54.三郎次郎の休息は終わりぬ
2022/09/19 誤字だらけを修正しました。
前話で「次回から新章」と記載していましたが、閑話的な主人公一人称視点回があることを失念しておりました。
よって、次回の定期投稿を新章とできるようこのタイミングで投稿させていただきました。
永禄12年3月20日、俺は浜松の仮御殿で遠江平定を進める徳川家康に呼び出された。織田家からの使者が到着したから至急来いということだが…まさかまた使者を待たせているのではないだろうか。浜松ともなれば福釜からは一日は掛かる。それは織田家に対して失礼にも程がある。舌打ちしつつ俺は半蔵と彦五郎を伴って馬に跨った。
三人で馬を走らせ岡崎城に向かい、石川数正に会う。事情を確認するためだ。そして数正の返事で俺は呼ばれた理由を把握した。
織田信長が上洛を開始するらしい。兵を集めるために同盟諸国に兵を出すよう触れ回っているとのこと。しかも徳川家に対しては、俺を名指しで要求しているらしい。数正は岡崎に立ち寄った織田家の使者から直接聞いたそうだ。俺は額に手を当てた。…そういやあの魔王…そんなことを言っていたわ。
頭を抱える俺に数正が心配そうに声を掛けて来た。
「織田の殿様はよほど貴殿をお気に入りのようですな。やはり織田家との関わりを控えたほうが…。」
俺は首を振る。ほっといたら本能寺の変が来る前に徳川家が織田家に飲み込まれてしまう。うまく立ち回って従属ながらも同盟状態を維持せねばならんのだ。…あんたにそれができると有難いのだがな。
「いや、下手な言い訳をして上総介殿の機嫌を損ねると後々に響く。…我が行かねばなるまい。」
俺は顔をバンバンと叩くと表情を引き締めた。三河兵の出兵準備を数正にお願いして、半蔵らを伴って浜松へ向かった。
浜崎館で一泊して3月21日に浜松に到着する。門番に登城を伝えると早速仮御殿に通された。正成と信宅の二人を控えの間で待たせて俺は大広間へと向かう。下座して待つこと暫し…鳥居元忠、大久保忠佐、夏目正吉、内藤家長、小栗吉忠らが現れ中座の位置で胡坐を組む。それから暫くして酒井忠次と榊原康政を従えて徳川家康が入って来た。…早速機嫌の悪い表情だ。
家康は上座に座ると扇子を鳴らしながら暫く俺を見つめていた。
「……面を上げよ、三郎次郎。」
家康の声に反応して俺は頭をあげる。目は合わせない。合わせれば言い合いになり、言い合えば前と同じように蟄居を命じられる羽目となる。家康もそのことが解っているのか視線は庭先に向けていた。
「織田殿から公方様の上洛に参陣する様にと文が届いた。」
「…まさか、その使者を待たせているようなことは…」
家康の拳に力が入る。だが家康は直ぐに緩めた。
「…参陣するが、当方も戦中…いかほどの兵で参陣するかは追って連絡すると言って帰した。」
家康にしては満点の回答じゃないか。…ほう、康政の助言か。
「して、某をお呼び致した理由とは何で御座りましょう。」
俺はとぼける。知っているが知らないふりだ。
「書状には隋空を従軍させるよう要請しておる。其は如何なることかお前に問いたい。呼んだ理由はこれだ。」
そう言って家康は織田家からの書状を俺に向かって放り投げた。俺は床に落ちた書状を拾い上げ中身を確認する。…一瞬この書状を引きちぎりそうになった。直ぐに心の中で深呼吸をして平静に戻る。
「“隋空”と書かれているところを見ると、某の近況をご存じないようで御座いますな。織田家は我らの情報収集を怠っているかと存じます。」
俺は敢えて論点をずらした。途端に家康の表情に怒気が漲る。
「儂は何故お前が名指しで要請されているのかと問うておるのだ!」
「……左様な事、我に分かる訳もなかろう!」
大声での問いに大声での返答。俺と家康は直ぐに一触即発となった。そして互いに冷静さを取り戻さんと黙り込む。…毎回これでは周囲の者も気が気でしかたなかろう。俺は話題を変える。
「で、誰を行かせるのだ?言っておくが殿は今川との戦に専念して貰わねばならぬ身…」
「其れくらい儂も分っておる!それに儂は織田殿が好かん!…できれば会いとうない。」
「ならば…西三河衆で二千ほど用意致す。大将は我以外の連枝衆からとし、旗本衆より目付け役を選定されたし。」
家康は小栗吉忠に視線を移した。ここ最近家康はこの男を信頼しており、遠江の国衆らの取り纏め、浜松城の普請、遠征軍の兵糧管理などそのほとんどを彼に任せていた。そして俺の提案の是非についても意見を求めたようであった。吉忠は無言で頭を下げる。
「良かろう。戦支度は石川与七郎にさせよ。大将については松平勘四郎に任せる。目付け役は彦右衛門…お前が行け。」
俺はほっとした。もっと言い合いになるかと思っていたからだ。本来ならば当主自ら公方様に従軍するのが筋…だが我らは今川を追いつめている真っ最中。家康を動かすわけにはいかなかった。あ奴の事だから上洛する!と駄々をこねるかと思っていたが…しかし家康の織田嫌いは中々のものだな。あとは、大将は松平信一…連枝衆の一人で三河一向一揆での活躍目覚ましく上洛戦に従軍する将としては問題ない。これならば信長も納得してくれよう。あとは…
「儂は眠いから寝る!」
軍議が進む中、突然家康は席を立って俺に言葉を残して大広間を出て行った。後を榊原康政と鳥居元忠が追う。俺は周囲を確認した。諸将は動揺を見せていたが酒井忠次は毅然とした態度を見せていた。この場に残り軍議を進めるようだ。
「酒井殿…軍議はお任せ致す。殿には必ず某が宥めまする故。」
「頼む。……殿は貴殿に嫉妬しておられるのだ。」
そう言って忠次は頭を下げた。
……やれやれ、殿さまは何時からそんな気位が高くなってしまわれたのか。
俺は小さくため息をついて立ち上がる。中座の者らの視線が俺に集中する。…俺は安寧に過ごしたいのだがな。そんな表情で俺を見ていると頼りなく思えてしまうわ。
俺は広間を出て家康の後を追った。
仮御殿、家康の寝室。
部屋に入ると榊原康政と鳥居元忠が俺に会釈をした。その奥に家康が背を向けてふて寝をしている。俺は身振りだけで二人に出ていくようお願いする。二人は顔を見合わせ互いに頷き合って無言で部屋を後にした。廊下を歩く音が遠ざかり、部屋に静寂が広がっていく。俺は家康の背を前にしてゆっくりと座った。
「…竹千代、聞いてくれ。今から話す言葉は我の本心だ。…我が望むのは安寧だ。ただ穏やかな日々を過ごし、持舟に眠る母を弔いたいだけなのだ。…だがこの乱世、如何なる武士も穏やかに過ごすことなどできぬ。天下に太平をもたらす者が必要だ。」
家康の体が動く。ゆっくりと起き上がり胡坐を組んだ姿勢となった。聞く気にはなったか。だが、俺に背を向けたまま。俺は話を続ける。
「我はそれが織田殿であろうと考えている。織田殿と直接話をして直感的にそう思った。あのお方は武家、公家或いは朝廷や幕府の仕来りや習わしを十分に理解し、そのうえでそれらを一度壊してしまおうと思われている。出自や官位役職にとらわれず、能ある者を取り立てて活用し、不要とあらば遠慮なく捨てる。…次の上洛において織田家は畿内を制し公方様を将軍に任じて天下人となろう。…だが織田信長という男は敵も多い。それだけでは安寧には程遠く、逆らう公家や武家を全て平らげて全土を掌握せねばこの乱世は終わらない。」
「……何が、言いたい?」
家康の低い声が床を這うようにして俺に届く。
「竹千代には天下を平らげる一翼となって貰いたい。お前にはその力があると信じている。」
家康がゆっくりと振り返る。睨みつけるように俺を見る。
「儂に織田に下れと申すか?左様に織田殿から密書を受け取ったか?」
俺は首を振る。
「徳川家が織田家を倒し、代わりに天下を治める力あらば、こんなことは言わぬ。…だが現実は厳しい。東に北條、北に武田、西は織田家に抑えられ、領土拡大は三国止まり…如何に強い家臣が居ろうとも、如何に銭や米が豊富になろうとも、斯様に閉じられた中ではそれ以上は大きくはなれぬ。」
俺は座したままずいっと前に進み出た。
「最初に申したであろう。我らは弱い。故に織田家の支援を受けて三河遠江駿河を平定する…。」
家康もずいっと前に進み、俺の胸倉をつかむ。
「覚えておる!貴様、あの時から我らを織田家家臣にするよう画策しておったか!」
「織田家は強い。今の我らでは太刀打ちできぬ。三国を手に入れたとて難しいであろう。…だが、その家中において上位…それも筆頭の地位なら取ることはできる。…改めて問い申す。竹千代は三国を得た後…如何とするか?」
家康の胸倉を掴む手が強まる。
「儂に天下を治る器はないか!?織田家を越える力はないか!お主にはそう見えておるのか!」
悲しみに満ちた怒りが家康を突き動かし俺の首を締めあげてくる。この家康の激昂は俺には想定外。…ぶっちゃけ息が苦しい。…だがこれが今の家康の本心であれば望みはまだある。俺が歴史で習った家康像からはまだ程遠いが…やはり持っていたのだ。
「…多くの者は領地を増やすことに一喜一憂する。だが、自家が大きくなるにつれ領地ではなく天下を意識するのであらば……それは天下を望む器がある証拠だ。……ならば我が取る道はただ一つ。」
俺は家康の腕を掴んで引き剥がし、そこから一歩引いて座り直した。
「もう一度申し上げまする。我の望みは自身の安寧…。されど、我が殿が天下を望む志をお持ちであると分かった今は、この望みをその辺の井戸に投げ捨て、あらん限りの智謀を持ってこの乱世を戦い抜き…我が殿による天下泰平の景色を眺めとうございまする。」
俺はめいいっぱいに平伏した。家康は俺を見つめたまま暫く黙り込んでいたが、やがてゆっくりと手を伸ばし俺の肩に手を置いた。
「……夜次郎。」
何かを言いかけた家康であったが、思い留まり手を放して座り直した。
「三郎次郎…儂はお前を信用する。織田の上洛戦…行って参れ。行ってその全てを見て儂に報告せよ。」
「はは!身命を賭して!」
俺と家康の二人だけの会話が終わる。家康は天下を目指すことを決意し、俺は家康に天下を取らせることを決意する。隋空と名乗ってからずっと残っていた互いのしこりが溶けたと感じた。
「ですが、殿には織田殿に下って頂きますから。」
「は!?何故!?」
「だって、今は無理です。まだ駿河に手は出せませぬ。」
「そんなことは分かっておる!」
「武田家に変に狙われぬよう織田家の傘を被るのです。」
「嫌じゃ!」
「先ほど我を「信用する」と仰ったではありませぬか!」
「それとこれとは話が別じゃ!儂は織田なんぞに頭は下げぬ!」
俺と家康の言い合いは続く。だが俺には心地よかった。昔の…竹千代と夜紅に戻った気がした。
考えていた。
家康が天下を取るためにはどうすれば…それは歴史の通りである。天下を望む織田信長に従属し、天下を手に入れた豊臣秀吉に服属し、天下を望む者が居なくなってからゆっくりとその手を伸ばせばよいのだと。
つまり天下を手に入れるには我慢が必要だが……俺のいる世界の徳川次郎三郎家康は…短気で浅慮で愚直で狭心…。
だからこの松平三郎次郎康親があいつをサポートしていく。
この日は、家康が初めて天下を意識していることを明かしたものであり、俺が史実通りに進めるのではなく家康に天下を取らせるとはっきり意識した日である。この日を境に俺の休息の日々は終わった。




