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40.三河統一

三河一向一揆編の最終話になります。

あとがきが長くなってしまったことはご了承ください。



 永禄6年7月9日。


 最後まで抵抗を続けていた岡崎城北部の酒井忠尚勢が陥落した。忠尚は居城である上野城を捨てて逃亡し、残った者は悉く酒井忠次によって討取られ、これでようやく全ての反抗勢力が駆逐された。


 この内乱によって松平家中の勢力バランスは大きく変わった。終始酒井忠尚を抑えつけていた酒井左衛門尉家は重臣の中で筆頭の家柄となり、忠次自身も筆頭家老として家康を補佐する任を受ける。石川家は多くの造反者を出し、当主の数正も精彩を欠いたことからその地位は大きく後退し、当主も叔父の家成が代行することとなった。

 大久保家は当主の忠俊が家康の反感を買ったため、隠居して家督を嫡男の忠勝に譲るも、家中での功績は支流の忠員家の方が大きく、家康も改めて忠員家に所領を与えて分立させたことで立場が逆転しつつある。

 酒井正親は正式に西尾城とその周辺を領地として与えられ雅楽頭家としての地位回復を果たし、隠居して家督を嫡男の重忠に譲った。

 本多忠真は松平軍の別動隊として兵を率いて戦果を挙げその功績は家中随一と称えられる。その族弟である広孝も桜井、野寺の戦で功績を挙げ本多氏は酒井氏に次ぐ一族となる。

 伊奈家は一族揃って本願寺側に付き、松平軍を大いに苦しめたとして帰参も許されず領地召し上げとなり、出奔する。空いた小島には隋空が城代として入ることとなった。


 連枝衆においては常に前線に立って指揮をした藤井松平信一が連枝筆頭となった。また福釜の松平親俊が功績を認められ、連枝衆の一人として城勤めを言い渡される。酒井正親と共に戦功をあげた亀千代は東条城を与えられ、元服して松平家次と名乗り、小姓衆に加わった。これは家康が家次を気に入り異例の抜擢である。

 重臣として岡崎城に詰めていた能見松平重吉は鳥居忠吉と共に岡崎城を追い出されて所領勤めとなる。代わって息子の重勝が岡崎城勤めとなった。

 大草松平家は所領を没収されて追放となり、桜井松平家次は家康に降伏後、家督を忠正に譲って病死している。忠正からは病死と報告されたが恐らく家康に服属するのを良しとせず自害したものと見られている。


 それから新たに鵜殿長龍が家臣団の一員に加わる。家康が長龍から差し出された持姫(もちひめ)を一目見て気に入り、側室として迎え入れた事で側近の仲間入りを果たした。



 西三河を完全に掌握した松平家康は、角屋七郎次郎の援助を得て食糧難を凌ぎ、家臣団の再編を整えて東三河攻略を再開した。



 永禄7年10月11日。


 隋空は小島にある浅井西城の屋敷でのんびりと過ごしていた。本多弥八郎が囲碁盤を挟んで向かいに座しており、腕を組んで考え込んでいた。


「何時まで考え込んでおる?お主には残された手は少ないのだ。さっさと打つが良い。」


 隋空は弥八郎を急かした。だが弥八郎はうんうん唸って考え込んでいた。


「少ないからこそそれぞれの先の手を読んでいるので御座る。今暫くお待ち下され。」


 そう言うと考え込んでしまった。隋空は暇を持て余し碁石を弾いて遊び始めた。


「殿、また碁を楽しんでおられまするか。」


 声がして隋空が振り返ると服部半三が杖を付いて立っていた。


「半三!出歩いても良いのか?」


 隋空が駆け寄り半三の体を支える。ゆっくりと歩かせて部屋へと招き入れ弥八郎の横に座らせた。


「ははは…今日は(すこぶ)る気分も良く、殿にお会いしとうなったので罷り越しまして御座いまする。…ほほう珍しく弥八郎殿に勝っておりまするか。」


 半三は盤を覗き込んで嬉しそうに呟いた。これに弥八郎が応じる。


「服部殿、静かにしてくれ、気が散る。」


「ははは済まぬ。殿が勝っておられるので嬉しくてつい…。」


 弥八郎は半三を一瞥して不機嫌そうにまた考え込んだ。それを見届けると半三はゆっくりと隋空に身体を向けた。


「殿、茶屋殿が総持尼寺に来られました故、こちらまでお連れしました。」


 そう言うと、視線を部屋の外に向けた。隋空が見るといつの間にか茶屋四郎次郎が笑顔で廊下に立っていた。


「久しいの、茶屋殿。」


 隋空が声を掛けると茶屋四郎次郎は笑顔のまま半三と反対側の弥八郎の隣に腰かけた。


「娘の仕事ぶりを伺いに立ち寄っただけなのですが、服部殿にせがまれまして…。」


 四郎次郎の娘、芳は昨年末に半蔵正成に嫁いでいた。身分的な問題もあり、長坂信政が養女として迎え入れた後に半蔵に嫁いだのだった。おかげで長坂信政までもが隋空の家臣となっていた。


「どうせ戦の様子でも見に行こうとしていたのであろう?丁度良い、先ほど平助が糟塚砦から戻って来て報告を受けたところだ。お主にも聞かせて進ぜよう。」


「ご高配に感謝いたしまする。」


 隋空は松平軍の吉田城攻めについて説明した。家康は9月に三千の兵を従えて出陣した。先行している本多広孝、本多忠俊隊一千と糟塚砦で合流し、菅沼定盈、西郷清員を先鋒として攻略に掛かっていた。前回の吉田城攻めでは城代の大原義鍾が病により反撃できないという失態を犯し、代わって父の大原資良がその任に復帰していた。だがその資良の病に倒れたとの情報を入手し、此度の出兵となっていたが、菅沼、西郷隊を迎え撃ったのは資良であった。吉田城は資良によって近隣の国衆らを集め完全に迎撃態勢を整えており、菅沼、西郷隊は打ちのめされて後退する。家康は全軍で城を囲って兵糧攻めを指示し、酒井忠次に吉田の支城である二連木城を攻めさせた。


「……で城は落ちましたかな?」


 茶屋四郎次郎のにこやかな質問に隋空も笑顔で答えた。


「いや、まだ落ちておらぬ。だが間もなく落ちるであろう。」


「ほほう…内通…ですか?」


「うむ、大原資良は真に患って居るようだ。しかも死病だとか。資良が亡くなれば城内の士気は下がる。こちらは城を包囲して待っていればいい。」


「しかし人というのは案外しぶといものですぞ。それに松平の殿は短気の御気性。焦れて強引に攻め入るやも知れませぬぞ。」


 弥八郎が口を挟む。隋空は笑った。


「お主もそう思うか。…だが此度はそれでも構わぬと思うておる。既に東三河の調略は済んでおるからの。」


「城攻めを合図に寝返る算段…ですか?」


「そうだ、この事は平助を通じて左衛門尉殿に連絡済じゃ。後は左衛門尉殿次第じゃからの。」


「それで隋空殿は戦には出ずにここで囲碁に興じておられるのですか?」


 茶屋四郎次郎は皮肉交じりに笑った。隋空は気にした風もなく碁盤に視線を向けていた。


「兵を用いるは戦における最後の手段。我が殿は左様に考えておるので御座る。」


 同じように盤を見ていた本多弥八郎が代わりに答えた。そして碁石を盤に打った。


「あ!いや待て!そんな手で来るか!?」


 隋空は弥八郎が打った一手に声を張り上げた。あまりの妙手であったのか、横で見ていた半三も唸り声をあげていた。家康が東三河を抑える大事な戦の最中でありながら、隋空の周りは平和な時間が流れていた。



 永禄7年11月16日。


 吉田城は城内に籠る東三河の国人衆が家康に寝返ったことで表門が内側から破られ、二の丸が松平方に落ちた。本丸に立て籠もった大原資良は自らの死期を悟り、城内の兵の命と引き換えに自害することを選択し、家康に申し出る。家康はこれを受け入れ資良の自害を見届けると鬨の声をあげた。吉田城落城の知らせを受けた二連木城は酒井忠次に城を明け渡し、兵らは資良の遺体を受け取って遠江へと逃れた。

 家康が吉田城を手にしたことで、牧野氏を中心とした東三河の国衆はこぞって家康に恭順の意を示し、ここに東三河を支配下に置くことに成功した。吉田城は酒井忠次に与えられ、国衆を忠次の指揮下に置いた。



 永禄7年11月28日。


 東三河から今川派の勢力が消えたことを受けて奥三河の奥平貞勝、定能親子が家康に服属した。これにより三河全土が松平家康の勢力下に入ることとなった。今川家から独立し岡崎城に居を構えてから4年。家康はようやく最初の目標を達成した。


 永禄7年12月。


 酒井忠次と石川数正は京へ向かう。目的は官位の受領。兼ねてから隋空の伝手で懇意にしていた公家衆らを通じて「三河守」を賜るよう働きかけた。だが酒井らを応対した公家衆は直ぐに返事をせず一月ほど待たせた上に「三河守の任官は藤原氏のみ」として家康への叙任を拒否した。これを聞いた家康は激怒し「兵を西へ向けよ!」といきり立ったのだが隋空があれやこれやで宥めてなんとか事なきを得た。

 松平家は祖父清康が「清和源氏の流れをくむ新田氏庶流」を称していたが、これが仇となって朝廷から拒否されたのだ。流石に今になって系図を改ざんすることもできず家康は叙任を諦めかけていた。


 永禄8年1月。


 今度は隋空が京へ向かった。彼は知っていた。徳川家康は三河守に叙任されるということを。ならば方々に手を尽くせば叙任できる手掛かりがある筈だと考え、服部半蔵と長坂信政を従えて上洛したのであった。





 駿河国今川館。


 当主である今川氏真は、三浦真明(さねあき)から吉田城落城の報告を聞いていた。三河の重要な拠点である吉田城を松平家に奪われたにも関わらず不思議と怒りが込み上げてこないことに氏真は驚いていた。恐らく三河には最初から執着していなかったのであろう。今川は駿河遠江の守護である。二国がわが手にあるのであれば、問題は何もない…そう考えていた。


「松平家の次の狙いは遠江になるでしょう。早いうちに手を打たねばなりませぬ。」


 真明はそう言って指示を待った。


「吉田で討死したるはお主の父であろう?悲しまぬのか?」


「某は御屋形様の命を受け三浦家の名跡を継ぎました。我が心は三浦の為、その主たる今川家の為。大原のことに気を病んではおられませぬ。」


「ほほ、そうか、ならばお主に三浦を継がせて正解じゃったな。」


 氏真は扇子を口元にあてて笑った。この頃の今川家はこの三浦真明が奉行衆を取り仕切っていた。氏真に取り入って気に入られ家中の重要ごとを任されるようになり、その権力が増大していた。嘗ての取り巻きである関口氏幸、道秀兄弟は館にはおらず、今川家を支えて来た譜代の臣らも中枢からは遠ざかっており、三代に渡って今川家を陰から支えていた寿桂尼もまた老いに伴ってその影響力を失っていたため、今の今川家を支えているのは真明と彼の息のかかった奉行衆だけとなっていた。


「与次も言う様になったの。では遠江の松井宗恒に命じて遠江の国衆らを引き締めさせよ。うまくいかぬ場合は二俣城を取り上げ別の者に当たらせよ。」


「はは!」


 真明は嬉しそうに返事をして当主の間を出ていく。氏真は満足そうに見送ってから公家らの待つ部屋へと向かっていった。氏真が公家らを招いて歌会や蹴鞠、舞に興じる回数は日に日に増えて行っていた。



 今川家と松平家。

 三河全土を支配下に置いた家康と、日に日に政務から遠ざかり公家事に傾倒する氏真との力の差は大きく変わり始めた。家康は本願寺派との戦いで結束力を大いに高め、氏真は三浦真明を重用して家臣団に亀裂を生じさせた。二人の戦いの舞台は遠江に移り、彼の地の国衆らはどちらに付くべきかを選択せらるる刻が近づいていた。





酒井左衛門尉忠次

 松平家家臣。第二次派遣隊の一員として家康の居る駿府に赴き、寝食を共にする。三河に戻ってからは酒井左衛門尉家の惣領として家康を支え、酒井忠尚謀反の際には一族から離反者を出さないよう取りまとめ、忠尚を終始抑えつける役目を見事に果たす。


石川伯耆守数正

 松平家家臣。家康の人質時代から付き従い苦楽を共にする。三河に戻ってからは宗家の党首の座を譲り受け主に外交面で家康を支えるも、三河一向一揆では父と戦うことを拒んで先行を挙げられず、叔父に当主の座を奪われる。


石川日向守家成

 松平家家臣。甥の数正を助け石川家を支えていたが、家康にその功績を認められ数正に変わって石川家の惣領の地位を継ぐ。


大久保新八郎忠俊

 松平家家臣。大久保家の当主であったが家康とは反発し隠居させられる。


大久保七郎左衛門忠勝

 松平家家臣。忠俊の子。父の隠居後に当主となるが分家筋の忠員家の発言力が増しておりその地位が危ぶまれている。


大久保平右衛門忠員

 松平家家臣。忠俊の弟。兄が家康と反発していた為惣領に変わって大久保家を取りまとめることが多くなり、やがて家康にその功を認められて所領を得て分家として独立する。


酒井雅楽頭正親

 松平家家臣。駿府時代から家康に仕えており、その忠節は家中随一と言われる。度々体を張って家康に讒言したことから家康に疎まれるものの、三河一向一揆後に西尾城の城主となり地位を回復すると隠居して家督を重忠に譲る。


酒井雅楽頭重忠

 松平家家臣。正親の子。三河一向一揆で父と共に各地を転戦し活躍する。戦後は家督を譲られ西尾城主となる。


松平勘四郎信一

 松平家家臣。藤井松平家の二代目として家康に仕える。三河一向一揆で活躍し連枝衆筆頭に列せられ、以後、家康とともに各地を転戦する。沈着冷静な猛将として評価されている。


松平三郎四郎親俊

 松平家家臣。福釜松平家として広忠の代から仕えていたが、家康とは距離を置いていた。三河一向一揆に際して家康方として兵を動かし、戦功をあげて連枝衆に列せられた。


松平甚太郎家次

 松平家家臣。東条松平家として家康に仕える。元服時に家康から一字を与えられるほど家康の覚えめでたく、また家臣の松井忠次にも支えられて大きく成長する。


松平二郎右衛門重吉

 松平家家臣。能見松平家の当主で連枝筆頭であったが、三河一向一揆で家康に疎んじられ息子に勤めを交代させられる。以降は息子に代わって能見衆を率いて前線勤めに励む。


松平四郎兵衛重勝

 松平家家臣。重吉の四男で兄らが桶狭間の戦いにて戦死したことから、能見松平家の家督を継承する。父に代わって家康の傍に仕え、主に目付役として活躍する。


松平監物家次

 松平家家臣。三河一向一揆で家康に敵対するも居城を責められ降伏する。その後謎の死を遂げており、自害とも暗殺とも囁かれている。


松平与一忠正

 松平家家臣。家次の後を継いで松平家に仕える。桜井松平家は宗家とは清康の代から敵対的であったが、忠正の代からは連枝として忠義を尽くすことになる。

鵜殿又三郎長龍

 松平家家臣。鵜殿下之郷家の当主。元は上之郷家と共に今川家の家臣であったが、桶狭間の戦い後は上之郷家と袂を分かち松平家寄りになる。永禄6年に家康の調略を受けて松平家に属し、西郡局(にしごおりのつぼね)を側室として差し出す。以降は酒井忠次の右腕として活躍する。


持姫

 鵜殿長照の娘で、鵜殿長佑の養女となる。長佑が三河一向一揆で討死すると下之郷家の当主である長龍に引き取られ、松平家に服属するに当たって家康に差し出される。岡崎に移るまでに住んでいた西郡城から後に「西郡局」と呼ばれる。




長坂彦五郎信政

 松平家家臣。茶屋四郎次郎の娘を養女として服部家と縁戚関係を結んだ以降は隋空の家臣として活躍する。


服部半三保長

 松平家家臣。隋空が浅井西城の城代となるときに隋空の家臣となる。病に侵されており、既に家督を正成に譲っており、主に総持寺の屋敷にて養生している。


茶屋四郎次郎清延

 京の呉服問屋。この頃はまだ公に松平家を支援はしておらず、隋空の知己として謁見している程度ではあるが実情は京や堺の情報提供、資金援助を行っている。


 家康の正室である築山御前の世話係として仕える女中。元は茶屋四郎次郎が拾った娘で隋空との連絡役として仕えていたが、服部正成に見初められる。長坂信政の養女として正成に嫁ぎ、後に半蔵正就を生む。


服部平助正刻

 芳の実弟。姉が服部家に嫁いだことで半三の養子となり服部平助と名乗って諜報活動を務める。



大原肥前守資良

 今川家家臣。大原義鎮の実父で義元の代から今川家に仕えていた。義元死後に息子に家督を譲って隠居するも、子の失態を挽回せんと現役復帰して吉田城に入る。だが松平家康に攻められ自害。


三浦与次真明

 今川家家臣。大原資良の息子で義鎮と名乗っていたが、今川氏真の命で今川家の名門譜代家である三浦家の養子に入って家督を継ぐ。氏真のお気に入りで和歌や舞に精通していた。氏真は彼に重職を任せ彼を疎んじた重臣らは今川家から距離を置くようになっていた。


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