41.夜次郎の独り言2
今話は、閑話休題です。
次話から「遠江浜松」編になります。
俺は再び京を訪れた。
目的は家康の三河守叙任のための手掛かりを見つけること。
現在の家康は新田氏の傍流、世良田氏の末裔を称しているが、この家系では三河守に任官実績がないため叙任できない、というのが朝廷の言い分らしい。ではどういう家系であれば任官できるのか。ヒントは史実ではこの時期に「徳川」に改姓したこと。恐らく理由があって姓を変えたのだ。
俺は公家衆と昵懇の泰翁慶岳を尋ねた。
「ほほほほ…そろそろ来られる頃じゃと思うておりましたぞ、隋空殿。」
泰翁は誓願寺の住職で三河生まれであり、京における松平家の活動支援者だ。半三の伝手で知己を得て今では文のやり取りをする間柄だ。
「ご住職は何でもご存知の様子……早速ですがお尋ねいたしまする。どうすれば殿の三河守叙任が叶いましょうや?」
「その前に、歴々の三河守を調べてみたのじゃがな。その中に世良田弥四郎という者が三河守になられているのを見つけたぞ。」
「なんと!して、その者は如何なる御仁ですか?」
「うむ、新田義重公の孫にて上野国の新田郡得川郷の地頭であった新田義季公の弟君の様じゃ。世良田郷の地頭となり、世良田頼氏と名乗っておられたらしい。」
「では!?」
「事例があるのに朝廷からは「前例がない」と言われるは些かわからぬことじゃ。そこでじゃ、お入りくだされ。」
泰翁はやや後ろに身体を向けて声を掛けた。すっと障子が開き奥から扇子で顔を隠した男が入って来た。鼻につく香の香りと装束から身分の高い公家だと俺は瞬時に判断し身体を向けて平伏した。
「ほっほっほっほ……其処までされぬでも良いぞ、余はお忍びで此処に来ておる。」
男は高い声で笑うと扇子で顔を隠しながらまじまじと俺を品定めするように覗き見た。俺は警護の為に半蔵をはじめとする服部衆を周囲に配置させていた。何かあれば俺に知らせる手筈になっていたが、反応がない。…いや、畏れ多くて反応することができずにいたのだろう。それほどこのお方は高貴な身分の者だ。
「ささ、こちらへどうぞ…むさ苦しいところで御座いますが。」
住職が男を上座の位置に招いた。男は音もたてず歩きふわりと座った。俺は改めて体を男に向けて平伏した。
「隋空殿、此方におわすが…関白殿下にあらせられます。」
俺は背筋に電流が走ったかのような衝撃を受けた。幼い頃から京の情勢については調べており、京で暮らしていた時も公家衆の動向をつぶさに把握していたから“関白”と言われて誰を指しているかすぐわかる。
この男が近衛前久か。
公家衆の名門藤原北家の当主にして藤氏長者、関白宣下を受け従一位の身位にありながら、越後や上野に下向して名のある武家を焚き付ける戦国の異端児。
そんな男が俺を品定めするが如く見ている。今にも気絶しそうだった。
「……織田上総介殿から話には聞いておった。坊主らしからぬ男、三河に在りき…とな。そちが隋空と申す者か。」
「は、臨済寺にて仏の道を学び、各国を見聞して回りたる途中、三河の殿様に拾われそのご恩を返すべく仕えておりまする。」
この男、信長とも通じておったか。しかしあ奴め、俺の事を方々でべらべらと喋ってやがるか。これでは身動きが取りにくいではないか。俺は別に有名になりたいわけじゃないんだ。
「ほう、三河の…松平殿でおじゃるな。三河守を受領したいとか。」
「はは、しかしながら朝廷からは“否”と突き付けられまして……。」
「ふむ、松平殿は確か…新田氏支流の世良田氏を称しておられるとか?」
下調べしてるじゃねーか。さてはこのためにわざわざお忍びで此処へ?となるとこの和尚も一枚かんでやがるか。どういうつもりだ?金子なら幾らか用意はしているが、関白相手だと迂闊なこともできんぞ。
「は、仰せの通りに御座いまする。」
「ふむ、三河守を任せるに申し分ない血筋ではある。……だが、姓が松平では、帝への聞えも良くはない。何か新田、世良田に関わる名であれば余もお口添えできるでおじゃるが…。」
俺は自分の記憶からぴんと来た。これは改姓イベントだ。チャンス到来である。これで道が開ける。
「されば…その昔、新田氏の治める地に「得川郷」なる地があり、一族の一人がその地名を名乗っていたとか。」
俺はさっき住職から聞いたことを思い出し、記憶を頼りに知っていることを喋ってみた。前久は反応した。
「得川郷…得川……とくがわ…ふむ、悪くない。」
響きを確認しているかのようで前久はなんども口ずさみ頷いていた。
「良いではないか。松平殿は名を“得川”と改められよ。されば、余が帝に内々に申し上げて進ぜよう。」
「はは!有難きお言葉!急ぎ三河に戻りて名を“徳川”と改め、三河守受領の儀を奏上仕りまする!」
俺は深々と頭を下げて礼を述べた後でふっと顔を上げた。
「して、関白様の御心に沿いたいと思いまするが…何処にお届け奉りましょうや?」
「ん?外に余の家人を待たせておる。その者に言っておくが良い。」
前久は上機嫌に答えた。ここはあらん限りの金子を持って行ってやろう。
「余はこれから住職と話がある。」
ん?出て行けと言うことか。
「はは、失礼いたしまする。」
俺はしっかりと頭を下げて寺を出た。直ぐに半蔵らが駆け寄って来た。事情を説明して控えていた家人に金子をあるだけ手渡した。
これで“三河守”ゲットだぜ!
「揚々と出ていかれましたな。」
「…これで良かったのか泰翁?」
泰翁と前久は隋空の出て行った襖を眺めながら会話を始めた。前久の問いに泰翁はくすりと笑う。
「はい、あの者に恩を売っておけば必ず殿下の為になりまする。」
「あの坊主がのう……。」
前久は体を横に倒して寝転がり、扇を開いてパタパタと仰いで眉をはの字に曲げた。そんな様子に泰翁はまた笑う。
「あの者は、駿河では瀬名夜次郎と名乗っておりましたぞ。」
泰翁慶岳の言葉に飛び上がるかのような仕草で体を起こし、扇をパシリと閉めた。
「何?ではあれが雪斎の申していた麒麟児でおじゃるか!?」
「はい、先代今川殿も御認めになられた者とも聞き及んでおりまする。」
「ううむ…これはもったいないことをした。もう少し話をしたかったのう。」
前久はまた体を横にして扇で顔を仰ぎ始めた。
「いえいえ、あの者は世を動かしまする。あの者が仕えている松平殿もいずれ京に足を踏み入れることになりましょう。その時に…この縁が効いてきまするぞ。」
「ほっほっほっほ、それは楽しみじゃな。余には国を動かす力はない。されど国を動かす者を動かす力はまだある。この力、失われる前により良い武士を選びて、乱れた世を正して貰わねば…。」
泰翁はそっと身体を寄せて囁いた。
「次は何処へ行かれるのですか?」
「…暫くは京に居ることとしよう。何やら面白きことが起きるやも知れぬ。」
泰翁慶岳と近衛前久との会話は隋空の知らぬところであったが、二人はその正体を知ってなお協力していた。“瀬名夜次郎”という名は、隋空が知らないところで大きく広まっていた。
俺は急いで三河に戻った。酒井忠次と石川家成を呼んで事情を説明すると、直ぐに姓を改めることを殿に進言すべしと同意を得られた。更には榊原康政、鳥居元忠にも賛成の同意を取って家康に進言する。
案の定、家康はぐずった。
「先祖代々の姓を捨てよと申すか!」
俺は説得した。
「こうお考え下され。松平の名を冠する者は数多おりまする。殿はその上にたつお立場にあられまする。しからば名も上に立つ意味で誰も名乗っておらぬ新田源氏所縁の「徳川」を名乗り、功ある者に「松平」を名乗らせることで、「松平」は特別な名になるのです。」
家康の眉が動いた。興味を示した証拠だ。
「名を捨てるのではなく、名の上に立つのです。」
小平太が関心している。俺に関心するんじゃなくてもっと殿を煽てろよ。…彦右衛門、おまえもか。
「殿、皆と同じ“松平”か皆の上に立つ“徳「徳川じゃ!……」
家康は俺が言い切る前に選択しやがった。
「儂は今日から徳川じゃ、徳川三河守家康じゃ!」
家康は立ち上がって自慢するかのように自分の名を連呼した。彦右衛門が「良き響きじゃ!」と囃し立てる。忠次も家成も歓声をあげ、小平太も喜びの声をあげた。俺は目を覆いたくなった。子供のようにはしゃぐ家康とそれを煽てるように喝采を送る家臣たち。特に家康は思っていた以上に子供っぽい。まだ二十代だ。これから戦国武将として成長するはずだと言い聞かせるが、正直不安が残る。
まあいい。これで「三河守」任官の目途はたった。家康の快進撃はこれからなのだ。
家康の三大危機の1つ、「三河一向一揆」は乗り切った。あと2つ。これを乗り切れば俺は安泰だ。それまでの辛抱だ。
がんばれ、俺。
「泰翁…三河から届いた書状だがな……「徳川」と書き記しておる。「得川」ではないのか?」
「ふうむ…されど、響きに対して「徳川」という字はしっくり来ますな。良いではありませぬか?」
「そうか?……そうであるな。徳川……うむ、よい響きだ。」
「これなら帝の憶えも目出たき事に御座りましょう。」
「では、これを持って帝を動かすとしよう。」
「ははは、帝を動かす、とは畏れ多きお言葉…関白殿下以外の者が口にすればただでは済みませぬな。」
「お主に持ち上げられるとこそばゆいわ。」
「わーはっはっはっは!」
泰翁慶岳
浄土宗の僧侶。京都誓願寺51世住職で公家衆とも親しくしている。三河出身であることから家康にも多大なる協力をし続ける。(弟が松平家に仕えているからとも言われる)芳の実弟である平助はこの誓願寺の神人として養われていた。
近衛前久
藤原五摂家のひとつ北家の当主で、藤氏長者として公家衆をまとめる人物。他の公家衆と違って活発的な行動を起こしており、関白の地位にありながら下向して上杉謙信ら関東の戦国大名を渡り歩いた。




