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49.覇気の有無

2022/09/03 穴山梅雪と記載しておりましたが、正しくは「信君」でした。読者からのご指摘で気づいたのですが、この頃はまだ出家しておりませんでしたので、名前を修正致しました。


定期投稿です。

今話でようやく章タイトルに繋がる内容となりました。


 永禄10年11月15日、遠江国浜崎館。


 酒井忠次率いる千五百が浜崎館の北にある岡本城の攻略を開始した。浜名頼広は家臣の岡本信久に防衛を命じたが、直ぐに呼び戻した。南を守る尾奈の館が徳川家の攻撃を受けたからであった。家康は酒井忠次に岡本城を攻めさせて浜名頼広の目を北に向けさせ、その間に徳川家に転じた朝比奈泰長の宇都山城に主力の三千で向かい、そこから北上して一気に尾奈の館に攻め込んだ。城主の大屋政頼は表門を突破された時点で城を捨てて浜崎館に逃げ込み浜名頼広に救援を依頼した。

 頼広は朝比奈光忠を呼び出して問答無用で切り捨てるとすぐさま伝令を各地に放った。浜名郡の各所に分散させていた兵を呼び戻し、南から迫りくる徳川勢との決戦を挑むつもりであった。だが野戦を仕掛けたものの徳川勢の突撃によって粉砕され、頼広は浜崎館を捨てて敗走した。家康は酒井忠次、本多広孝を浜崎館に入れて、自身は旗本衆と共に鵺代(ぬえしろ)の館に本陣を置いた。


 浜崎館の酒井忠次は与力らを集めて軍議を開いた。従うのは本多広孝、本多忠次、朝比奈泰長、菅沼定盈などの東三河衆である。


「朝比奈殿、浜名は何故此処を捨てた?」


 野戦に負けた浜名頼広は城に戻らず西へと逃げた。忠次からすれば居城を捨てるほどの敗走ではないと考えていた。


「西の湖沿いに佐久城が御座る。周囲を湖で囲われており攻め手は一つしか御座らぬ。浜名殿は火急の際には此処に籠って援軍を待つつもりであろう。」


 泰長は答える。忠次は口をへの字に曲げた。


「援軍?……一体どこからの援軍を待つつもりであろうか。」


「恐らく…武田ではないかと。」


 忠次は今度はニヤッと笑った。


「ならば、我らは兵を備えて此処で待っていれば良かろう。殿に伝令を。浜名頼広攻めは、隋空殿の報告を待ってからが最もであると!」


 忠次は勝ちを確信した。後は甲斐に向かった隋空の結果を持って頼広の籠る佐久城を攻めれば易々と落とせると。

 だが家康の方は酒井忠次からの報告を受け激怒していた。家康としてはこの戦で決着をつけたかったようで、家臣らに今すぐ陣を払って佐久城へ攻めるよう命じた。だが、榊原康政や本多忠勝などは反対する。周囲には小勢ながら浜名方の砦が残っており、これを潰す方が先決と説いた。家康は悔しがる。もっと率いる兵が多ければ小勢など気にせず一気に浜名氏を殲滅できるのにと大声て吠えた。


 結局浜名との戦いは徳川が三ヶ日の半分を奪取した状態で年を越すことになった。それは思わぬ大雪に見舞われ武田の本拠までたどり着けずに途中の下山城で足止めされていたことによる。




 永禄10年11月17日、甲斐国下山城。


 武田宗家と深い縁戚関係を持つ穴山氏の居城。そこに隋空は悪天候によって足止めされていた。この時期にしては珍しい大雪である。道中の危険を案じた城主穴山左衛門大夫信君に勧められて渋々下山に滞在していた。既に徳川家康からの共闘の使者と伝えているため、武田側も隋空を賓客としても遇しており、隋空も武田家重臣の言うことを無視するわけにもいかず、大雪が降り積もる中、此処で二日を過ごしていた。


「……それにしても、ひどい雪ですな。」


 隋空は襖の隙間から空を見上げて苦々し気に言うと、同席していた穴山信君が同調した。


「この時期にしては、確かに多いですな。」


「冬になるとこのような雪は良くあるのですか?」


 隋空が振り返って信君に尋ねると信君は笑った。


「貴僧は余り雪を見たことがないようですな。甲斐の冬ではよく見る光景に御座るよ。」


「……冬は難儀致しますな。」


 含みを待たせた言葉に信君は目を細めた。


「なに…なれればどうってこと御座らぬよ。」


「ならば、早く拙僧を躑躅ヶ崎まで連れて行って貰いたいのですがね。」


「其は先ほども申した通り、道中の安全を確認してからです。」


 隋空は信君をじっと見つめた。この男は自分を足止めしている。その理由が知りたかった。そしてその意図は信君にも伝わっていた。


「……この様子ですと、明後日には雪も落ち着くでしょう。この儂も同行して必ずお連れ致すので……ご辛抱下され。」


 信君は笑った。冬の雪山を知らない隋空はこの曲者の言うことに従うしかなかった。




 永禄10年11月21日、甲斐国躑躅ヶ崎館。


 穴山信君は隋空を伴って武田当主の主城、躑躅ヶ崎の館を訪れた。隋空は道中の様子を目に焼き付ける。雪景色に覆われた甲斐盆地は踏み固められた路があちこちに走っており雪国を長く治めていた知恵を感じていた。雪は積み固めることで壁にも土塁の代わりにもなる。一定間隔で道のわきに雪が積み上げられているのも確認した。

 館に着くと客間に通されて暫し待つ。その間に衣服に付いた雪や泥埃を丁寧に落とし身だしなみを整えて静かに待っていた。やがて信君がやって来て隋空の前に立った。


「お待たせ致した。これより御屋形様の下にご案内致す。」


 隋空はすっと立ち上がって信君に頭を下げた。信君は軽く微笑むと隋空を部屋の外に連れ出した。

 廊下を何度も曲がってたどり着いた大部屋。既に武田家臣が数名中座に座っており、入って来た隋空を舐めるように見回した。徳川からの使者。その者は武将ではなく名も知れぬ僧侶。まるで品定めをするかのように隋空を見つめる一同。隋空はその視線に気付きながらも臆することなく前へと進み下座する。やがて足音が聞こえて隋空は平伏した。


「面を上げられよ。」


 上座からの声に隋空はゆっくりと頭を上げる。自分と同じ袈裟に身を包んだ顎髭を蓄えた坊主。隋空はもう一度頭を下げた。


「徳川三河守が家臣…隋空に御座います。」


 上座の男は体をやや前に乗り出して隋空を見返すと言葉を発した。


「よう参られた。左衛門大夫からあらましは聞いておるが其方から詳しく聞きたい。徳川殿は我らとどうしたいのか?」


 隋空は顔を上げる。暫く黙っていたが、やがて中座に並ぶ諸将を見回してからもう一度上座の男に視線を向けた。


「貴方様は……誰で御座いましょうや?」


 隋空の言葉に武田家臣らの表情が変わり隋空を睨みつけた。腰を浮かす者もいた。確かに失礼な物言いである。徳川家康の使者として武田信玄との謁見を申し込んでおいて出て来た相手に「誰?」と問いかけるのはおかしい。だが隋空は直感的に違和感を感じていた。そしてそれを敢えてぶつけてみた。


「どういう意味だ?」


 上座の男も声を一段低くして聞き返した。


「拙僧は駿河の臨済寺で修業をしており、その時に今川治部大輔様にお会いしております。その後三河に流れて徳川三河守様に拾われました。以降は他国との折衝役として織田上総介様ともお会いしております。…多くの家臣を従え、一国以上を治るお方にはそれ相応の覇気というものを感じます。…ですが甲斐信濃の二カ国を治る武田信濃守様と思わるる貴方様からは覇気を伺えませぬ。それは大国を治る立場に居られないからだと心得まする。もう一度問いまする。貴方様は誰に御座いましょうや?」


 隋空は急ぐわけでもなくゆっくりとした口調で長々と喋った。話を聞いた上座の男は睨みつけるわけでもなくじっと隋空を見つめた。上座の男と隋空…。感情を絡ませるわけでもなく、じっと互いを見据えていた。


「…フッフッフ……覇気…か。いと面白き見方をする坊主じゃのぅ。」


 突然襖の後ろから声がした。途端に居並ぶ諸将が顔色を変えた。


「お、御屋形様!」


 誰かが襖の後ろに向かって声を発する。その瞬間隋空の違和感は確信に変わり、上座の男に向かって笑みを見せた。


「土屋…お前は余計なことを口走ることが多いぞ。…まあ良い。」


 奥からの声には力が籠っており、居並ぶ諸将は緊張の色を見せ黙り込む。ゆっくりと襖が開きもう一人男が出て来た。顔や姿は上座の男と似通ってはいるが、滲み出る雰囲気は全く違っていた。隋空の頬に思わず汗が流れる。圧迫感のような強い力が隋空の全身をまとわりつくようであった。隋空は三度平伏する。その間に男は奥から出てきて上座にゆっくりと腰を下ろした。


「儂が…武田徳栄軒信玄じゃ。影武者を見破るその眼力…褒めて遣わすぞ。」


「お褒めに預かり光栄の極み。此度は失礼な物言い…お詫びいたしまする。」


 武田信玄。“甲斐の虎”と評され周辺諸国に恐れられるも道半ばにして病に倒れたるこの男…。実際に病に倒れるのは五年以上も先なのだが、信玄の顔色には疲れにも似た陰りが映っていた。


 挨拶と詫びを済ませて隋空は本題に入った。武田と徳川による共闘で駿河の今川氏真を討つこと。今川の領地については駿河を武田で、遠江を徳川で領すること。それぞれの国人衆については国人らが望む側に仕えることを許すこと。但し領する土地と相対する側に仕える場合は領地を捨てさせること。互いの侵攻先への調略については関与しないこと。直接侵攻のタイミングは合わせること。直接侵攻の時期は徳川が浜名氏を打ち倒してからとすること…などを説明した。

 信玄は全てを聞いた後で家臣らと協議の為に数日滞在する様勧め、隋空はこれを承知した。会見を終え用意された別室に案内されると、案内役の武田家臣がいるにもかかわらず隋空は部屋に倒れこんだ。


「だ、大丈夫です。ちょっと…信濃守様の覇気を浴びて精が果てただけ…休めば治る故…お、お気遣い無用…。」


 慌てる武田兵に落ち着くよう図らって何とか起き上がった。


「あー…恐ろしかった。あの覇気は、我が殿以上に御座った……。」


 隋空は滲み出る汗を拭って武田兵に白湯を求めた。





「そうか……隋空はへたり込んだか。」


「はっ。御屋形様の覇気を己が主以上だと溢しておりました。」


 家臣の報告に信玄は満足げに頷いた。それから集まった諸将をひと睨みする。


「さて…此度の徳川殿からの申し出…如何する?思うところを存分に述べよ。」


 重臣らを交えて軍議が始まる。既に今川から氏真を見限った者らの内応を受けており、駿河へ侵攻することは決まっている。問題は単独で行うか徳川と同調して行うかであった。

 徳川と同調すれば、織田・徳川合わせて四カ国。自分は三カ国。同調しなければ相手は三カ国、此方は四カ国。だが彼らと早期に敵対する恐れがある。現時点での信玄の目標は関東への進出…既に上野にはその足掛かりを作っている。


「さて、利を取るか、恩を取るか。…考えものじゃのう。」


 そう言って口端を釣り上げる信玄を見て、重臣らは畏れを感じ開きかけた口を閉じて見守っていた。





 永禄10年11月23日、甲斐国躑躅ヶ崎館。


 武田信玄から呼び出され、隋空は再び館の大広間に通された。今度は既に信玄と、その影武者で弟の信廉、穴山左衛門大夫が待っており、武田家の若武者に案内されて入室した隋空は多少驚いた。重臣らが列席していないからだ。代わりに若武者が周囲の廊下を囲っている。


「何か物々しい感じが致しますが…。」


 周囲を見渡しながら言葉を漏らす隋空。信玄は笑った。


「我らの返答は決した。それを伝えるだけ故、余計なことを口走る輩は呼んでおらぬ。」


 信玄の答えに隋空も笑顔で応じた。


「承知いたしました。武田殿のお答えをお聞かせくださいませ。」


 下座に隋空も座る。信玄はゆっくりと武田家の回答を伝えた。次の夏までに浜名を打ち破り遠江侵入経路を確保すること。氏真の首を取った場合は無条件で武田に引き渡すこと。北條とは手を組まぬこと。

 双方の要求を記した書状を隋空と信君の連判で署名すること。


 隋空は承知した。内心は渋々である。今回の共闘は表面上は当主同士の盟約とせずに結ばれたからであった。だがこれ以上長引いては我らの不利。最低限の要求を通せたのだがら良しと自分を納得させた。


 一通りの書状作成が終わったところで信玄は隋空に問いかけた。


「徳川殿は、お主からみて二カ国の太守たる人物か?」


「はい、武田殿には劣れども…中々の覇気を感じ入って御座います。」


 隋空は満面の笑みで答える。信玄は暫く隋空の顔を見つめていたが、鼻息を一つついて頷いた。


「徳川殿には期待をしている。今川の領地を我らで分かち、互いの家を盛り立てて行こうぞ。」


 武田家との共闘の盟約が立った。隋空はその役目を十分に果たせたことになる。一息ついて渾身の仕草で平伏した。

 穴山左衛門大夫に伴われて退出し、別室で待機した後に信君と共に躑躅ヶ崎の館を後にした。帰り道の馬上で信玄との会見内容を思い返す。此度の盟約は何時でもどちらからでも破棄できる形式である。ではそのタイミングは何時か。隋空の頭の中では前世の記憶が巡っていた。


「…持って四、五年か……。」


 脳裏に移した未来を記憶に深く刻み、隋空は次なる作戦に心を移した。遠江国衆の調略である。徳川の目前の敵は浜名頼広である。奴が持つ浜名郡を手に入れねば遠江国の中心に攻め入ることができない。だがそれだけに注力していては、城を攻略しても国衆に逃げられてしまう。遠江を早急に円滑に徳川領として落ち着かせるには国衆の力が必要。故に他国へ落ち延びられぬよう根回しが必要なのだ。



“一国以上を治るお方にはそれ相応の覇気というものを感じます”



 隋空は会見での自分の言葉を思い返した。織田信長には睨まれた者を震え上がらせるほどの強い覇気があった。武田信玄にも家臣を黙らせるほどの覇気があった。だが徳川家康はどうであろうか……。


 隋空は家康には二人ほどの強い覇気を感じていなかった。それは若さ故なのか、大大名としての器の無さの表れなのか…彼にはそれを判断することはまだできなかった。




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― 新着の感想 ―
[良い点] この頃ってまた穴山は梅雪を名乗っていなかったような…?
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