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34.各地の攻防



 松平家康が一向門徒との戦に追われていた頃、駿河では今川氏真が遠江衆への対応に苦慮していた。


 昨年、井伊直親を今川家に対して逆心ありとして謀殺したものの、他の遠江衆の反感を買いその対応に追われていた。遠江衆の不穏な動きは瀬名氏詮からの報告で自身が最も信頼する松井宗恒に二俣城に派遣して対応に当たらせていたのだが、その宗恒が遠江方に付いて自分に意見を申してきたのだ。


「遠州の領主皆々食う物にも困る有様也、駿河の御太守殿に置かれましては是非とも慈悲ある裁可を頂きたく普請の免除、納付米の軽減を進言致。」


 氏真は激怒した。重臣らを招集し松井宗恒からの書状を見せ、松井宗恒討伐の兵を集めるよう命じた。だが重臣らの反応は鈍かった。


「御屋形様、松井殿は御屋形に反旗を掲げたわけでは御座りませぬ。遠江衆を慮っての書状に御座いますれば…松井殿を討つ理由が御座いませぬ。」


 長谷川正長が重臣を代表して氏真に申しあげるが氏真の怒りに油を注ぐような結果になり、その後は紛糾した。結局その日は当主と重臣らの意見が合わず軍議は翌日に持ち越された。



 夜、氏真の寝所にこっそりと瀬名氏詮が訪れた。例によって忍のように寝所に無音で入り小声で氏真に話しかけた。


「松井殿の件…藤林衆から聞きました。」


 宗恒の件は重臣らから聞いたのだが、氏詮は重臣らの意で来たことを悟られないため藤林衆の名を持ち出して話を始めた。


「某のほうで調べますると遠江の村々は昨年の実りが良くないようで、真に食う物に困っておるようで御座います。」


 氏詮の報告は氏真を唸らせた。


「されど遠江衆が御屋形様への奉公を蔑ろにし始めているのも事実。此処は御屋形様の度量を見せ再び今川家への忠節を誓うよう仕向けては如何でしょうか。」


 氏詮の案は氏真の興味を惹かせた。


「北條家より米を買うのです。先代が亡くなられて以降、北條家とは疎遠になりがちでしたが、浅間大社の大宮司様の助力を得て、北條家との関係も改善しつつあります。」


 氏真はうんうんと頷く。


「此処は親善の証として向こうの余剰米を高く買ってそれを遠江衆に安く貸し付けては如何でしょうか?」


 氏真は驚いた。


「そ、それでは儂の銭が飛んでいくではないか!」


「多少銭を使うことになりましょうが、乗り気にならぬ譜代衆らの兵を引き連れて仕置きをするより確実に遠江衆を服属させ北條との関係も益々良好となりまする。」


 氏真は腕を組んで考え込んだ。


「公家共は当てにならんか?」


 氏真は銭を出すのが嫌だった。どうにか日頃から丁重に遇している公家らを活用できないか氏詮に尋ねた。


「御屋形様、あ奴らは京のことに関しては相談もできますが、国衆のことには何もできませぬぞ。」


「そ、そうか。」


 最近は何かと公家に頼ろうとする氏真である。無理もない。譜代衆ら重臣とはそりが合わず、小姓らは頼りにならず、京の雅を自分と楽しむ公家らが心のよりどころになりつつあったのだ。


「如何なされますか?」


 考え込む氏真に氏詮は迫った。氏真は結局折れた。そして翌日の軍議で氏真自らの案として諸将に説明し北條家からの米の買い付けを葛山氏元に命じた。




 此処に来て今川家と松平家が同時期に関東の米を買い付けるという事態が発生したのだった。




 あざい山での急襲を逃れた本多忠真隊は本領である土井で兵を整えると針崎の勝鬘寺へ急行した。隋空の話ではここの兵力を使って岡崎城に攻めると言っていた為、その前に引付けようと考えたのだ。手勢百騎程度では無謀な夜襲であった。

 勝鬘寺に着くと物見の兵をあっという間に蹴散らして正門をこじ開け中に躍り込んだ。直ぐに僧兵や一揆勢が駆け付け忠真らを取り囲む。その中に旧知の者がいた。渡辺高綱である。


「源五左衛門!お主ほどの者が何故殿に背いたのじゃ!?」


 忠真は声を張り上げた。高綱は言い返した。


「殿に背くのではない!御仏に従ったのだ!」


「一緒であろう!今なら間に合う!槍を捨てて降参せよ!」


「どのような状況か判っておるのか!?お前は“不入の権”を犯しておるのだ!儂は信徒としてお前を成敗せねばならぬ!お前こそ武具を捨てよ!」


 問答は互いの設定を見いだせなかった。忠真は麾下の兵に指示を出した。正門を背に方陣の構えを整え敵を威嚇した。忠真の考えはこうすることで一揆勢の岡崎城への出撃を少しでも遅らせられると。しかし既に一揆勢は出撃した後で此処に残るは高綱勢の二百程度であった。それでも敵のほうが優勢である。

 渡辺高綱の合図で一揆勢が一斉に槍を突き出した。本多勢は槍でいなしてこれを防ぐ。逆に前へ進み出て槍を叩き落とすが渡辺勢はこれを引いて交わした。何度か槍の応酬が行われたが互いに陣形を崩す事は出来なかった。

 兵を指揮しつつ忠真は増援のないことに気付く。そして此処は既に出陣した後だと悟った。


「源五左衛門!他の者はどうした!…岡崎城へ向かったか?」


「…知ってどうする?」


「殿をお助けに某も向かうまで!」


「其の侭帰すと思うか!」


「ならば斬るまで!」


「お前に斬られるほど鈍らではないわ!」


 二人は槍を手に前に進み出た。同時に槍を突き出す。甲冑の大袖に掛かり吹き飛ぶ。わずかに高綱は肩から血が吹き飛んだ。だが一歩引いて体勢を立て直しもう一度突き出した。忠真は槍で叩いていなすと高綱は槍を落としてしまった。高綱は刀を抜いて切りかかったが忠真の投げた槍を受けて倒れこんだ。高綱が起き上がると忠真は距離を取って刀を抜いていた。


 そこからは睨み合いになった。周りの兵たちは二人に圧倒されて立ち尽くしていた。


「源五左衛門、このまま我らを見逃せ!」


「できぬ!」


「斬り合うことになるぞ!」


「其れも御仏の思し召し!」


「…くそ!」


 忠真は斬りかかった。高綱も応戦した。刀と刀がぶつかり合い激しく打ち合う。だが打ち合ううちに互いの刀はその力に負けて同時に折れた。宙を舞う刃先に周囲の目が奪われる。次の瞬間、忠真は残った刃で高綱に向かって突き出した。刃は高綱の脇近くに突き刺さり深くめり込んだ。


「がはっ!」


 激痛が高綱の全身に駆け巡りうめき声が上がる。忠真が刀から手を離すとそのまま後ろに倒れこんだ。

 静寂があたりを包み、一揆方の兵が高綱を見て後ずさった。忠真はその瞬間に踵を返した。


「逃げるぞ!」


 忠真の掛け声で本多勢は方陣を維持しつつ正門へと後退した。


「逃がすな!」


 僧兵たちが慌てて駆け寄るが本多勢は巧みに槍を使って敵を寄せ付けず後退した。そのまま正門までたどり着くと一斉に背中を向けて外へと飛び出して行った。一揆勢が追いかけるが巧みに追っ手を躱し暗闇の中へと消えていった。




 一方、岡崎城の追手門破壊に失敗した一揆勢は8日の昼を過ぎても今後について揉めていた。本多正重と蜂屋貞次の二人が主張を曲げず総攻撃と諸地域からの合力まで巻きとで言い争っていた。本多正信が二人の間に入ってとりなしをするのだが、どちらも譲る気配は見せない。既に戸田忠次は一部の兵を連れて戦場から離脱しており、兵力も千を割っていた。

 正信は早急に次の作戦を立てねばならなくなったのだが、そう簡単に二人を納得させるような案が浮かぶわけではない。こうして一揆勢は岡崎城の前で無為な時間を過ごす羽目となった。


 だが松平側もそんな一揆勢の状態を喜んでいられる状況ではなかった。拳母(ころも)で中条家の残党が挙兵し酒井忠尚に与したのだ。酒井忠次の兵は上野城の南に布陣して忠尚と対峙していたが、中条衆が忠次の西側に現れた為、挟撃を恐れて更に南に後退した。すると忠尚の軍勢が城から出て中条衆と歩調を合わせるように忠次軍を包囲する動きを始めた。忠次はこれ以上後退すれば岡崎城を危険にさらすと判断し、矢作川沿いの廃寺に陣を敷いて酒井忠尚軍、中条残党衆と対峙した。兵力差からして忠次のほうが劣勢であった。

 更に囲みの解かれた東条城の吉良義昭が息を吹き返し、八面の荒川義広と共謀して西尾城に兵を進めた。西尾城には百騎ほどしか兵は残っておらず、籠城するのも厳しい状況であったが、松平重勝の率いる能見松平勢が西尾城の救援に駆け付け義昭と対峙した。



 西尾城を出立した酒井正親隊は首尾よく矢作川を越えて福釜に到着し、福釜城主の松平親俊と合流して兵数を四百まで増やして補給も整えた。ここで安城付近の様子について親俊より情報を得た。


「佐々木の上宮寺と妙源寺との争いが激しく、ここに桜井の松平勢が一揆方として加わっておる。このまま安城を横切るのは危険じゃ。」


 親俊の助言はこのまま北上して箕輪を通り、東海道まで出て岡崎を目指したほうが良いとのことであった。隋空は親俊の助言に従い進路変更を決断する。一行は福釜での休息もそこそこに日が落ちる前に福釜を出立した。

 隋空の一行は日が暮れても進軍を続け箕輪を通過し日付が変わる頃になってようやく東海道に抜け出た。道沿いに東の空を確認したが火災による灯りなどは見えずまだ岡崎城は落ちてはいないと予測する。急ぐ必要はあるが兵たちにこれ以上の無理はせられぬとここで夜を過ごす事にした。


「半三、周囲の様子が知りたい。何か知らせはあるか?」


 水を飲みつつ隋空は随行する服部半三に話しかけた。


「今配下の者を周囲に探らせておりまする。しばしお待ち下され。」


 半三はそう答えた後うずくまった。酷い咳を繰り返し膝を付く。隋空は慌てて抱え起こし半三の顔を見た。疲れからなのか顔色は良くない。


「後は他の者にやらせろ。少し休め。」


 隋空は半三に無理をさせたと思い休むように言った。だが半三は首を振った。


「か、掛かる大事にこれしきの事で…。」


 半三は体を起こし立ち上がろうとした。隋空は半三の頬を軽く叩いた。


「…今は休め。服部衆はお前だけではない。だが我の腹心服部半三は…お前だけなのじゃ。」


 半三はじっと隋空を見つめていたがやがて気張っていた気を抜くかのように息を吐き出した。


「申し訳ございませぬ。斯様な時に…。」


「良い。お主は朝になったら東海道を進んでそのまま総持尼寺に行け。そこで一旦養生せよ。服部衆は半蔵正成が代行で率いれば良い。」


「…はは。お言葉、痛み入りまする。」


 その日は隋空は半三の傍で眠りについた。幸いにも半三は何事もなく眠り翌朝を迎えた。




 隋空と正親の隊は夜明け前に起床し軍議を始めた。服部衆が周辺を探って入手した情報を元にここからどう動くかを決める為だった。岡崎城は包囲こそされてはいないものの一揆勢が正門の前で陣を張っており凡そ千だと分かった。更に酒井忠尚が忠次の陣を攻めているとの情報も入った。


「…此処は岡崎には向かわず、酒井殿の助けに北へ動くべきかと。」


 隋空は軍議に出席する正親、亀千代、松平盛次に意見を求めた。亀千代はまだ戦の事を知らぬ故黙って正親を見ている。松平親俊の弟で福釜衆を率いる平右衛門盛次は大きく頷く。正親は不安そうに東の空を見た。


「…殿が気がかりではあるが、隋空殿の意見に従うべきであろうな。」


 正親は後ろ髪の引かれる思いで応えた。隋空は正親に笑って見せた。


「大丈夫だ。あ奴の事だ、今頃「撃って出るぞ!」と息巻いて小姓らを困らせておろうぞ。…小平太殿は聡い。防戦に徹することが最良であることを判っている者ぞ。先に周囲の問題を片付けて堂々と岡崎へ向かおうぞ。」


 隋空の言葉に酒井正親は東の空を見つつも頷いた。それを見た隋空は薄く笑みを浮かべると傍らに控える服部総三郎を呼んだ。


「総三郎、甲冑を脱ぐのを手伝ってくれぬか。」


「…ど、どうかされたのですか?」


「いや…袈裟を着ていると動き辛いのでな。…今だけ!……今だけ、我は武士(もののふ)になろう…とな。」



松井八郎宗恒

 今川家家臣。氏真の家老衆として信頼され遠江二俣城の城代となる。遠江衆を懐柔すべく腐心しており氏真への減税願いの書状もそのひとつ。だがこのことにより徐々に氏真からの信頼を損ねていく。


浅間大社の大宮司様

 富士山本宮浅間大社の大宮司のこと。富士信忠と言い今川家臣でありながら北條家の援助も受けていた。


葛山氏元

 今川家家臣。駿河駿東郡の国人領主で北條氏綱の娘を正室にするなど北條家と関係を持つ在地領主。氏真と距離を置いていたが、娘婿の瀬名氏詮の仲介もあって今は重臣に列している。


渡辺源五左衛門高綱

 松平家家臣。松平家譜代の家臣であったが三河一向一揆で一揆方に加わり討死する。


松平重勝

 松平家家臣。能見松平家の当主重吉の子。父に代わって能見軍を率いて東条城攻めに加わっていた。


松平親俊

 松平家家臣。福釜松平家の当主で広忠の代から松平家に仕える。


松平平右衛門盛次

 松平家家臣。親俊の弟。


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