60.姉川の合戦の後に
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元亀元年6月25日、遠江国掛川城。
石川家成は松平康親に酒を注ぐ。次に酒井重忠の盃に注ぐ。そして申し訳なさそうな顔で笑顔を傾けた。
「…宜しいのか?浅井攻めは武功を挙げる絶好の機会だったのでは?」
康親と重忠は家康の浅井攻めには参加せず、家康に申し出て掛川城防衛の任に付いた。徳川主力が西へ派兵している間の武田侵攻を警戒しての対策であった。他にも浜松に大久保忠世、二俣に本多広孝を置いている。それ故にこの対策に兵を割いたことによって家康の率いる主力は五千ほどであった。
「我は松平の名を継いだとは言え外様である。余り功を立てすぎると反感を買う。それにこれ以上の出世は望んでおらぬ。」
家成は苦笑して重忠を見る。
「某は父が殿の勘気に触れておりまする。無理に功を上げても出征は難しいと存ずる…。既に一城を得た身なれば欲を掻くなと、父からも申し付けられておる故。」
そう言って重忠は笑った。
「貴公らはそれでよいかも知れぬが儂はそうはいかぬ。此処に居る間は何でも儂に言って下され。できる限りのことはお計らい致す所存。」
家成は酒瓶を差し出す。二人は嬉しそうに盃を手に取りグイっと飲み干した。
「福釜殿、…その…殿は浅井殿に勝てる、あいや、渡り合う…ことができるであろうか?」
言いにくそうに言葉を選びながら家成は尋ねた。康親は笑う。
「石川殿のご懸念良く判り申す。…殿がおられる時の徳川軍は強い。団結の強さが違う。それに榊原殿にいくつかの策を伝えてもおる。使うか使わぬかは榊原殿にお任せしておるが…。」
「その策とやら、ぜひ拝聴致したく。」
重忠が前のめりになる。家成も食いついた。康親は二人の興味津々な表情を笑いつつ承知した。
「では酒の肴としてお聞きくだされ。
松平康親は部屋の隅に置いてある碁盤を持って来ると碁石を三つ手に持った。
此度の出兵の目的は二つ…。一つは中山道の確保。もう一つは浅井の討伐。上総介殿は六月には兵を集め近江に出兵しておる。一刻も早く京への道を確保するために御座る。我等にもできるだけ出立するよう要請されておる。だが中山道を確保するための戦には加わる必要はない。果敢に攻めて城を奪っても徳川のものにはならぬからだ。兵を用いるは浅井との決戦の時のみ。
「…此れがひとつ目に御座る。」
康親は碁石を一つ碁盤に置いた。二人は頷く。
浅井と朝倉の兵…。兵の動員力で見れば朝倉家のほうが強い。だが士気の高さでは天と地ほどの差がある。浅井は勝たねば殺されるやも知れず、朝倉は負けても生きて帰れば問題ないと考えており、戦に対する意気込みが違う。更には朝倉の兵は織田、徳川、浅井と比べて戦の経験も少なく、大将たる義景は弱腰で恐らく出陣もせぬであろう。兵を無駄に損なう事を避ける為、徳川が戦うべき相手は兵数に関係なく朝倉と対峙すべし。
「此れが二つ目…そして」
康親はもう一つ碁石を置いて言葉を続けた。
浅井朝倉との戦いは籠城戦とはならぬ。朝倉の兵がいつ近江に到着するか判らぬが、一城に籠るには困難であり、また籠る理由がない。必ずや野戦となるであろう。姉川を挟んでの対峙が予想される。もし川を挟んでの戦となったならば、決して渡河はせず敵を誘い込め。
「…此れが三つ目だが……ううむ…殿の性分には合うておらぬと思うておる。」
家成が大笑いした。そして慌てて首をすぼめる。
「失礼、思わず笑うてしもうた。…しかし朝倉の兵と戦えとは。…国力差を考えれば浅井と戦うのが得策と考えるものだが…。」
「そうで御座る。しかし福釜殿の話を聞けば納得できまする。されど我が殿はその策を聞き入れるであろうか?」
重忠は盃を手に首をかしげる。その盃に康親が酒を注ぐ。
「だから榊原殿にお伝えしたのだ。我が殿は、我の策と聞けば途端に反発したがる。」
「はっはっは!何故か殿は福釜殿と張り合おうとされるからの。」
石川家成は再び大笑いした。家成は桶狭間での戦いの頃から家康に従い戦を経験している。家康の戦への挑み方はよく知っており、家臣の間では如何にして前のめりになる家康を抑えるかが暗黙の認識であった。その後も三人は殿の話を肴に酒が進んで行った。
元亀元年6月28日、織田徳川対浅井朝倉の戦が行われる。姉川の南にある横山城を織田勢が包囲し、これを救出せんと浅井勢は前日の夜から未明にかけて夜襲の為に兵を動かす。だが浅井朝倉勢が姉川を渡る前に徳川勢に行軍を知られ、双方の軍が陣を展開した。
浅井方は長政を大将に六千、朝倉方は景建を大将に八千。対する織田方は横山城包囲に兵を割いたものの信長を大将に一万五千、徳川方は家康を大将に五千。浅井軍と織田軍、朝倉軍と徳川軍がそれぞれ対峙して決戦の火蓋が斬られた。
戦の序盤は浅井方優勢で進む。決死の覚悟の浅井勢の突撃は苛烈なもので織田勢の陣形が見る見るうちに崩れていき、あわや信長の本陣にまで届く勢いを見せるも織田勢は柴田勝家、森可成の活躍で何とか体制を立て直して浅井勢を突き返す。織田勢が持ちこたえたのを確認した徳川勢は一気に攻勢に転じた。前線を下げつつ朝倉勢を引き寄せていた徳川軍は伸びきった敵の陣形にまさに横やりを入れた。密かに大きく回り込んだ榊原康政隊が西側から攻撃を仕掛けると朝倉軍は大混乱に陥る。崩れた陣形を立て直すことができぬまま攻勢に転じた酒井忠次隊石川数正隊に突き崩され、朝倉軍は敗走し始めた。
これを見た浅井軍にも動揺が走り陣形にほころびが生じる。織田軍の木下秀吉隊が突撃を敢行すると形勢は一気に逆転し浅井勢も敗走を始めた。浅井長政も小谷城へ撤退を始めたことで勝敗は決着した。
戦は追撃戦へと移る。兵の半数以上が姉川を渡っていたことで逃げ道が閉ざされていた浅井朝倉勢は次々と討取られる。川に逃げ込んだ者は甲冑の重さに溺れ、鎧兜を脱ぎ捨て飛び込んだ者は矢に射かけられ、多くの兵が命を落とすことになる。
朝倉景建は越前へと敗走し、浅井長政は小谷城へと撤退。浅井朝倉軍の敗退を知った横山城は信長に降伏し、織田徳川軍の勝利となった。
元亀元年7月10日、美濃国岐阜城。
浅井朝倉の連合軍を撃退した織田信長と徳川家康は岐阜城にて戦勝祝いの宴を開いていた。浅井の居城である小谷城の喉元にある横山城に木下秀吉を置いて監視させ中山道の要所に重臣を配置して岐阜へ帰ったのだ。宴では朝倉の軍を五千で打ち破った徳川家康を大いにもてなす。
「徳川殿、ささ、もう一杯。」
丹羽長秀の勧めで家康は酒を煽る。随分と飲まされているは目は正気を保っていた。内心は不機嫌極まりない信長とその家臣からのもてなしであるが表情はいたってにこやかさを見せていた。
「久しぶりに直接兵を率いて暴れた故、酒も旨い。」
これは家康の本音である。今までは家臣らに何かと押し止められて遠くで眺めているだけであったが、今回は本陣から直接指揮もし、掃討戦で馬を駆って敵兵を追いかけた。直ぐに側近らに止められはしたがたまっていた鬱憤を晴らしている。
「我らはこの後、中山道を完全に抑え、畿内の支配強化に努める。その中で徳川殿に援軍を要請するやも知れぬが…宜しく頼むぞ。」
信長は機嫌のいい声で話しかけながら小姓が注いだ酒を飲む。家康は嫌な顔一つせずに笑顔で答えた。
「お任せ下され。我等三河衆がいつでも馳せ参じて織田殿の進路を綺麗にしてご覧に入れましょう。」
「此れは頼もしい。」
二人は笑い合う。信長は家康と三河の兵をどう利用するか考えを巡らし、家康は織田家を使って武田を抑える術を見出そうとしていた。
家康は思う。確かに康親の言う通り織田の傘下に入ることで武田の脅威から守ることはできよう。だが、それが今なのかどうかが判らない。織田家中で確固たる地位を持って配下になるにはまだ戦功が足らぬのではないか。
「…上総介殿、近頃甲斐の輩が騒がしくしておるが…」
不安から来る家康の呟きのような問いを信長は一笑した。
「武田は周囲に敵が多すぎる。北條にしても上杉にしてもほったらかしにして徳川殿を攻めるようなことはできぬ。…もし武田が兵を動かそうものなら儂が徳川殿をお助け致そう。」
「これはこれは頼もしきお言葉。されどご心配は無用。織田殿がさほど武田を気にしておられぬようであらば、我らが細心の注意を払い織田殿の背後をお守り致そうぞ。」
「頼りにしておる。」
二人は互いに酒を注ぎ合った。家康の考えは纏まった。織田に下るのは武田の脅威を退けた時。これであれば康親も納得しようぞ。家康は表情を引き締め注がれた酒を一気に飲み干した。
元亀元年7月11日、徳川軍は帰国の途に就く。13日には岡崎に入り、築山と信康の歓待を受け15日には浜松に戻った。帰って来た家康は家臣らが気味悪く思うほど上機嫌であった。そしてその家康の様子は間もなく松平康親にもたらされる。
浅井の離反以降、畿内は不安定となった。大きな要因は信長と義昭との関係の変化であった。畿内は信長派と幕臣派で二分され、これに乗じて三好家が再び侵攻を始める。信長の畿内支配はほころびが生じた。そしてそれは周辺諸国に反信長の盟約を結ぶ気運を高めていった。
元亀元年10月2日、遠江国浜松城。
岡崎でゆるゆると信康の教育をしていた康親は家康の招聘を受けて浜松城に登城した。家康は主だった者を集めて軍議を開く。姉川での戦以降、家康の心情に変化があって、此処まで積極的に内政に関わってきており、表情も引き締まって落ち着きが見られた。
「康親、武田の調略が遠江、美濃の国衆に掛けられていると聞いた。三河では何か起こっておるか?」
家康の問いかけを受けて松平康親は一歩前に進み出た。
「…三河では武田の動きは特にありませぬ。ただ……藤林衆の姿をちらほら見かけまする。田原殿を調略するためと思われまする。」
康親の言葉に頷く。田原城主、戸田忠次に武田が接触した話は本人からの報告を受けていた。
「藤林衆…確か武田に下った今川の者が使っていた伊賀者…か」
家康の言葉に今度は康親が頭を下げる。“今川の者”とぼかした表現をしているが、今川一門でもある瀬名信輝で康親の義弟であることは家康も知っていた。康親は今川が滅ぶ前から信輝(当時は氏詮)を注意すべしと語っていたので居並ぶ諸将も覚えていた。
「武田は大きく動く可能性があります。ここのところ、畿内では上総介殿の統治に反発する輩について聞こえております。……これに乗じて武田が動いても不思議ではありませぬ。」
諸将の様子が変わる武田との合戦を想像して表情を引き締めたようだ。
「しかしながら、上総介殿が申すように、武田は周囲の敵を放置して攻めて来ることはないでしょう。つまり、北條や上杉の動向を監視することで自ずと武田が動き出す時が計れるものと考えまする。」
「北條…武田は再び北條と盟約を結ぶか?」
駿河に侵攻後、武田は北條の攻撃を受けて駿東を奪われた。上野方面から南下して小田原に迫るも鉄壁な防御力の小田原城に苦戦し、結局和睦して同盟を結ぶ。しかし直ぐに同盟を解消して今度は上杉と組んだ。状況に応じて組む相手を変えて敵を絞り込んで戦に挑む。今のところ織田家とは同盟を結んだままではあるが、それもいつ解消するか判らない。同盟しているから安心できる相手ではないことは皆重々承知であった。
「北條と手を結んだ時が我らの領内へ攻め込むとき。此処は北條と懇ろにしておくことで武田の動きを計りましょう。」
康親の進言に家康は頷く。こうして徳川家の方針は変更される。これまで武田警戒を重点に置いていたが、警戒を敢えて解き北條との親睦強化を図って間接的に武田の動きに注視する。そして遠江の各拠点強化を推進することとなった。
松平康親はこの軍議において黙っていたことがあった。それは武田家の動向についてである。三河にも藤林衆とは別に武田家の間者が幾人か忍び込みある人物に接触していた。
家康の正室、築山殿こと鶴姫にである。
浅井長政
浅井家当主。信長の越前討伐で反旗を翻し朝倉と手を組むも姉川の戦いで大敗して多くの家臣を失う。実際には本人の意思よりも朝倉派の家臣らによって謀反を起こしたと言われている。その後再び朝倉軍と合力し比叡山の支援を受けて近江の織田領を攻めている。
朝倉景建
朝倉家家臣。浅井家の要請に応じて当主義景に代わって兵を率いる。当初二万の軍勢を招集したものの半分しか集まらず義景が出陣を拒否したことで急遽大将として浅井救援に向かったのが実情。敗残兵を纏めて帰国後は義景の叱責を受け一軍の将に格下げられる。
織田信長
織田家当主。姉川の合戦に大勝するも浅井家を滅亡にまで追い込めず、三好との戦いの隙をつかれて坂本城を攻撃され、森可成、織田信治らを失う。これをきっかけに信長は比叡山とも敵対する。
戸田忠次
徳川家家臣。三河一向一揆では本願寺方につくも内通を疑われて徳川方に転じる。以降は東三河衆の将として各地を転戦する。




