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35.反撃



 永禄6年5月9日、早朝。


 酒井忠次の兵が異変に気付いた。西側に陣取る中条衆が騒がしくなった。知らせを受けた忠次は敵が攻めて来たと思い、弓兵を構えさせた。だが見覚えのある旗がちらつくのが見え構えを解いて物見を走らせる。物見の兵は直ぐに戻って来た。


「御味方です!酒井雅楽頭殿の旗を持つ兵が敵に突撃しておりまする!」


 忠次は耳を疑った。正親は西尾で荒川義広と対峙しているはずだった。だが自分が見た旗印は紛れもなく正親のもの。


「弓を構えよ!味方の援護をせい!」


 忠次の陣は慌ただしくなり、弓兵が西の敵軍に向かって矢を浴びせた。敵陣に届く距離ではない。だが矢音や矢が地面に突き刺さる音は敵にも聞こえ、それが新たな敵の襲来を思わせる。中条衆は忽ち混乱した。挟撃にあったと思い込んだのだ。忠次は直ぐに次の手を打つ。騎馬武者を用意し隊列を組んで走らせた。数十騎ほどであったが敵を更に混乱させるには十分であった。


 酒井忠次の援護に気付いた正親は隋空の率いる槍隊に指示を出した。


「隋空殿!槍衾で突撃を!敵は混乱しております!」


「おう!」


 隋空は荒々しい返事と共に槍を構えて走り出した。


「我に続け!」


 歓声が響き隊列を組んだ槍兵が一斉に後を追った。敵陣は最初に突撃した槍隊によって乱されており、隋空らは易々と敵の最前列まで到達し槍を突き出した。隋空の槍は暴れる馬を御しようとしていた足軽の腹を貫き、そのまま持ち上げられた。突き刺さった槍に手を掛け必死にもがき苦しむ足軽は痛みに耐えかねて悲鳴を上げる。突然の恐ろしい光景に周囲からも悲鳴が上がる。隋空が槍を振ると、穂先から足軽が振り落とされ鈍い音と共に地面に落ちた。周囲の足軽らは思わずあとずさった。


「そうら!奴らは味方の死に恐れを成したぞ!掛かれ!」


 隋空の掛け声で槍隊が一斉に飛び掛かり中条衆の兵は弓槍を捨てて逃げ出した。隋空は逃げる兵の背中に狙いを定めて槍を投げつけ、足軽が叫び声をあげて倒れこむ。次の瞬間には隋空はその足軽の横を通り過ぎ別の足軽に斬りかかっていた。隋空の鬼神の如き活躍に中条衆は散り散りになって戦場から逃げて行った。



 中条衆三百が酒井正親の横撃を受け陣を崩して敗走した報は酒井忠次と対峙していた酒井忠尚にも直ぐに届いた。忠尚は歯ぎしりしつつも状況が不利であると判断して上野城へと撤退した。忠尚の撤退を確認した忠次は、西に展開していた中条衆の掃討戦へと動いた。逃げる敵を追いかける中で忠次は袈裟姿ではなく甲冑を着込む隋空を目にした。すぐさま馬を駆って近づき声を掛ける。


「隋空殿ではないか!どうして此処へ!?それに雅楽頭の旗印とは!?いや、その恰好は」


 忠次は一度にいくつもの質問をした。隋空は笑う。


「ははは!西尾城から大回りして駆けつけたのだ!袈裟は…今だけ捨て申した!」


 丁度その時、総三郎が馬を引いて来たので隋空は身軽な仕草で馬に乗り込んだ。


「左衛門尉殿、敵は再び城に籠った。後はお任せ致す。我らはこのまま岡崎城へ向かう。」


「岡崎…もしや殿の御身に何か!?」


「いや、大丈夫に御座る。しかし岡崎の守りが手薄になっているのは確実…我らは守りを厚くするために向かう。」


 隋空には危惧していることがあった。それは鳳健院と鶴の事だった。一揆勢は彼女らを味方に引き入れようと画策したことがあった。此度も同様に彼女らを保護して、今川を三河に引き入れようとするか、これを機会に、亡き者にしようと考える者がいるやも知れないと考えていた。

 実際に一揆方の本多正信は総持尼寺を襲う案を出していたがこれは実現しなかった。一揆方の百姓たちが尼寺を襲うことを躊躇ったと、国人らが家康の正室であることを理由に拒否したためだった。いずれにしても隋空らが岡崎に入れば一揆方の城攻めは難しくなるのは確かであった。


 酒井正親と松平盛次の四百は戦場を後にして再び矢作川を越え岡崎に到着した。真っ先に総持尼寺に兵を向かわせる。


「隋空殿!よくぞ御無事で!」


 先に岡崎に戻らせていた半三の知らせを受けて長坂信政が門まで迎えに来ていた。


「彦五郎殿、築山殿は御無事か!?」


「大丈夫に御座る。流石の本願寺共も尼寺を襲うほど逆徒となってはおらぬ。」


 信政は豪快に笑った。隋空も安堵を込めて笑った。だが真顔に戻し半三の様子を聞いた。


「うむ、今は部屋を借りて薬師に見て貰っている。確かに顔色は良くなかった。」


 信政も半三の容態には気を使っていた。


「彦五郎殿、半三のことを御頼み申す。兵をいくらか残す故此処の守りも託しましたぞ。」


 胸を張って気張った様子の信政に後事を託し、隋空は岡崎城へと足を運んだ。




 家康の開いた軍議に西尾から駆け付けた酒井正親と亀千代、福釜からの松平盛次が加わり、遅れて隋空と服部正成が広間に入った。参加する諸将は隋空の姿を見て驚きを隠せなかった。兜の緒を締めた姿は家康と瓜二つであった。口髭の有無の違いこそあれど、顔立ちは家康とそっくりであった。

 下座した隋空は諸将の視線に気付き緒を緩めて兜を脱いだ。剃髪した頭となり、途端に家康とは異なる雰囲気になる。


「隋空、如何した。その姿は?」


 家康は驚いた様子で隋空に尋ねた。


「掛かる大事に御座いますれば、今だけに御座いますれば…」


 隋空は笑みを見せて言葉を濁した。家康は隋空の姿を目を細めて見ていた。これほどの男を僧籍に置くはもったいない。そう考えていた。


「我らが得た情報は酒井殿よりご報告した通りに御座います。本願寺の一揆勢は最大の好機を逃しました。即ちこの岡崎城への討ち入りです。半蔵の調べで敵は内輪揉めを起こしておるとか。是は敵がこの戦の目的と手段に対して意思統一がなされていない為に御座ります。」


「目的と手段…?」


「はい、目的とは本願寺派の所有する荘園と領地に対する完全なる“不入の権”の認可であり手段とは殿との直接対決による勝利です。」


 家康は顎に手を当てた。隋空の言う意味を図りかねている様子であった。


「つまり激を飛ばした僧侶たちが欲しいのは殿の出した条件を取り払った“不入の権”であり、そのための手段を考えたのは僧らに味方した殿の元家臣であり、得物を持ち刃を振るうのが門徒らになります。」


 隋空の言葉で榊原康政がその意味を理解した。膝を叩き大きく頷く。


「つまり其々の思惑に違いがあり、此度はそれが仇となって揉めていると?…で此度の戦を考えたのは誰なのか?」


 隋空は誰が立案者なのかは歴史を知る者として判っていたが敢えて首を振った。


「ですが、空誓殿を初め多くの同志からも信用を得られておらず、恐らくですが次からは軍配も変わることでしょう。…で、この後の門徒共の動きですが…。」


 隋空の言葉が皆の注目を集め視線が彼に集中した。


「一揆勢とは我慢比べとなりまする。」


 意外な答えに青山忠門が聞き返した。


「一揆共はもう命を懸けるような戦は仕掛けてきませぬ。そして我らの目的は各拠点の打ち壊し。戦としての相性も宜しくなく、一つ一つの戦いが長引くことでしょう。」


「それでは、我らの兵糧も持たぬ!」


 蔵奉行を務める天野康景は慌てて口を挟む。


「ですが其れは敵も同じ。…三河全域で米不足に陥り、戦の有無にかかわらず泥沼の我慢比べになりまする。」


「拙いぞ!本願寺派の寺は荘園米や門徒共の布施米が集められてある!」


 康景は更に慌てる。だが隋空は落ち着いて首を振った。


「坊主共が、何の益も無しに蓄えた米を戦に勝てぬ門徒共に振舞うでしょうか?」


 家康は口の端を釣り上げた。


「強欲な坊主共は米を出し惜しみする。百姓共も国衆も坊主に対して不満を持つ。」


 家康の言葉に隋空が続けた。


「そして益々敵の戦は弱くなり、我らは砦を落としやすくなる。」


 榊原康政は冷静に問題を指摘した。


「我らはその我慢比べを何時まで続ければ良いのですかな?」


 隋空は腕を組んで天井を見上げた。


「一揆方に与した者で、我らに内通する者がいればわかるのですが…。」


 皆が考え込んだ。一揆方には自分達の旧知の者は多くいる。だが松平方に寝返って情報を流してくれる者がいるとは考えにくかった。静寂が続き場は空気が重くなった。この時静寂を破って本多重次が発言した。


「いずれにしても我らも立て直しが必要に御座る。今一度各地の状況を整理し配置の見直しなどを話されては如何であろうか?」


 むすっとした表情で喋る重次を見て家康は「そうであった!」とぼけた表情で答えた。重次は笑いもせずにすっと顔を背けた。



 上野の酒井忠尚は先の戦で抑えつけた。忠次の三百でこのまま囲いを続け無力化を図ることとした。上宮寺もこのまま石川衆に妙源寺で防衛に徹し、敵の勢いが収まるまで我慢させることとした。後は服部衆の物見の結果を待って決めることとした。

 そして軍議を締めようとした時に小姓が慌てて広間に走って来た。


「申し上げます!本多肥後守殿が帰城なされました!」


 家康は立ち上がって広間を飛び出した。直情的な家康の行動は時として家臣の心情を刺激する。この時も家康が飛び出した様子を見て居並ぶ諸将の表情も変わった。

 家康は屋敷の入り口で足の汚れを落としている最中だったが主君が駆け付けて忠真に抱き着いた。


「よくぞ戻って参った!」


 忠真は声で抱き着いたのが家康であることに気付くと全てが崩壊したかのようにおいおいと泣き出した。



 本多忠真が帰城したことで松平勢は新たな情報を得る。東条城へ向かった信一の兵はまだ不明だが、一揆勢の急襲を受けた大久保忠員とは土井で合流した。忠員自身はまだ土井で治療中であるが、離散した大久保の兵も何とか集められて四百が岡崎城に入り、これで兵力は八百まで回復した。そして針崎の勝鬘寺はそれほど兵が残っていないことを知る。加えて本願寺勢一千が岡崎城の東に位置する満性寺を包囲していることも分かった。


「よし!満性寺へ向かうぞ!」


 家康は拳を突き上げる。また言い出したとばかりに鳥居元忠が止めに入った。


「放せ彦右衛門!敵は城攻めを断念して士気も下がっておろう!これぞ好機ぞ!」


 家康は元忠を押しのけようとした。


「殿!」


 ひときわ大きい声で隋空が家康を呼んだ。余りの声に静まり返り、家康も隋空の迫力に圧倒され唾を飲み込んだ。隋空はゆっくりとした所作で平伏する。


「満性寺を囲いし者どもは、殿に弓引くことを躊躇い、好機を逃した臆病者に御座る。此処で殿が御出馬あらば恐れを成して逃げ出すでしょう。」


 思いがけない隋空の言葉に家康も驚く。


「但し、某も御供仕りまする。」


 これに康政が同調した。


「我ら小姓衆が先陣を切って参る!どうか我も!」


 これにはその場にいた者が「我も我も」と声を挙げた。松平勢の士気は大いに高まった。




 永禄6年5月10日、夜明け前。


 松平家康率いる五百が岡崎城より出撃し満性寺を攻める本願寺勢に襲い掛かる。岡崎城を警戒していた蜂屋貞次は攻めかかって来る敵の軍勢に家康の姿を見つけると一目散に逃げだした。多くの元松平家家臣は家康を見て貞次と同様に逃げ出し、まともな抵抗もなく一揆勢は散り散りになってまだ朝日の射さない暗闇の中に消えていった。


 松平家康は朝日と共に岡崎城に凱旋しこの勝利を周囲に触れ回った。各地の松平勢は勢いづき、本願寺勢の士気は大きく下がった。



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