36.大草、針崎の戦い
永禄6年5月11日、三河国西尾城。
城に立て籠もった松平勢を討つべく、吉良義昭と荒川義広が城攻めを行っていたが、荒川義広の後背を急襲する一軍が現れる。それは鷲塚の鎮圧に向かっていた水野藤十郎忠重の五百であった。忠重は鷲塚の拠点を徹底的に破壊し門徒共を追い出した後、福釜の松平親俊の知らせを受けて西尾に急行したのだった。忠重は荒川義広の軍を背後から襲って蹴散らし、そのまま吉良義昭の軍にまで食いついた。城内で様子を見ていた松井忠次と松平重勝は今ぞとばかりに城を出て抗戦に転じ、吉良軍は勢いに呑まれて東条城へと逃げだした。だが水野隊と重勝隊の追い打ちによって半数以上が城に到達できず、城に籠るものの勢いに乗る松平勢によって二の丸まで攻め込まれ、吉良義昭は城を捨ててわずかな兵を引き連れて逃亡した。
水野忠重は後を松平重勝に任せて北上し、怪我を負った榊原忠政と高力清長を保護する。それから小嶋の伊奈衆と小競り合いをする松平信一に合力して伊奈忠基を追い返すと全軍を率いて岡崎城まで移動した。水野忠重の報告は家康を大いに喜ばせ、松平勢は息を吹き返すことになった。
そして、戦は膠着状態に突入する。
永禄6年5月19日。
関東から平岩親吉が帰国した。犬飼湊に舟を入れて竹谷松平家に兵糧を預け、角屋を連れての帰国であった。親吉は家康に謁見するとまず謝罪した。武蔵では思った以上に米の買い付けができず、予定の半分にも満たない三千石しか三河に運び入れることができなかった。
兵糧の確保……一揆勢との我慢比べを制するには必要不可欠な要因だったのだが、調達に失敗した。家康は親吉と角屋を叱責する。しかし、隋空には腑に落ちないことがあり「殿、お待ち下され」と言って家康の口を止めた。
「角屋殿、米は何故調達できなんだ?」
角屋こと松本七郎次郎は助かったとばかりに隋空に平伏してから、事情を説明した。
「相模、武蔵の米は北條家が纏めて買い付けておりました。何かあると思い調べましたるところ…多くの米が駿河に渡っておりまして…。」
駿河と聞いて一同が戦慄した。駿河に米が流れている。つまり今川家が戦支度を整えている…と。しかも北條家が買い付けて駿河に流しているとなれば問題である。当然軍議の場はざわついた。そこへ平岩親吉が言葉を続ける。
「しかしながら流れていくのは米ばかりで武具や矢束、味噌などは運ばれておらず…。」
二人の報告に隋空は首を傾げた。確かに通常戦の準備となれば様々な物資が流通する。だが米だけが何故?しかも我らが買い揃えられぬほども?今更ながら半三を駿河から呼び戻したことを後悔もする。
「殿、すぐさま駿河に人を送って調べまする。此度のことは今川の策略やも知れませぬ故、これ以上この二人を責めるは……」
「では隋空!どうするつもりじゃ!米がなくば我らは門徒共に勝てぬではないか!」
家康は怒髪天であった。完全に家康の怒りの矢が隋空に向けられ、流石の隋空も後ずさった。慌てて榊原康政が止めに入った。
「お怒りは御尤もなれど此処は落ち着いて次の手を」
「落ち着いてなどいられるか!」
家康は康政の言葉をさえぎって吠え軍配を叩きつけると軍議の場から出て行ってしまった。残された諸将は気まずそうに眼を合わせる。隋空も大きく肩を落として下座し直した。
「殿のお怒りは後で解くべし。今は次の手を早急に練りご進言仕るべく…皆々方もお座り下さらぬか。」
隋空の勧めでため息を漏らしながら諸将が座した。そして主君不在のまま軍議は進められた。
翌日の朝、隋空が自ら朝餉の膳を持って家康の私室を訪れた。部屋に入って来た隋空を家康はじろりと睨みつけた。
「昨日は申し訳ない。」
隋空はまず頭を下げた。それから膳を置いて家康の前に座る。隋空は二人きりの時は友として家康に接するようにしていた。そのほうが家康と腹蔵なく話すことができたからだ。家康は友として座る隋空を感じて態度を軟化させた。
「…で、何の用だ?」
「勿論昨日の続きだ。これからどう動くか…お前の裁可が必要だ。」
「兵糧がないのにどうやって動くのだ?」
「兵糧はあの角屋が伊勢に買い付けに動いた。」
「京に近くなれば米は高くなる。銭は無限ではないのだぞ。」
「不足分は奴が出すそうだ。あの男、どうしてもお前に恩を売っておきたいようだ。」
「ふん…。」
家康は汁椀を取り上げて口に寄せて一口すすった。
「で、次は?」
「一揆方の国衆らに計略を仕掛ける。」
「計略?」
「誰某が信仰を裏切り松平方に付こうとしている…など流言を流す。奴らは戦い方や己が都合などで内部の争いを犯している。簡単な流言で疑心暗鬼に陥り今以上に身動きが取れなくなる。」
「…そのあとは?」
「我らは当初の方針に立ち戻り、奴らの拠点を1つ1つ潰していく。そして糾合させる。」
「それでは大きな力になるやも知れぬぞ。」
「同胞を信じられる状態ではないため、糾合しても合力ができぬ。大飯食らいの寄り合いとなり…やがて瓦解する。」
「うまくいくのか?」
家康の問いに隋空はしっかりと頷いた。隋空には確信があった。本多忠真や水野忠重、高力清長の話では敵方で積極的に戦を仕掛けているのは、上宮寺の内藤清長、石川康正と満性寺を囲っていた本多正重、蜂屋貞次、桜井の松平家次位である。後は消極的な反抗や抗議のような籠城に留まっている。ならば積極派と消極派を同じ所に拠るように拠点を潰していき、流言を流せば勝手に争ってくれるであろう。
先の戦では自分の作戦が失敗に終わり松平家を危機に貶めたことを隋空は認識していた。自分の策を破ったのは名こそ見えていないが本多正信だと確信している。だがその正信は苛烈なまでの策を用いたことで仲間割れを引き起こした。一揆勢を叩くなら今だと考えていた。
飯を平らげた家康は各地の諸将を呼び寄せた。久しぶりに酒井忠次、石川家成も登城し、怪我を負った大久保忠員の代わりに忠世が、本多忠真の代わりに族弟の広孝が出席した。此度の軍議は鳥居忠吉や松平重吉、大久保忠俊などの老臣らは完全に除外して開かれた。先ずは隋空から現状について地図の上に碁石を並べて説明を行う。皆が理解したところで家康が口を開いた。
「……現状は隋空が説明した通りだ。我らの兵糧は二か月分を切っている。先ずは大草、土呂、針崎の門徒共の拠点を全力で叩き潰す。上野城は酒井左衛門尉、佐々木は石川日向守、桜井は本多彦三郎で抑えよ。酒井雅楽頭は亀千代を連れて東条に向かい、吉良の残党を調略せよ。応じぬ場合は狩って構わぬ。その他の者は…榊原忠政を大将として南下し、大草、土呂、針崎の順に砦の打ち壊せ!目付役には隋空を任ずる。」
皆が一斉に頭を下げた。この日も甲冑姿の隋空は決意も新たであった。これ以上の失態は家康からの信頼を損なう。そうなれば自分は居場所を失うのだ。幾ら家康の親友だと言っても俺は今川の血を引く者。居場所を此処に作るには功を挙げ続けねばならぬのだ。他人には言えぬ決意が隋空を武士として突き動かしていた。
永禄6年5月21日。
松平軍は岡崎城を出陣した。大将は榊原忠政。副将には本多忠勝が付き、寄騎として高力清長、菅沼定盈、西郷清員、設楽貞通。目付に隋空が随行して総勢千五百の軍勢であった。
松平軍は乙川沿いを上って生田まで東進しそこから南下して大草を目指していた。道中隋空は榊原忠政に声を掛けられた。
「それにしてもその甲冑姿は殿によう似とる。」
隋空は忠政が言っていることがわからなかった。
「その顔立ち…特に目と眉が殿に似ておるのだ。坊主姿の時は判らなかったが…兜で頭を隠すと殿そっくりなるぞ。」
隋空は自分の顔を手で触った。自分ではわからなかった。剃髪する前は濃い髭を蓄えており剃髪してからは髪も髭も綺麗に剃っていた故わからなかったのかと考える。
「ならば殿から兜をお借りすれば良かったのかもしれませぬな。」
隋空が冗談を言って返すと忠政は笑った。だが直ぐにまじめな顔に戻す。
「…某はこう思っている。貴僧が居れば殿の代わりと成りて松平家を守ることができる。」
隋空は忠政の言っている意味が解った。自分は影武者役ができる……危険な行動は影武者にやらせて主君の命を守る、家臣が主を守る手段の一つだ。だが隋空は家康の影にはなっても影武者になる気はなかった。だから忠政の言葉に心動かされることはなく「覚えておきまする」とだけ答えて前を向いた。忠政はその態度で隋空の心情を察しそれ以上は何も言わず馬を進めた。
松平家康と隋空の顔立ちは似ていた。幼い頃はそうでもなく、家康はやんちゃで活発的な表情を見せ、隋空は内向的で妙に大人びた表情を見せていた。大人の仲間入りを果たし、二人の顔は似通っていく。隋空が「瀬名夜次郎」と名乗っていた頃は髭の濃さが邪魔をして判らなかったが、隋空として髭を剃り剃髪した頭を隠すと二人が似ている…それは松平家の誰もが思ったことであった。
永禄6年5月22日の夜半。
松平軍は竹谷の松平玄蕃允の兵と合わせて大草城を攻めたてた。松平昌久は大した抵抗もできず一刻ほどで降伏した。榊原忠政は武装解除と所領没収を条件に昌久を解放した。昌久は夜明けとともに一族を連れて大草から出て行った。
永禄6年5月24日。
大草に高力清長を留まらせ、松平軍は土呂へ向かった。土呂城は石川数正の父、康正の城だが、城主康正は上宮寺に出張っており、城は本宗寺の僧兵が門徒を引き入れて防備していた。隋空は拠点の打ち壊しを徹底するためまず本宗寺を焼き討ち、続いて坂崎の城跡を破壊し、土呂城を攻撃するよう康政に進言した。康政はこれを了承し、本多忠勝を本宗寺へ、菅沼定盈を坂崎に向かわせ、西郷清員、設楽貞通に土呂城を包囲させた。そして上宮寺にいる石川康正に使者を送った。内容は“降伏せよ。でなければ土呂城を焼く”であった。三日待ち、返事も使者も返って来なかったのを確認して土呂城は一斉攻撃を受けた。三日間の籠城の末土呂城は榊原忠政によって焼き尽くされた。本宗寺も打ち壊され拠点としての機能は失われる。一揆に加担していた者らは針崎か六栗へと逃走した。
永禄6年6月1日。
服部衆が隋空の下に戻って来た。半蔵には三河内の一揆勢の状況を調べさせ、総三郎には駿河に向かわせていたが、総三郎が思いのほか戻ってくるのが早かったことに隋空は驚いていた。
「北條が今川に売った米は遠江に出回っておりました。」
総三郎の報告は隋空を更に驚かせた。今川氏真は北條から買い付けた米を遠江で兵糧不足に苦しむ国衆に貸し付けていたそうだ。総三郎は駿河まで向かわずとも目的を達したため、早く戻って来れたことに納得する。だがあの氏真が遠江の為にそんなことをするとは考えられない。誰かの入れ知恵と考えたが思い浮かばなかった。隋空は総三郎に再度駿河に向かうよう命じた。今川家がどのような体制で動いているのか、また藤林衆と接触することが可能かどうかを調べるよう言い渡した。
「総持尼寺に父が療養しておる。会ってから行くと良い。」
隋空は直ぐに駿河に向かおうとした総三郎を呼び止め、半三を見舞うように指示した。総三郎は深く頭を下げて陣を出て行った。
次に隋空は半蔵の報告を聞いた。半蔵は一揆勢の情勢が混沌としている様子を伝えた。桜井松平家は小嶋の伊奈家と仲違いを起こして双方とも自城に引き込み、針崎も国人同士で言い争いになって、本多正信と正重が出て行ったそうだ。本多兄弟は手勢を連れて六栗の夏目吉信と合流し再起を図っている。六栗には吉良家の残党も加わっており急速に規模が拡大している様子であった。
「我らはこれから針先を責める。誰ぞこちらに寝返らせることはできるか?」
隋空は半蔵に聞く。半蔵は首を傾げつつ答えた。
「できなくもないですが…それは敵の数を減らしてしまうことになりませぬか?」
隋空の方針は敵の拠点を減らして兵力を集中させ兵糧を消耗させることで、敵を寝返らせれば逆にこちらの兵糧を消耗させることになる。半蔵はそれを気にして聞き返した。
「多少こちらの兵糧が減ろうとも、米を得る算段がついた今では問題ない。それよりも敵をより疑心暗鬼にさせるほうが有用だ。針崎の国衆に寝返りを誘ってみてくれ。」
半蔵は返事をして出て行こうとしたが、隋空が呼び止めた。
「針崎の後で構わぬ。…本多弥八郎と接触できぬか?」
半蔵は驚いた。彼の目から見ても本多弥八郎正信が我らを最も苦しめている者…。その男に会いたいと言い出す主に恐れすら抱いた。そして従うべきか迷った。会わせることは可能であるが、大事が起きれば間違いなく松平方にとって致命傷になる。
「…お止めしたいのが正直な気持ちです。」
半蔵の答えに隋空は笑った。
「半蔵は我が本多弥八郎と会うのが危険だと申すか?……大丈夫だ。袈裟を着て会うつもりだ。」
「あの者は戦に勝つ為ならば非情になれる者です。」
「そうか…では坊主になる必要もないか……。では宜しく頼むぞ。」
隋空はけろりとした表情で半蔵に頼んだ。半蔵は自分も同席する覚悟で主君の命を実行するしかなかった。
永禄6年6月3日。
榊原忠政の軍勢に、松平景忠と鵜殿長祐の兵が合流した。これにより兵力は再び千八百になり、針崎に向かって進軍する。針崎では戸田忠次が内通の嫌疑を掛けられ居場所を失い、進軍してきた榊原忠政に投降した。彼によって針崎の拠点と勝鬘寺の兵力が明らかになり、忠政は勝鬘寺を焼き討ちにせんと更に兵を動かした。
翌日、松平勢は火矢を放ち勝鬘寺は炎上した。勝鬘寺に籠っていた渡辺守綱や大河内秀綱は抵抗を試みるも逃げ場を失って投降した。だが多くの門徒共は松平勢の追っ手を振り切って六栗へと逃げて行った。
永禄6年6月6日。
榊原忠政の軍勢は六栗の一揆勢と対陣する。松平方は忠政の千八百に加えて深溝松平伊忠の二百、大草を守護していた高力清長の三百で、六栗城に籠城する一揆方は千五百にまで膨らんでいた。流石にこの程度の兵力差では城攻めは厳しく、戦は小競り合い程度で一旦収まった。
そんな中、夜になって服部半蔵の案内で密かに隋空は六栗城下の小屋に赴いた。その小屋には本多弥八郎正信と三弥左衛門正重が待っていた。
松平景忠
五井松平家の当主。上ノ郷の戦いの後、鵜殿家の監視を続けていたが下ノ郷鵜殿家が家康に服属したことで三河一向一揆の戦に参陣する。
鵜殿長祐
鵜殿長持の弟。上ノ郷の戦いでは家康に寝返り、その後は下ノ郷家の説得に当たっていた。
渡辺守綱
本多忠真に討たれた渡辺高綱の子で後の徳川十六神将の一人。
戸田三郎右衛門忠次
岡崎城攻めで本多正重と仲違いした後は針崎で松平方と戦う。しかし服部半蔵の調略を受けそれを同胞に見られたことから内応の嫌疑を掛けられる。
大河内秀綱
吉良家家臣。吉良義昭の逃亡後に郎党を引き連れて針崎に合流し松平方と戦う。




