表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/131

48.遠江攻略の鍵

定期投稿です。




 永禄10年5月24日、甲斐国躑躅ヶ崎館。


 謁見の間で待つ白髪の男の前に整ったあごひげをしごきながらやや肥えた男が座った。男の頭は丸められており一目で僧の身であるとわかる。だが男からは只ならぬ雰囲気が漂っていた。


「面を上げられよ。」


 上座の男の声で白髪の男が頭を上げる。


「…瀬名伊予守殿、と申したな。庇護を求めて参ったと聞いたが…真か?」


 白髪の男…瀬名氏俊は静かに平伏した。


「真に御座います。」


 上座の男は再び髭をしごいた。


「…儂にどうして欲しいと?」


「有り体に申せば、甲斐の御屋形様の御力を借りて今川現当主を駿河から追い出し、瀬名左衛門佐を新しく今川当主として頂きたく…。」


 御屋形様と呼ばれた男はわざとらしく首を傾げた。


「三河の奪還…ではなく、駿河を襲えと?」


「は……今の当主の下では三河の奪還はおろか、駿河遠江の維持すらままなりませぬ。いずれ他国から攻め込まれて全て奪われるでしょう。」


「そうなる前に儂に庇護させて今川家の血筋と領土を残そうということか……悪くはないな。」


 上座の男は頷いた。意外にも反応は最初から良好だった。男は前向きに検討している。


「で、見返りは?」


「駿河半国と甲斐の御屋形様への忠節…。それと出兵の際の道案内。」


「半国は我がものとするが、儂に仕えると言うのだな。悪くはないが遠江はどうするのだ?」


「…捨てまする。甲斐の御屋形様が取られるのも、三河に対する壁とするも…好きに使われませ。ご要望とあらば某の伝手の限りで国衆の内応を取り付けまする。」


 上座の男は驚いた表情を見せた。そして笑う。


「なかなか面白いことを考えたな。伊予守殿は思い切りの良い方だ。我らも支配域拡大の計画に検討するに値する。」


 氏俊はもう一度平伏した。感触は悪くなかった。息子の言う通りに説明したが、氏俊自身も大胆な案だと考えていた。寿桂尼亡き今、氏真ではいずれ大国に飲み込まれてしまう。そうなる前に武田家の懐に飛び込んで再起を図るという計画は苦肉の策であった。

 氏俊は謁見の間から退出しつつ思う。他にやりようがあったのではないか。

 氏俊は廊下を歩きつつ思う。夜次郎が傍にいたらこうなる前に別の道を見つけ出したのではないか。

 氏俊は館から出る時に振り返って考える。もうこれで後には引けない。源五郎を新しき当主として今川家を再興する。その為に氏真を裏切るのだと。




 瀬名氏俊が出ていくと、襖がすっと開き、上座の男と同じく頭を丸めた男が入って来た。上座に居た男は軽く頭を下げて席を譲る。もう一人の男がゆっくりとそこに座った。


「孫六…ご苦労であった。」


「ははっ……兄上はどう思われましたか?」


「駿河があ奴の言う通りであらば、乗るべきであろう。だが、鵜呑みはできぬ。…もう一つの今川親族からの件もあるしな。」


 もう一つの今川親族とは、関口氏幸からの内通のことである。今川家は二つの親族から駿河侵攻の誘いを武田家に持ち掛けていた。どちらも内々に氏真追放を求めている。


「孫六、お主ならどうする?」


 孫六と呼ばれた男は間髪入れずに答えた。


「万全の体制を組んで誘いに乗るべきです。」


「…万全の体制…か。」


 上座に座った男は天井を見上げた。駿河を手に入れる絶好の機会と大儀名分が揃っている。みすみす逃す手はない。だが今川の計略だとすれば痛手を被ることになろう。


「北條に文でも書くか。」


 男は頭の中に自分が考える万全の体制を描き始めた。孫六含め他の家臣らは一礼すると音を立てないように部屋を後にした。残った男はじっと天井を見つめて考えに耽った。


 男の名は、武田信玄という。




 永禄10年5月27日、三河国岡崎城。


 家康が不在の為、榊原康政が帰城した隋空を迎えた。控えの間に案内され、隋空はそこで康政に信長との会談結果を報告した。話を聞いた康政は腕を組んだ。武田との同盟…康政としては気乗りしない。理由は至極単純で信の置けない相手だからだ。だがその利は十分に理解していた。だからこそ悩んだ。


「甲斐武田を信用しても大丈夫であろうか。」


「利害に齟齬が無ければ信用に足りる。寧ろ武田を動かすことで武田を恐れる遠江の国衆らが我らを頼って来る。拙僧の狙いはそこにある。…だが駿河支配が安定すれば武田の牙は我が方に向く。それまでに対抗できるよう力を蓄える必要があるがな。」


「な、何とか武田を駿河へ出兵させぬ手立てはありませぬか?」


 康政は不安を拭えない。武田が今川に仕掛けずに済む方法があればそれに越したことがない。だが隋空は首を振った。


「武田は織田家と盟約を結んでいる。そして飛騨、越後とは一定の休戦を成しえた。今奴らが狙える国は遠江か駿河…遠江を抑えられれば我らは三河に閉じ込められる。此処は相手に駿河を渡してでも遠江を確保する方が得策だ。」


 隋空の返答は康政の肩を落とさせた。武田との共闘は直接対決の時期を遅らせただけに思えたからであった。


「そう暗くなる必要もないですぞ榊原殿。我が殿は若い。武田の当主は病がちとも聞く。受け手に回り、粘っておれば道は開けるぞ。」


 隋空は笑う。康政は救われた気がした。同時に彼に対して警戒心も上がる。康政は常に隋空に対しては慎重に対応していた。譜代ではなく今川の血を引く者だからというのもあるが、怖れを感じるほどに先を見通せる眼力が、主に災いを振りまくのではないかと考えていた。

 だが、彼の力は徳川家にはなくてはならないもの。家康の暴走を何度も止めてきており、多くの家臣が彼を頼りにすることが多い。




「……隋空殿。折り入って話が御座る。」


 康政は衣服を正し両手を付いて隋空に相対した。思わぬ態度に隋空も何となく身構えた。


「な、なんで御座ろう?」


 康政は思いのたけをぶつけた。


「今や隋空殿なしには徳川家は立ち行かなくなって居り申す。我ら譜代としては由々しき事態。かと言って儂だけでなく誰であっても隋空殿の代わりはできませぬ。此処は恥を忍んで隋空殿にお願いしたい。」


 康政は頭を下げた。隋空はぎょっとした。隋空自身、榊原康政からは警戒されているなという自覚はあった。その男から頭を下げられるとは思ってもおらず、同時に隋空自身が康政を警戒する。


「貴方は我らを思って僧籍に身を置かれていると思われるが…某は不安で御座る。願わくば松平一門に加わって殿をお支え頂きたい。」


 康政は言い終えると再び頭を下げた。隋空は余りの事に何も言えなくなった。


 我らを思って僧籍に……違う。僧に身をやつしたのは歴史の表舞台に立ちたくないからだ。

 家康を支えているのは、歴史上最後に勝ち残る人物だからだ。

 三河にいるのは、一番ここが安全だからだ。


 勘違いもいい加減にしてくれと思う。自分が一門衆に加われば歴史に名を遺す。あるいは歴史が変わるかもしれない。唯々安寧を求めたくて行動しているだけなのに榊原康政から頭を下げられて、どうやって断ればいいのか隋空は返答に窮してしまった。




 隋空はあれやこれやと話をすり替え、なんとかこの場では康政の願いを有耶無耶にした。

 松平一門に…つまり自分が還俗したうえで松平家の娘を貰って松平姓を得る……。

 隋空は首を振った。あり得ない。というかあってはならない。家康を陰から支えて史実通りに動かし、天下を統一させる。それが最も良い自分の生き残る道。そう考えている隋空はどう考えても一門に入ることに魅力を感じなかった。


 だが、事態は隋空の知らぬところで進んで行った。


 永禄10年7月1日、三河国岡崎城。


 西の丸にて竹千代の元服の儀が取り行われた。家康が西の丸を訪問し、久方ぶりに鶴姫と対面する。だが…二人に入った大きな溝が埋まるわけでもなく、型通りの会話を済ませると互いに別室で竹千代の晴れ姿を待った。

 隋空は竹千代に付いて甥の元服姿に頬を緩ませていた。その姿は家康の駿府時代と重なる。懐かしさも込み上げ隋空の心の中に情が芽生えつつもあった。


「だが史実は非情……この者も徳川家存続のために死を賜ることに……。」


 初々しい竹千代の姿を眺めながら隋空の脳裏には未来の予定を描きあげていた。果たしてそれでいいのか。答えの出ない自問自答を繰り返し、最終的には史実に添わせることを自分に言い聞かせる。今までやって来たことであった。


「若、どうぞ大広間へお向かい下され。」


 平岩親吉が竹千代の手を取り案内した。彼は石川春重と共に竹千代の後見人として取り仕切る予定であった。まだあどけなさが残る甥の出ていく姿を見届けると隋空は静かに西の丸を後にした。

 馬を飛ばして自分の館に戻ると客人と面会した。客人とは伊奈忠家、忠次親子である。隋空は二人の近くに座って手を取った。


「伊奈殿…良くぞ三河に戻って来られました。拙僧はこれで安心してこの城を御返しできまする。」


 喜びの表情をめいいっぱい見せて隋空は笑った。伊奈親子は困惑していた。


「…隋空殿、城を返す、とは?」


「何をおっしゃるか。この城は元々伊奈家のもの…本来の持ち主に返すのが道理で御座ろう。」


「其れはできぬ。先ずは岡崎の殿に謝罪し帰参の許しを得てから…」


「其れについては拙僧から殿に申し上げ、然るべき時に対面頂く。先ずはごゆるりと此処で休まれよ。」


 そう言って立ち上がると隋空は膳を運ばせた。二人の前に並べられる膳…中々の馳走である。二人は顔を見合わせた。

 伊奈親子は堺で親類を頼って生活していたが本多正信の説得を受けて三河に戻って来た。隋空は三河を出奔した者らを再び呼び寄せ家康の帰参許可を受けるまでの受け皿として活動しており、既に夏目吉信、渡辺守綱などを呼び戻して帰参させていた。伊奈親子も家康に御機嫌のいい時に会わせて帰参させようとしていたのだ。そしてこの縁が後の隋空に大いに役立つことは本人はまだ判っていなかった。



 徳川三郎信康。


 織田信長より「信」の一字を頂戴して名をつけられる。将来、家康が遠江を手に入れた際は岡崎城を賜る約定を受け、元服した。後見人には、平岩七之助親吉、石川四郎春重が付き、警護役には石川伯耆守数正が任命された。また、非公式の相談役として隋空が西の丸への出入りを許可される。




 永禄10年11月9日、遠江国宇都山城。


 此処は今川氏と縁戚の朝比奈家が代々所有していた。城主は紀伊守泰長で御年六十を超えていた。隠居に際して二人の息子のどちらに家督を譲るか考えていたところで徳川家から調略を受ける。次男の真次の室が徳川家臣である本多忠俊の娘であり、今後の展望を考えると徳川家に乗り換えるのが無難と考えていた。

 そこへ徳川家からの使者が到着した。三河伊奈城主の本多忠次であった。彼は本多忠俊の子で吉田城攻略で実績を上げ、東三河衆の有力与力として酒井忠次を支える実力者であった。


「お心は決しましたか?」


 忠次は応対した泰長に低い声で問いかける。泰長は首を振った。


「貴殿のお気持ちはよう理解しておる。だが、そう簡単に決められるものではない。此処は浜名殿が近いこともあり、儂が寝返れば真っ先に狙われてしまう。」


「我が殿が全力で其方を守り申す。我が殿は味方になる者を粗略には扱わず。だが早々にお決め頂かねば、我が殿がこの地に兵を送る。」


 忠次はにじり寄った。


「わ、判っておる。だが、徳川殿に味方するは、則ち長子光忠を廃し次子忠次に家督を譲ることを意味する。」


 泰長の長男である光忠は浜名家から嫁が嫁いでいた。徳川家に下るには長男を嫁ごと斬ってしまわねば逆に浜名から攻められる可能性があった。


「簡単で御座る。間もなく、徳川軍が三ヶ日を攻める。その際に御長男を浜名へ派遣なされよ。しかる後に我らが別動隊を率いて此処を訪れる故…ご次男と共にお迎え頂き、御長男の嫁を送り返せば宜しい。」


 泰長は慄いた。長男の扱いを浜名にゆだねろと言うのだ。だが自分の手は汚れない。尚且つ徳川軍を受け入れているから浜名からも攻められない。後は徳川軍が浜名氏を倒してくれれば安泰である。


「……わかった。」


 朝比奈泰長は決心した。徳川家に付くことに。そしてこれは浜名攻めに対して大きな優位性を手に入れ、攻略の鍵となることに繋がる。





瀬名氏俊

 今川家家臣。息子の氏詮の指示を受け甲斐武田の人質となる。


武田信廉

 武田家家臣。信玄の弟で病がちな兄の影武者として取り仕切った。名を孫六、出家して逍遙軒と号す。


武田晴信

 甲斐守護の武田家当主。出家して徳栄軒信玄と号する。信濃を平定すると越中を攻略し一定の成果を得ると上杉と休戦を結び西上野攻略を計画していた。


伊奈忠家

 徳川家家臣。三河一向一揆後に出奔し、堺で隠棲生活を送っていたが、本多正信の説得で隋空の下を訪れる。


伊奈忠次

 徳川家家臣。忠家の子で父と共に三河を出奔していたが、父に先立って帰参する。


朝比奈泰長

 今川家家臣。史実では早々に徳川家に寝返るが今川氏真の遠江仕置きにて落命する。


本多忠次

 徳川家家臣。伊奈城主本多忠俊の子。吉田城攻めで活躍して本多広孝と共に酒井忠次の与力となる。


徳川信康

 家康の長子。多くの史書では徳川姓としていないが、内通の疑いで刑されるまでは徳川家の跡継ぎとして徳川姓を名乗っていたと思われる。家康が浜松に居城を移すと、岡崎城を与えられ、西三河を率いて主に織田家との共闘の任を与えられる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ