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50.戦線離脱

2022/09/06 「徳川家康は隋空に」を「隋空は徳川家康に」に記述修正。

定期投稿です。

今話で主人公の去就が大きく変わります


 永禄10年11月23日、甲斐国躑躅ヶ崎館。



 武田信玄に呼び出された瀬名氏俊は、いつもとは異なり表門の櫓へと連れていかれた。武田兵の監視の下で不安気に待っていると、武田逍遙軒が姿を現した。挨拶もそこそこに表門が眼下に見える小窓に近寄り外の様子を伺う。そして氏俊を手招きした。小首を傾げつつ氏俊が窓に近寄って下を覗くと、ちょうど穴山左衛門大夫が出ていくところであった。


「左衛門大夫殿が見えるか?その後ろに馬に跨る僧の姿が見えるであろう?」


 氏俊は逍遙軒が指す袈裟の男を目を細めて見た。そして一瞬だけ見開く。直ぐに何食わぬ顔で門から出ていく僧侶を目で追った。


「あの者の名は隋空と言う。嘗ては駿河は臨済寺で修業をしていたそうだ。今川治部大輔殿にも会うておったそうじゃ。貴殿には見覚えが御座ろうか?」


穴山信君の一行が城壁に隠れて見えなくなるまで目で追っていた氏俊は、少し天井を見上げる仕草をしてから答えた。


「…頭の片隅にではありますが、記憶に御座います。寺からの使いで何度か亡き御屋形様のもとを訪れていたかと……。」


 氏俊は咄嗟に嘘を付いた。余計な詮索をされぬ様「見知っている」程度の内容で受け答えする。話を聞いた逍遙軒が納得したのを見て氏俊も安堵する。更にいくつかの質問を瀬名氏俊にして回答を得ると逍遙軒は氏俊を下がらせた。

 用向きはこれか。武田家は何をする気なのか。氏俊は与えられた屋敷に戻りながら考えを巡らせた。


 坊主姿ではあれどあれは間違いなく夜次郎だ。死んだはずの夜次郎が生きて武田家と接触しているということは、あ奴は徳川家に仕えているということ。となると武田家は徳川家と何らかの密約を進めているはずだ。…遠江か。武田は徳川と共闘して今川を攻めるつもりだ。惣五郎に伝えるべきか。


 氏俊は少ない情報から推測した。そして自分の立場を考慮して駿河で離反の準備を進める息子に伝えるべきか悩んだ。

 夜次郎は実子ではない。だが、自分が瀬名家の未来を信じて後事を託した男が生きていたことに動揺し、また再び義息を死なせるような行動を取りたくないという思いが募っており、どうするべきか暫くの間深く考え込んでいた。





 永禄11年3月11日、三河国岡崎城。


 甲斐を襲った大雪は東海地方でも猛威を振るった。徳川家康による浜名攻めはその雪によって隋空の帰還後も進まずに年を越すことになる。徳川軍も最低限の兵力を浜崎館に残して岡崎へ戻り、そして雪解けの季節を待つことになった。

 雪解けまでの間、隋空は酒井忠次と共に浜崎館に滞在した。遠江国衆を調略するためである。新たに配下に加わった伊奈忠家、忠次親子と、酒井忠次の与力の一人である小栗吉忠が遠江各地を回り、内応の約定を取りつけていた。

 既に伊平氏、小笠原氏、天野氏、匂坂氏といった名だたる国衆が徳川方に付くことを約しており、先日も井伊氏が親今川派の家臣を誅して家中をまとめ上げ、徳川派に転じたところであった。


「これは好機である!直ぐにでも兵を出すのだ!」


 酒井忠次からの報告を受け、家康は集めた諸将に興奮気味に命じる。だが、榊原康政を筆頭に俯いて口を噤んだ。食料がないのだ。兵を出したくとも養う米が不足していたのだ。だがそれを言えば主君は癇癪を起してしまう。そうなれば只々面倒くさいのであった。

 しかし今回は忠次が自信ありげな表情ですっと前に進み出た。


「殿、出兵は又とない好機!ですがこれを維持する兵糧に蓄えが御座いませぬ。恐れながら我らに兵糧を集める許可を下さいませ。」


 平伏する忠次に家康は嫌な予感を感じて問い返す。

「如何にすると云うのじゃ?」


「…いくつか御座います。」


 忠次は指を折る仕草を見せて説明した。ひとつは織田家もしくは水野家から兵糧を借りる。ふたつめは国内の寺社から矢銭を供出させる。三つめは商家から借入する。四つ目は投降した遠江衆から徴収する、であった。家康は顔をゆがめた。どれも簡単に許可できるものではない。だが現実的で有効な方法でもあった。この案を考えたのは隋空である。彼は家康が出兵を切り出す可能性を予測し予め酒井忠次に入れ知恵をしていた。

 隋空からしてみればどれを選択しても構わない。どれも選択しなかったとしてもかまわない。こちらとしては浜名郡を手に入れられれば、後は武田の動きに合わせて諸侯を寝返らせれば良いだけなので、家康が最も納得する進め方で出兵を考えていただけであった。

 そんな隋空の思惑を知らず家康は考え込みひとつ目を選択した。家康なりに一番リスクの少ない選択であった。他の選択は反乱を招きかねない方法であったからだ。直ぐに石川数正が使者として立てられ、尾張へと向かう。意見を具申した酒井忠次はほっと一息をついた。




 永禄11年4月20日、徳川家康は浜名攻めの軍を編成して岡崎城を出立した。石川家成、酒井重忠を先頭に四千。家康本隊は旗本衆で構成した一千。更には吉田城で奥平定能、戸田康長らの二千が加わり、浜崎館で陣を構える酒井忠次の二千と合わせれば総勢は九千にもなった。これは今の三河でかき集められる兵力の九割にも達していた。

 兵糧は織田家と水野家から借り受けた。だが潤沢なわけでもなく、せいぜい十日ほどのしかない。足軽らの持参する腰兵糧と合わせても半月ほどしか行動できないものであり、不足した場合は現地調達することをあらかじめ許可していた。

 徳川方の戦術は短期決戦の一択しかない。だが最初からその装いを見せていては浜名家に強固な籠城をされると考え、進軍は敢えてゆっくりと大々的に振舞って遠江へ向かった。おかげで浜名家は徳川軍が向かっていることを知ると、最初から弱気な行動に出る。和平の使者を送って来たがこれを突っぱねて追い返すと、籠っていた佐久城で暴動が起きた。服部半蔵の調べでは足軽らが城から逃げようとしたことがきっかけで、城内で抗戦派と降伏派に二分しての乱闘騒ぎに発展した。これを好機と見た酒井忠次は家康の到着を待たずに出陣し佐久城を包囲した。

 城攻めを始めた徳川軍に対し浜名頼広は迎撃するが、混乱した自軍の統率が取れず、まともな抵抗もできずに城内へと引き上げた。徳川軍が素早く城に張り付き門の破壊を始めた。打ち鳴らされる大槌の音に浜名軍の動揺が更に広がり、抗戦派と降伏派の争いも激化していった。本多忠次が水の手を見つけ、これを徳川方で確保すると、浜名頼広も抵抗を止め一族郎党を率いて裏門から脱出した。激戦を予想していた佐久城の戦いは家康が戦場に到着する前に決したのであった。



 永禄11年4月23日、遠江国浜崎館。


 武田家へ使者を走らせた隋空のもとに家康到着の知らせが届く。隋空は直ぐに大広間に向かい主君をお迎えする準備を進めた。やがて家康が甲冑姿で大広間に到着し、留守居組の隋空、小栗吉忠らに迎えられた。家康は上座に座ると平伏する二人を見て不機嫌さを露わにした。


「儂が着く前に佐久城を攻め落としたそうじゃな。何故じゃ?」


 家康の問いに隋空が頭をあげる。


「殿の大軍を知って城内が二分したるを知り、好機とばかりに此処に居る兵を遣わしました。おかげでさしたる被害もなく城を落としておりまする。」


 正論を述べる隋空に家康は舌打ちした。その音を聞いた隋空は見上げて主君を睨みつけた。


「…何故儂を待たなんだ?」


 家康はそんな隋空を意に介さず問いかける。そして怒りを露わにした顔で隋空を睨みつけた。緊迫の雰囲気が周囲を取り囲む。だが隋空は家康に対して引く気配を見せなかった。


「敵を最小限の損害で討つ好機に御座いました。」


 二人とも怒っていた。家康は自分を待たずに決着をつけたことに。そして隋空は上に立つ心得もなく単に戦をしたがる家康に対して。


「儂はな……戦いたいのだ。槍を振るって敵を打ち倒したいのだ。」


「御大将自らが左様な事……言語道断に御座ります!」


 隋空は座ったままの姿勢で家康に一歩踏み寄った。本多忠勝が慌てて腰を上げる。家康は隋空を睨み返した。


「儂が嘗て駿河にて今川治部様の下に居た頃、自らが先頭に立って城に攻め込んだ。あの時の興奮が忘れられぬ。」


「…さぞかし周りの家臣らは胆を冷やしましたでしょうな。しかもあの頃とは戦の手法も規模も違いまする。殿が先頭に立てばあっという間に鉄砲の餌食に御座ります。」


「それでも戦いたいのだ、隋空。」


 家康は諭すように言葉を返した。隋空は舌打ちして更に一歩前に進んだ。


「…殿が囲碁に強く、戦に弱い理由がようく判りました。囲碁には大将は御座いませぬ。しかし、将棋や戦には取られたら負けとなる「大将」が居りまする。」


 家康は黙り込んだ。


「しかもご自分がその「大将」であるという意識がない…。左様なお方には、戦など任せておけませぬ。」


 家康は立ち上がって軍配を投げつけた。隋空はそれを手で払いのける。次の瞬間には家康は刀を抜いて隋空に斬りかからんとしていた。慌てて本多忠勝と鳥居元忠が家康にしがみついた。


「落ち着きなられませ!」


「放せ!このままでは儂の気が済まぬ!」


「俺を切って済むのであらば斬るが宜しい!」


 隋空も怒りに任せて立ち上がる。家康は元忠を腕を振って払いのけた。


「よう言った!首を出すがよい!この場で切り捨ててやるわ!」


「……あほらしい。」


 隋空は刀を振りかざす家康を見て急に冷静になりくるりと背中を向けた。


「曳馬城を攻め落とせば、天竜川より西は徳川のものとなりましょう。後は武田と合わせて東へ攻め上がれば労苦もなく遠江は手に入ります。どのように攻め入るかは榊原殿や酒井殿とよう相談なされませ。」


 言うだけ言うと隋空は主に背を向けて大広間を出て行った。隋空の想わぬ行動に周囲は静まり返った。隋空にしてみれば苦労して兵站を整え、周囲を調略して万全の体勢を整え、安全に領土拡大を図っているのに家康にはその労苦が伝わらないことにがっかりしたのだ。今までは自分の老後の為と我慢していたがもうあほらしくなったのだ。


 大広間を出た隋空は控えの間で待つ服部半蔵の下へ向かった。そして彼の前に座ってゆっくりと頭を下げた。


「済まぬ、半三に命じた…持舟の墓に埋める事ができそうになくなった。」


 隋空は半蔵に事情を説明した。すると半蔵はくすくすと笑った。呆ける隋空に半蔵は言葉を掛けた。


「御心配には及びませぬ。直ぐに殿と徳川様は仲直りなされるでしょう。」


 半蔵の自信に満ちた笑み。隋空は苦笑した。そして自分の取った行動に後悔した。今の自分は家臣を多く抱えその命を預かっているのだ。路頭に迷うような行動は慎むべき。半蔵の笑顔を見てそう思ってしまい啖呵を切って広間を出て来た自分に苦笑するしかなかった。



 永禄11年4月24日、隋空は徳川家康に蟄居を命じられる。隋空は後のことを若い長坂信宅(のぶいえ)、伊奈忠次に任せ三河浅井西城に戻った。佐久城を脱出した浜名頼広は酒井忠次らが家康の命で浜崎館に呼び戻されたことで逃亡に成功し、行方を眩ませた。その後は酒井忠次、本多忠次、本多広孝らの活躍で遠江の西半分を一気に支配下に治めた。

 服部半蔵から浜名攻めの結果報告を受けて隋空は満足そうに頷いた。それをみた半蔵は噴き出した。


「まるで殿が三河の殿様のように見えまする。」


 半蔵の言葉に隋空は頭を掻いた。


「殿がもっと治る者としての御自覚があれば我もこんな苦労はしないのだがな。」


「殿はお忙しく働きすぎに御座います。ここいらで暫くお休みくださりませ。…周囲はまだまだ乱世の装いに御座います。殿の大いなる智謀を必要とする時はこの先幾らでもやって来ます。」


「…我の知識が必要とされない世になって欲しいのだがな。」


 隋空の言った意味を半蔵は正確には理解していなかった。隋空は自分のような歴史を知る人間によって導かれることのない世であって欲しいと願っていたのだった。









伊奈忠次

 徳川家家臣。父と共に堺から帰郷したが家康への帰参は直ぐには叶わず、隋空の下で厄介になっていた。その後、長篠の戦にて戦功を挙げて直臣として帰参する。


小栗吉忠

 徳川家家臣。広忠の代から仕えており三河国内の奉行職を歴任。遠江侵攻に際して占領先の諸事を取り仕切る為に東三河衆の与力に加わる。


浜名頼広

 今川家家臣。古くから遠江浜名郡を領しており、家康に自領を奪われることを恐れて抵抗していた。佐久城を追われた後は甲斐に逃亡して武田家に仕えたとされる。



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[良い点] 蟄居を命じる側と命じられる側があべこべになってますよ これじゃ本当に随空が三河の殿様に見えます(笑)
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