55.観音寺城攻め(前編)
いよいよ新章突入です。
この章では本能寺の変までのストーリーになります。
…が、徳川が関係するイベントだけで話が進むと思います。
それではお読みください。
永禄12年3月26日、三河国岡崎城。
本殿大広間にて出陣の儀式が取り行われる。控える将は松平勘四郎信一、酒井藤十郎重忠、内藤弥三郎清成、平岩七之助親吉、松平三郎次郎康親で、上座には少し大人びてきた徳川三郎信康が座っている。織田信長の要請を受け徳川家康の命で兵を動かすのだが、形式上は岡崎城主徳川信康の命としての出陣の儀式であった。
しかし一般の儀式とは異なり、此度の儀式には信康の隣にその母で徳川家康の正室でもある築山殿が佇んでいる事であった。出陣の儀式に女子が立ち入るのは異例ではある。だが信康の希望で母築山殿の同席で取り行われた。
儀式は主と家臣のお決まり文句のやり取りで始まり、決まりの供え物を奉じ最後に主から軍配を渡される。これは「主に代わって兵を率いよ」という意味らしい。
一通りの儀式が済み、軍配が信康から松平信一に渡される。その後一同は主君に一礼して広間を出ていくのだが、ここで信康は康親に声を掛けた。
「隋空!」
呼ばれた康親は内心狼狽えつつも平静を装い「はは!」と返事をする。
「…京での土産を楽しみにしている。徳にも良い物を見繕ってくれ。」
「は…はは。承りました。」
康親は辛うじて返事した。此れから戦に向かう者に土産を要求するとは…この子は戦がなんであるかをまだ理解していないのか、それとも空気の読めない者なのか。脳裏に家康の顔がチラつく。だが、家康の雰囲気とはまた違うと認識する。康親はちらりと隣に座する築山の顔を見た。心配そうに子を見つめる母の顔。
…子離れのできていない母親…康親はそう感じた。だから儀式にも出席したのかと推測する。
その後儀式は滞りなく進み、西三河衆から集めた兵は三千が岡崎城を出立する。大将の松平勘四郎隊が一千、酒井隊、内藤隊、平岩隊、松平三郎次郎隊が五百ずつ。これらを二日の道程で岐阜城まで進軍する。既に岡崎から岐阜までの行路は安全が確保されており、武装はせずに軽装で進軍する手はずだが、岡崎城を出るまでは見栄えの事を意識して完全武装をして隊列を整えていた。その様子を信康が櫓から見送っているが、その姿は無邪気な子供にしか見えなかった。
永禄12年3月29日、美濃国岐阜城。
前日に到着した徳川隊は宛がわれた宿舎にて一夜を過ごし、城外の開けた場所に建てた陣屋での出立前の軍議に出席した。陣屋内に並ぶは上座に織田上総介信長と足利義昭、左右には浅井長政、柴田勝家、丹羽長秀、稲葉良通、神戸具盛、長野信包、松平信一、松平康親となっている。更に周囲には義昭の直臣と信長の小姓衆が控えており、この中には明智光秀も加わっていた。
「公方様、此れより軍議を始めまする。」
信長の言葉で軍議が始まり、まずは信長が出席する諸将を義昭に一人ずつ紹介していく。居並ぶ諸将が公方に挨拶する中、この光景に康親は違和感を覚えていた。それは軍議に出席する将である。織田家家臣については複数いてもおかしくはない。だが他は大将のみが出席なのに対して徳川軍は勘四郎と康親の二人。呼ばれたから来たのだが、出席配分が明らかにおかしい。
康親があれこれと考えている間に徳川家が紹介される番になった。
「此れなるは徳川家に仕える者に御座います。」
信長に促されて勘四郎が一歩前に進み出て義昭に頭を下げた。
「徳川三河守が家臣。松平勘四郎信一と申しまする。此度は主三河守が参陣できなんだ事を主に代わりましてお詫び申し上げまする。」
「よい。徳川殿は今川と戦の最中と上総介からも聞いた。参陣してくれただけでも嬉しく思う。」
「はは!主不在なれど我らは精強なるをとくとご覧頂きとう。」
勘四郎は深々と頭を下げた。うんうんとにこやかに頷く義昭。そして視線は康親に注がれる。
「公方様、此れなるは徳川家家臣の身なれど中々の人物で御座いましてな…三河守に無理を言って此度の軍勢に従軍させました。」
康親は勘四郎に代わって前に立ち一礼する。
「松平三郎次郎康親に御座いまする。お見知り置きを。」
俺の短い口上に義昭は小首を傾げる。すかさず信長が口添えした。
「以前は“隋空”と名乗っておりました。」
途端に義昭の顔が明るくなる。
「ほう!この者がそちの申していた“坊主らしからぬ坊主”か!」
康親は心の中で舌打ちする。自分の名が知らないところで知れ渡っている。しかも“坊主らしからぬ”とはどういう意味だと聞き返したくなった。
康親が返事をせずに黙っていると足利義昭が興味深げに康親の顔をまじまじと見て来た。
「……まだ若い様だが、何故還俗した?」
義昭からの素朴な質問。色々と訳ありなんだが全部説明してたら日が暮れてしまう。
「上総介殿の申される通り“坊主らしからぬ故”我が主に言われ、福釜の松平の養子となりました。」
信長と義昭が大笑いした。
「三河守殿もお主を左様に評したか!これは面白い!」
康親の思いなど気にした風もなく信長はかっかっかっと笑う。
「しかし…松平となったか。それはちと残念…何かあらば三河守殿からお主を引き取ってやろうと思うておったのに。」
「有難き仰せ…されど某は還俗の際に一生徳川家にお仕え致すと神仏に誓いますれば…どうかご容赦を。」
康親は頭を下げた。俺のことはほっといてくれ…そんな気持ちを込めている。信長はやや不機嫌そうに首をかしげる。
「ふん…坊主の頃からそうであったではないか。まあよい…康親を此処へ呼んだは上洛の軍の一翼を任せる為ではない。兵は別の者に率いさせよ。京に入るまでは儂の傍に控え臨機に応じて儂に進言すべし!」
康親は思わず顔を上げた「なにゆうてんねん?」と声を出しそうになる。他国の将を無理矢理本陣付きにさせる。大将を質代わりに本陣に留め置き戦をすることはあっても、大将ではないものを本陣に留め置くは異例である。ましてや他の軍はそのままで徳川軍だけというのもおかしい。
これは俺に何かを期待していると考えるべきか。
康親は脳内で素早く算段する。しかし断ると面倒事になるのは目に見えていた為、仕方なしと判断した。
「承知いたしました。一旦自陣に戻りて諸般を任せて後、上総介殿の下に参陣仕りまする。」
こうして松平康親は上洛戦における織田軍の参謀の一人として組み込まれることになった。康親からすれば目立つような行動は避けたいのであったが、信長から名指しで派兵を要請された時点である程度のことは覚悟していた。…だがこの後、六角氏との戦の中で軍略家としての才能を大いに発揮してしまうことになる。
軍議を終え、各将は自陣へと戻る。信一と康親も自陣へと引き上げたのだが、信一は殊の外上機嫌であった。理由は康親が不機嫌であったからである。
「福釜殿、織田殿の御側に侍るとは喜ばしい限り!誠に羨ましいことで御座る。」
嬉しそうに喋る信一に康親は辟易していた。別に本気で康親の待遇を喜んでいるわけではない。信長の傍にあってうんざりする姿を想像して笑みを浮かべているだけである。
「いやあ、できる事なら某に代わって頂きたいもので御座るが…流石にそれはできぬ事…何、福釜衆のことは大丈夫で御座る。平右衛門殿がしっかりと率いてくれる故、安心して織田殿のもとで功を挙げられよ。」
そう言って信一は康親の肩を叩いた。康親は冷たい視線を信一に送る。
「覚えておけよ。お主に何かあったとしても上総介殿には何も進言せぬからな。」
「構わぬよ。その方が気楽に兵を動かせる。」
ひとしきり笑った後で信一は真顔に戻す。
「…初戦は六角氏となる、と言っておったな。六角の居城、観音寺城は中々の堅城と聞いたぞ。」
観音寺城…六角家当主右衛門督義治の居城だが、山の頂に本城があり、周囲に大小十数もの支城を構え、これらを複雑な曲輪で結んだ山全体が要塞化した城である。京にも近いことから商人の往来する繁栄した城下町を持ち、資金も米も水も豊富に備えた城で難攻不落と謳われていた。信長は上洛に際し六角氏にも公方に従軍するよう要請したが、名門六角家が織田如きの指図を受けるは存外なり、と断られ信長と敵対したことにより初戦の相手となった。
「だが…城を守る六角家臣共は当主との仲が上手くいっておらぬそうだ。正面から攻めるより、内部から風穴を作って崩壊させるのが上策と考えている。」
康親も信一の質問に真顔で答えた。六角氏は先の「観音寺騒動」によって家臣の求心力を低下させており、浅井家の独立など国人衆の離反を招いていた。その余波は未だ続いており、信長も重臣の蒲生家に内応する様交渉も進めていた。
調略と同時進行で軍を進める。用兵としては常套手段であるが、信長はこれを効果的に使う。内応交渉は蒲生家だけではなく多くの国衆に掛けていたが、その多くが返答に窮してどちらにも付かずという選択を取り、織田軍は諸城をけん制しつつも、干戈を交えずに愛知川の北岸まで軍を進めることに成功した。
ここで六角家の実権を握る六角承禎も兵を動かし防備を固める。織田軍も無理な渡河はせずに陣を構え、そこで最初の軍議を開いた。
4月3日夜、義昭・信長本陣にて軍議が開かれる。集まるは諸将に足利直臣の明智光秀から状況の説明を受ける。
「敵はこの愛知川南岸にある和田山城に主力を配して防備を固めております。また箕作山城にも多数の兵が詰めており、この二城でおよそ一万になるものと思われまする。居城のある観音寺山には十数の支城に備を置いておりまするがいずれも少数であり、近隣の垣見、伊庭は織田殿調略に揺れ動いている模様。更に南には野洲郡、蒲生郡、甲賀郡の国衆が守りを固めております。」
光秀は周辺の情報を一気に説明した。義昭は盾机に広げられた絵地図を見ながら整った髭を摘まんでいる。信長は諸将の様子を伺っていた。
「十兵衛、如何様にして攻めるべきか…策はあるのか?」
光秀はちらっと信長を見る。信長が軽く頷くのを確認すると、自らの策を説明し始めた。
光秀の案は観音寺山を左手に北から攻める案を打ち出した。西や南側は平地が広がるものの兵力を集中させ防備を固めており、また城下町が連なることから攻め入るには多大な犠牲を伴うと考えていた。ならば和田山や箕作をけん制しつつ北から観音寺山に攻め入り、支城を一つ一つ落としていくのが確実と判断した。諸将は納得するかのようにうんうんと頷く。その中で松平信一だけがじっと康親の顔を見ているのを信長が見つけた。
「…松平殿、坊主上がりの意見が知りたいようだな。…康親、気になることがあらば申して見よ。」
信一は信長に心を見透かされたことに思わず身じろぎ、康親はその信一の表情を見て嘆息する。わずかな間をおいて康親は光秀を見る。光秀はしたり顔で見返していた。
康親は目を閉じた。自分がここで意見を言えば更に注目を浴びることになる。しかし、光秀の案では落とせないと思っており口を出すべきか迷った。しかし仕方なしと結論付け閉じていた目をゆっくりと開く。
「…明智殿の策は常道を行き堅実なる良策と心得まする。…されど此度は一刻も早く上洛するが最上……故に敵の懐に一気に飛び込んで此れを砕き戦意を挫くのが上策に御座います。」
「敢えて西から攻めると言うのか!下手すれば和田山、箕作、布施山から挟撃されるやも知れぬぞ!」
康親の予想外の作戦案に思わず光秀が声を荒げた。絵地図を指さし無謀であると主張する。
「それほど危険は孕んでおりませぬ。それは六角家が野戦ではなく籠城戦で我らと対峙したことで示しておりまする。」
康親の冷静な返答に光秀も少し間をおいて何かを理解した表情を見せた。
「彼らが籠城を選択した理由…それは京からの援軍を待っておるからです。」
六角は織田の申し出を断った。それは足利義昭を否定し、三好らが奉じる堺公方に属することを意味する。ならば義昭の上洛を阻止するために打つ手の一つとして三好らと手を組むと言うのは想像できた。
仮に時間をかけて観音寺山を攻略した場合、三好軍を近江に呼び寄せることとなり、上洛はたちまち困難を極める。それでは義昭は態勢を整えるために美濃に引き下がらねばならず信長としても面目を失う。強引に戦を仕掛けたとしても勝てるかどうか…勝っても大きな損害を被ることは必須であった。
明智光秀は潔く自らの案を退けた。そして再び絵地図に目を向け、西から攻める案を考え始めた。
「なんだ十兵衛、やけにあっさりと引いたの。」
信長が意地悪く問いかける。
「は、某の考えが及んでおりませんでした。目の前の城にばかり目が言っていたようです。」
「…であるか。康親、お主はどう攻めるべきと考える?」
身を引いた光秀を横目に康親は絵地図に碁石を置き始めた。
「和田山城に使者を送り開城要求を突きつけこれに注視させます。その間に我が軍を二手に分け、野戦、攻城に強い者を川沿いに南へ、荷駄及びその護衛は北へ移動致しまする。この時、南の部隊は夜陰に紛れ敵に悟られぬ様…北の部隊はこちらの主力であるように工作を。南の部隊がここまで来たら、一気に渡河し箕作山城を一気に包囲し城攻め致しましょう。相手は箕作山が簡単に落ちるはずがないと決めつけ直ぐには救援を向かわせはせず、北側に目を向けたままとなりまする。ここで和田山の交渉を打ち切り攻城を仕掛ける動きを見せ、北側の部隊も合流に向かわせまする。」
ここで信長が康親の言葉を遮って口を出した。
「できる限り北側に敵の目を惹きつけている間に箕作山城を落とせば…六角の戦意を挫くこととなるか。」
「その日数が短ければ短いほど…戦意は大きく下がることでしょう。」
「できるのか?」
「腹案は御座いまする。」
康親は策があることだけ伝えて口を噤んだ。暫く信長と康親の睨み合いとなる。その様子を見て足利義昭が笑みを浮かべて「ほう」と唸った。
「良かろう。貴様の策に乗ってやろう。権六、五郎左、十兵衛と貴様は残れ、他は自陣に戻られたし!…公方様も今宵はお休みなされませ。明日の朝を楽しみになされたし。」
含みを持たせた笑いに義昭が応じる。
「ほっほっほ…今宵は良きものを見たり。上総介殿が“坊主らしからぬ…”と申したは誠也であったわ。」
扇子で口元を隠しながら笑うと義昭は席を立った。
「十兵衛…後は頼んだぞ。」
扇子で軽く光秀の肩を叩きつつ義昭は他の直臣を連れて陣幕を出て行った。光秀は悲し気に目を主に向けつつ小さく返事した。
諸将が陣幕から出ていくと、信長は喜びを隠しきれない目で康親を睨みつけた。
「…さあ、聞かせてくれ、貴様の考えた箕作山城を短期で落とす策を!」
夜は長い。この後松平康親は居残って軍議を続け自分の思い描く観音寺攻めを披露した。そして数刻かけて検討を続け明け方までには将の配置まで決めることができた。この間ずっと織田信長の悪魔のような覇気を浴び続けた康親は、顔を土気色に変えるほど憔悴しきっていた。
織田信長
尾張、美濃を直接統治し、水野信元、徳川家康、浅井長政、武田信玄と同盟を組み、その影響は北伊勢、近江の一部にまで範囲が広がっていた。足利義昭を庇護したことで大きな転機となり、京でも名の知られる大大名になる。
足利義昭
十三代将軍義輝の弟で、三好家に襲われて以降諸国を放浪する。越前で朝倉義景の庇護をうけるも上洛する気のない義景を見限り織田信長の誘いに乗る。還俗時には「義秋」と名乗っていたが越前時代に「義昭」に改名。
六角義治
六角家当主。永禄6年の観音寺騒動にて一時家臣らと対立し、これが元で守護大名としての権威と実験を大いに削ぐことになる。信長が攻めて来た時点で父義賢は存命で実権も握られていた。
浅井長政
浅井家当主。北近江の有力国人であったが周辺国人衆を取り込み大きくなり、六角家から独立して戦国大名として名乗りを上げる。信長の妹、市姫が嫁いでおり、信長とは義兄弟の関係を築いている。
稲葉良通
織田家家臣。美濃三人衆の一人で、織田信長の美濃攻めの際に織田家に服属する。その後は美濃衆を率いて信長の緒戦で活躍する。
神戸具盛
織田家家臣。北伊勢の豪族であったが織田信長に攻められ、信長の三男を養子として迎えることを条件に降伏。以後は織田軍の将として仕える。
松平信一
徳川家家臣。藤井松平家当主。三河一向一揆での活躍で家康からの評価受け、連枝衆の筆頭の地位を得る。軍制においては西三河衆に属し、石川家成に次ぐ実力を持つ。
明智光秀
足利家家臣。美濃出身だが、斎藤義龍に領地を奪われ各地を流浪する。越前で足利義昭と出会い、その指揮権の高さを買われて直臣となる。




