家を撃退する一翼として活躍する。因みに松平康親とは面識がない。


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― 新着の感想 ―
[一言] 銀英の「戦場の勇者は多いが戦争それ自体をデザインしうる戦略構想家の何と希少なことであろう ってのを思い出した 織田信長や豊臣秀吉が優れてたのはそういう点もあるんだろうなあと
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