53.今川領消滅
連続投稿三話目です。
今話にて「二カ国の太守」完結になります。
次週より、「天下布武へ」編となります。
永禄12年1月7日、甲斐国躑躅ヶ崎館。
駿府周辺の制圧を終えて武田軍は馬場信春の一万五千を残して甲斐へと戻った。武田に寝返った瀬名氏詮もこれに同行し、初めて躑躅ヶ崎館に足を踏み入れた。当主信玄への戦勝報告が行われ、その後氏詮が呼び出される。氏詮は堂々とした仕草で居並ぶ武田諸将の間を進み、上座の前に座って拝礼した。
「面を上げられよ、瀬名殿。…此度はお主の働き見事であった。お主のお陰で多くの駿河国衆を戦わずに従わせることができた。」
「…お褒め頂き光栄の極み。…されど某もこれからは武田家家臣として御屋形様をお支えせんと全身全霊を尽くす者…。願わくば、影武者殿ではなく、御屋形様と対面させて頂きたく…。」
そう言うと氏詮は深々と頭を下げた。途端に中座に座する重臣らが怒気を漲らせる。上座に座する男は片手をあげて重臣らを宥め、じろりと氏詮を睨みつけた。
「初対面で儂の事を見抜くのは二人目だ。儂と兄上では“覇気”が違うか?」
顎鬚を扱きながら武田家当主を「兄上」と呼んだ男は問いかけた。氏詮は黙って頭を下げる。それを合図とするかのように、後ろの衾から本物の武田家当主が姿を現した。迫力の違う顔付き。氏詮を睨みつけながら弟の譲った上座にゆっくりと座った。氏詮は再び深く頭を下げる。その首筋には汗が流れ出ていた。
「此度は駿河の調略に大いに働いたことを褒めて遣わす。」
迫力のある声に氏詮は更に頭を下げる。
「駿河の統治は穴山左衛門大夫に任せようと思うておる。…が統治に必要な文書などが今川館と共に燃えてしもうてな。誰か駿河に詳しい者に左衛門大夫の補佐を任せたいと考えているのだが……引き受けてくれようか?」
否とは言えず氏詮はすぐさま返事をした。
「は!喜んで!」
返事を聞いた信玄はにこやかな表情を見せる。
「そうか。ではお主に瀬名郷を返還致そう。駿河にて穴山左衛門大夫の補佐にあたり、国衆のまとめ役として働くが良い。」
「はは!」
畏れを含めた氏詮の返事に満足そうに頷くと信玄はもう一つ質問した。
「…お主、徳川に“隋空”という坊主が居るのを知っておるか?」
少し間が空いてから氏詮の返事が返って来た。
「会うた事は御座りませぬが、名は耳に入っておりまする。」
「ほう…名は聞いておるか…どのような男だ?」
「……注意が必要かと。某の雇う素破共の話では、三河においては“胆”と言っても差し支えないかと。」
氏詮の言葉に信玄は少し目を細めた。
「…そうか。では儂も注意をしておこうか。」
瀬名氏詮と武田信玄の会見は終わった。疲れた表情を見せながら広間を出ていく氏詮。それを見送ってから信玄は隣に座る信廉に話しかけた。
「こうも簡単に影武者を見破られるとはの。あ奴は父よりも気の置けない者…のようだな。」
信廉は苦笑する。
「…それにしても、“隋空”について…父は駿河時代を知っておったが、子は知らなんだ。……それは世代の違いによるものか、はたまた…どちらかが何かを隠しておるか。…いずれにせよ、どちらにも監視をつけておくべきか。」
信玄の言葉を了承するかのように信廉は両手を付いて頭を下げた。
駿東郡、富士郡、庵原郡を手に入れた武田信玄はその支配域を駿河全域にせんと江尻に城を築き穴山信君を置いた。そして瀬名氏詮を国衆のまとめ役にに任じて信君を補佐させた。だが此処で武田の侵攻に待ったを掛ける者が現れた。
関東の雄、北條氏康である。
氏康は隠居の身ながら、四代目当主氏政に対して今川氏救援の兵を出すことを命じ、氏政はこれを受けて一万の兵を用意して自ら率いて駿河へと侵入した。同時に徳川家に使者を送り武田家と本格的に対峙すべく軍事同盟を画策する。関東地域に興味のない家康は氏康からの案をすんなりと受け入れ、徳川と北條は軍事的な同盟を結んだ。
永禄12年1月7日、三河国福釜城。
年始の挨拶を終えた松平康親と正室福は、城に戻ってようやく一息ついた。不慣れな烏帽子を取り払い火鉢に火を入れて二人で冷えた指先を温めていた。
「徳川の殿様は、北條家と盟を結んだと申しておりましたが、貴方様のお考えは如何でしょうか。」
おもむろに福が浜松での康親と家康との会話を持ち出した。浜松とは、家康が遠江の統治の為に築城中の城のことである。仮御殿が出来上がり、今年の年賀の挨拶はそこで取り行われていた。康親と福はそこで年賀の挨拶を行い、そこでの家康と康親との会話内容について聞いて来たのだった。
「ふむ、気になるか?…北條との同盟は問題はない。殿も関東に興味がないし。」
「では、今川殿との戦ですが、来月にも決着をつけると申されておりましたが…」
「掛川は堅城ではあるが、救援の可能性は薄い。寧ろ武田が駿河内で陣を構えている間に攻め込むのが良いと考えている。」
「お話の中で貴方様は今川殿の御命を取ってはならぬと仰っておりましたが?徳川の殿様は大層お怒りの様子でしたが…」
福の次から次へと投げかける質問に康親は苦笑する。そしてしばらく考え込んでから懐からくしゃくしゃの髪を取り出し福に渡した。不思議そうな表情で受け取った福は紙に書かれた文を見て驚きの表情を見せた。
それは昨年甲斐に居る瀬名氏俊から届けられた密書であった。
「丁度良い。その文は我の義父殿からのだ。甲斐で人質の身でありながら我にそれを寄越してこられた。それを読んで我は氏真は生かしておくべきと判断したが…そちはどう思う?」
手紙には瀬名氏俊の子、氏詮が今川家の家督継承という野望を抱いており、それを成さんが為に武田家に内応して此度の戦を招いた。そして氏俊の娘、輝が武田家臣、飯田何某に嫁いだことが書かれていた。そのことを知った福は手紙を康親に返すと深く考え込んだ。
「…武田家に属した氏詮という者が今川を名乗るとなると、武田家に対して謀反を起こした…となりうることも考えられます。されば、質となられた義父殿も、その文に書かれた輝殿というお方も斬られることになりましょう。義父殿は娘を守りたいが為にその文をお送りになられたのでは?」
福の考えを聞いて今度は康親が驚きの表情を見せた。自分は義父の知らせは駿河を再び戦乱の場としたくないと思ってのことだと考えていたが…福の考えを聞いて驚きながらも義父らしいと納得ができた。
「それには氏詮という者に“今川”を名乗らせぬようにするには、氏真殿が生きていたほうが良い…ということですね。」
そして福は康親と同じ答えを導き出す。康親は安堵の笑みを浮かべた。火鉢から手を放し福に身体を寄せてその膝に頭を乗せて寝転がった。福の手が優しく康親の肩を撫でる。
「で、もし、この輝というお方をお助けすることになったならば…貴方様はどうなさるおつもりですか?」
思いもかけない福の言葉に康親の顔は固まった。恐る恐るといった風に康親は視線をゆっくりと福に向ける。福は悪戯な笑みを浮かべて康親を見つめていた。輝を助けるなどとは考えたこともなかったが、もしそうなったら自分はどうするだろうかと考えた。しかし、福からの存外の口撃に康親は動揺を隠せず考えがまとまらなかった。
「輝とは…死別したのだ。会う必要もあるまい。」
辛うじて浮かんだ言葉を康親は福に返す。既に福からは視線を外している。
「…貴方様はお優しいお方です。一度関わりをもったお方を無下になさることはしないでしょう。もしお助けになられたのでしたら、此処にお連れなされませ。側室にでも奥女中にでもされれば宜しいのです。私はそれを受け入れます故。」
悪戯な笑みのまま、福は言葉を続ける。
「ですが、貴方様はそのお方を助ける為だけに動くようなことはなさらぬお方。…あくまでも偶々お助けできたならば…で御座いますよ。」
康親は引きつった笑顔を見せる羽目になった。福は頭が良いだけではなく、自分の立場をわきまえつつしたたかに康親に釘を刺してきたのであった。康親は自分が尻に敷かれていることを十分に認識し、福には隠し事はしないことを心に誓った。
永禄12年1月18日、武田信玄は北條氏政率いる北條軍と激突。だが士気の低い駿河衆を従えていた武田軍は劣勢に立たされ後退し、富士川を挟んで膠着した。頼みの綱であった葛山氏元は家中で内紛が起こったためまともな派兵が行えず北條によって領地の大半を奪われることとなった。
駿河衆の士気低下、義父でもある葛山氏元の失態と、瀬名氏詮の武田家中での働きは最初から躓いてしまう結果となった。武田信玄は態勢を立て直すため再び甲斐へと引き上げる。その際にまだ武田家に服従していない富士氏と交戦するも地の利を生かした抵抗により無駄に兵を失う結果となり、駿河平定に陰りを見せた。結局武田家は念願の海に出る湊は何とか確保したものの、駿東諸地域を北條氏に奪われてしまった。
1月22日、徳川家康は一万の軍勢を従えて浜松を出立し遠江を東進する。徳川軍は目立った戦いもなく東遠江の国衆を服属させ、そして最後に残った朝比奈泰朝の守る掛川城まで兵を進め、これを包囲した。家康は酒井忠次の進言を受け入れて当初から氏真の降伏による開城を進めていたが難航した。だが高力清長が粘り強く今川氏真と交渉を進め、5月15日になってようやく降伏勧告を受け入れ開城した。
氏真は自身及び家臣らの助命を条件に掛川城を明け渡し、徳川方が用意した舟で大井川を下っていく。行先は関東の雄、北條家。氏真の正室が北條氏康の娘であることから、これを頼りに舟で小田原へと逃亡した。従う家臣は朝比奈泰朝他二十名ほどであった。
2月2日、徳川家康は酒井忠次を使者として甲斐に向かわせる。今川家重臣数名の首を持って土産としたが、肝心の今川氏真の首を取れなかったことを責めるも忠次は陳謝するのみで北條との戦には合力しないと表明する。武田と徳川の関係は微妙になりつつあった。
2月11日、武田信玄は再び瀬名氏詮を召喚する。謁見した氏詮に“信”の一字を与え名を信輝と名乗るよう命じた。これは氏詮の今川家の通字である“氏”を捨てさせる意図と考えられた。また駿河国衆の妻子を甲斐に送らせるよう命じ、氏詮はこれらを承諾した。これにより氏詮改め瀬名信輝の駿河内における求心力は急速に低下していく。北條の参戦は信輝にとっては想定外の事であり、これにより武田庇護下での今川家家督継承は大きく遠退いたのであった。
尾張と美濃を手中に収めた織田信長、甲斐と信濃を支配しながらも駿河を手にしきれなかった武田信玄、苦労の末に三河と遠江を領国とした徳川家康。
三者の思惑は三年後に激しくぶつかり合うこととなる。
永禄12年4月1日、美濃国内の整備を終えた織田信長は、越前から足利義昭を迎えて上洛戦を開始した。これに従うは、信長本隊の一万五千に加えて、柴田勝家、滝川一益、森可成、丹羽長秀の尾張衆一万、稲葉良通、安藤守就、氏家貫心斎卜全の美濃衆一万五千、浅井長政の北近江衆四千、神戸具盛の北伊勢衆三千、そして松平信一、松平康親率いる三河衆三千。総勢五万にも及ぶ大軍勢であり、これほどの規模の兵を動員できる実力を、織田信長が持っていたことに周辺諸国は驚愕した。
…この信長の上洛は、史実よりも半年ほど遅いものであった。此れが何を意味するものなのか。松平三郎次郎康親にはわからず、それどころか史実と異なっていることすら気付いてはいなかった。
北條氏康
後北條家三代目当主。従五位上相模守。この頃は既に隠居していたが小田原城にその身を置き実験を握っていた。
※本物語では北条氏については「北條」で統一致します。
北條氏政
後北條家四代目当主。左京大夫。今川救援の戦は自らが兵を率いて行った。この戦にて初代の旧領でもある駿東諸地域を奪還したことで家中の信頼を高めている。
今川氏真
今川家当主。従四位下上総介、刑部大輔、治部大輔。義元の正当な後継者でありながら、様々な関係者から「当主の器に非ず」の烙印を押され、家督継承後に求心力も支配地域も減少させていく。最後は駿河国衆、譜代衆にも裏切られ掛川城へ逃亡。徳川家康との交渉で命は助けられたものの、駿河を追われ北條家を頼る。
徳川家康
徳川家当主。従五位下三河守。今回の戦で徒党身を手に入れたことにより、居城を岡崎から浜松に移す。今川方の城であった曳馬城を改修し二カ国の太守として遜色のない城を築く。実際に城が完成するのは元亀元年だが、仮御殿に移り住み、岡崎は嫡男の徳川信康の居城となる。
武田信玄
武田家当主。従四位下信濃守、大膳大夫。駿河侵攻へは自らは出陣していない。この頃は体調芳しくなく、頻繁に湯治を行っており、戦の結果が振るわないのも当主不在のせいと思われる。信玄はその後西上作戦の陣中で没するまで病との戦いだったとされる。
織田信長
織田家当主。上総介。稲葉山城を手に入れてからは美濃国内の安定に注力していた。徳川家が遠江を手に入れたことを知り、かねてから足利義昭と約していた上洛へと乗り出す。
松平三郎次郎康親
徳川家家臣。この頃より次第に他国にその名を知られるようになる。本人は自重しているつもりではあるが、主君家康が余りにも想像と異なるため何とか史実に基づくよう行動を起こし、それが信長や信玄の目に止まる。




