3.崇孚来訪
結局三話目も書きあがってしまいました。
天文19年秋。
一人の老僧が竹千代の屋敷を訪ねた。最初に応対したのは元服前の家臣、鳥居彦助で素性のわからない怪しげな僧侶に対し槍を突き付けて威嚇した。
「此処は松平宗家、竹千代様の屋敷なるぞ!何処の誰かわからぬ輩をおいそれとは通すわけにはいかぬ!」
彦助は槍を突き出し、訪ねてきた僧侶を追い返そうとした。向かいの母屋にいた静がそれを見つけ慌てて西風を呼んだ。夜紅はその様子を柱の陰から伺っていた。何者かもわからぬ老人に迂闊に近づくのは危険だと考え様子を見ていたのだ。
母が母屋から出て訪ねてきた老人を見やる。途端に青ざめた表情になり駆け寄って彦助の槍を取り上げた。
「彦助殿!下がられませ!崇孚様!とんだ御無礼を…まだ子供故平にご容赦下さりませ!」
必死の形相で頭を下げるが母。初めて見る西風の慌て様に硬直する彦助。夜紅はまだ様子を伺っていた。老僧の顔には敵意がなかったからだ。
「構わぬ構わぬ。先ぶれまでは無用と思うて来た儂が悪い。…で儂の用事なのじゃが、竹千代殿と夜紅殿に会いに来た。会わせてくれぬか?」
母は動転したまま崇孚を母屋へと導いた。広間の上座へと案内し「連れて参ります」と言って部屋を出た。
母の慌てぶり…母はあの老人を知っている。だが老人は母のことは知らぬようだ。名を呼ばれていない。……“崇孚”と呼んだか。つまり太原雪斎のことだな。史実では竹千代に勉強を教えていたとされている。…竹千代に用があるのならわかるが何故我も?
疑問に思いつつも自分を探す母の前に行きそのまま崇孚の待つ広間へと連れていかれる。
「わたくしの息子、夜紅に御座います。」
下座に座り頭を下げつつ夜紅を紹介した。少年も母に倣い深く頭を下げる。崇孚は少年の一挙手一投足をじっと見つめていた。
「お主が関口殿の三男か。…儂は崇孚という者じゃ、知っておるか?」
「はい、名は伺っておりまする。」
「ほほう…どのような話で儂の名を聞いた?」
これは俺への取り調べだな。即座に判断した夜紅は前世の知識を引きずり出す。
「はい、以前に松平殿の求めに応じて今川様の軍を率いて三河まで出張られたと聞いております。」
「ほほう、良く知っておるな。誰から聞いた?」
「今その松平殿があの屋敷に居りますので。」
「なるほど。では松平の竹千代殿は何処に?」
「はい、正親殿と半三を連れて野菜を買いに行っております。」
「はんぞう…とは?」
知ってて聞いているであろう?と心の中でぼやく。
「はい、母が雇っている者でとても力持ちです。」
「母上に仕えている者が何故竹千代殿と?」
「竹千代殿はいつも無理矢理連れて行きます。」
「お主は怒らぬのか?」
「怒っても改めませぬ故やめました。」
「ふむ。…もしやお主も竹千代殿に使われる事があるか?」
「しょっちゅうに御座ります。こき使われます!」
夜紅は子供っぽく声を張り上げた。崇孚はうんうんと頷いて暫く考え込んだ。
「さて、竹千代殿に会うのは日を改めるか。次はちゃんと先触れを出しておくわい。」
「とんだ御無礼を…ご容赦下さりませ。」
母はまたもや腰を折り曲げて崇孚に謝った。
「よいよい。夜紅殿、儂を外まで案内しておくれ。」
そう言って崇孚は立ち上がった。夜紅は元気よく返事して外へ案内する。門のほうへ歩く途中で殺気を感じ全身を使って真横に飛び跳ねた。
何もない。
後ろを見れば崇孚が懐に手を入れて少年を睨んでいた。だが、直ぐに表情を穏やかなものに戻す。
「…儂の殺気によく反応したな。」
夜紅は小さく舌打ちした。試された。無理矢理にでも取り繕うしかない。
「び、吃驚致しました!」
大げさに驚いてから起き上がり体に付いた土をはたいて落とした。
「ほっほっ済まぬのぉ。」
笑顔を見せつつ崇孚は夜紅の横を通り過ぎ門から外に出た。そこで振り返る。
「…夜紅殿、学問は好きか?」
「は、はい!学びたいと思うております!」
夜紅の答えにうんうんと頷き崇孚は微笑んだ。そしてそのまま去っていった。夜紅は崇孚が見えなくなったところで大きく舌打ちした。
「やられた!あの爺、俺を探りに来たんじゃねーか!…迂闊!まさかあんな大物に目を付けられているとは!」
悔しくて地団太まで踏む。門柱も殴りつける。それでも怒りが収まらない。
そこへ野菜を抱えた竹千代一行が帰ってきた。門の前でただならぬ形相で突っ立っている夜紅を見つけ慌てて半三が駆け寄った。
「ど、どうなされました!」
夜紅は半三の顔をみると胸ぐらをつかんで引っ張っていった。あっけにとられる竹千代と正親。
「竹千代殿、母上と彦助殿を頼む。」
そう言うと返事も聞かず半三を引っ張って外へ出て行った。
「お、おう?」
事態が呑み込めない竹千代の返事はなんとも中途半端なものだった。
夜紅は周囲に誰もいないことを確認してようやく半三から手を離した。
「どうされたのです!」
夜紅のただならぬ行動にわけもわからず半三は声を上げた。
「し!声が大きい。……先ほど太原崇孚が我を訪ねてきた。」
「た!」
半三は慌てて口を抑えた。そして周囲を伺い声を潜める。
「いったい何を聞かれたのですか?」
「殺気を放たれ、思わず飛びのいた。」
「…童の取る行動ではありませぬな。」
「…だな。どうやら俺は只ならぬ者と見られておる。」
「どこでそのようなことに?」
「…父上だ。最近やたらと融通が利くと思っていたのだ。…あれは今川家の重臣だ。義元や崇孚と繋がっていてもおかしくない。」
そこまで言って夜紅は考え込んだ。半三は周囲を伺う。
「恐らくだが、竹千代殿と仲のいい俺に目を付けたのだろう。ところが思った以上に餓鬼らしくなく、そこで崇孚が見に来た…。」
半三がごくりと唾を飲み込む。
「奴らは俺を取り込もうと手を打ってくるに違いない。」
「ど、どうされるおつもりで?」
「……このままだ。流れに身を任せる。下手に動けば母上に迷惑がかかる。」
話をしていると人がやって来た。二人は会話をやめ何食わぬ顔でその場を去った。母屋に戻ると西風が夜紅を抱きしめた。
「大丈夫です、母上。崇孚様と少し話を致しました。恐らく父上が崇孚様にお話をされたので御座いましょう。崇孚様は我に学問を学ばせたいとお思いのようです。」
これを聞いた竹千代が手に持った野菜をぼとりと落とした。
「夜紅!崇孚様にお会いしたのか!」
只ならぬ竹千代の雰囲気に夜紅と半三がきょとんとする。
「あのお方から学問を学ぶと!!」
わなわなと手を震わせながら竹千代が夜紅に近づいてきた。そして一気に襲い掛かり夜紅の頬を両手で抓った。
「ずるい!ずるいぞ夜紅!我も崇孚様から学ぶ!連れていけ!」
喚き散らしながら竹千代は夜紅の頬を抓り続けた。
「痛い!痛い!わ、わかった!わかった!何とかする!するから痛い!」
半三と正親で二人を引き離しようやく収まった。竹千代は半べそを掻いて肩で息をしている。夜紅のほうは両方の頬が真っ赤になっていた。
一方、今川義元の元に戻った崇孚は主君に見たことを報告していた。
「夜紅という童…幼いながら殺気を感じ取り身を守る術を持っておりました。」
崇孚の報告に義元は筆を止める。
「ほう…。関口家は幼子が身を守る術を得ねばならぬほど殺伐としておったか?」
「どうやって身につけたかはわかりませぬ。ですが拙僧の見立てが正しければ、学問にもある程度通じておるやも知れませぬ。」
「見込みがあると?」
「かなり。」
「竹千代のほうはどうであった?」
「不在であったため、会えませなんだ。次は二人を拙僧の寺に呼ぼうかと。」
「雪斎に任せる。儂は松平家が家臣となればそれでよい。」
そう言うと義元の筆が動き出した。崇孚は主君に一礼し、音もなくその部屋から退出した。
二人の子供は、大人たちの思惑により大きく動き出そうとしていた。
夜。
夜紅は痛くて痛くて泣いていた。
彼の両頬は腫れあがり、濡れた手ぬぐいが顎から両頬にかけて覆われ頭の上で結ばれている。
「竹千代め…絶対に許さぬ…痛たたたた…。」
「夜紅…喋れば余計痛みますよ。今は黙っておきなさい。今宵は母が添い寝して差し上げます。」
母は息子の頬を軽く撫で痛がる夜紅をそっと引き寄せて布団をかぶった。
母のぬくもりを感じながらも夜紅は痛みで涙を流していた。明日竹千代に会ったならば必ず同じ目に合わせてやると心に誓い母の腕にしがみ付いた。
翌日も腫れの引かない夜紅は一日中寝込んでいた。
後日、太原雪斎から文を受け取った。竹千代と夜紅宛の手紙である。此処には西風を含めて字の読めない者が多く、正親が手紙を代読した。
手紙には日付を指定して臨済寺に来るように書かれていた。内容を知った竹千代は大喜びで飛び上がった。臨済寺とは崇孚が住職を務める寺で、そこに招かれるということは学問の指導を受けるということだからだ。
一方夜紅のほうは複雑な表情をしていた。それは崇孚がどのような目的で二人に学問を教えるのかがわからなかったからだ。俺だけならまだしも、竹千代も一緒となると理由が見つからない。さりとて呼ばれて行かぬわけにもいかず…。
「夜紅…貴方が何を思っているかわかりませぬが…何にしても学びの場を得られるのです。しっかりと学んできなさい。」
母は自分の心情を理解したうえで背中を押した。夜紅自身それで心が救われたような気になり「はい」と返事した。
「夜紅!礼を言う!我のことも崇孚様に言ってくれたのであろう!この間のことは謝る!ほれこの通り!」
そう言って竹千代は土下座をした。正親を始め松平の家臣たちが慌てふためく。何を勘違いしているのか竹千代は俺のお陰で雪斎から学べると思っているようだ。このまま勘違いさせておこう。そう考えて夜紅は竹千代の土下座を受け取った。
それから約二年。二人は太原崇孚のもとで学ぶこととなる。
今川義元
嘗て雪斎に師事しており、今でも彼のことを雪斎と呼ぶ。
太源雪斎
天文19年の時点では崇孚と名乗る。
鳥居彦助
後の鳥居彦右衛門元忠。幼名はわからなかったため「彦助」と記載。崇孚に槍を向けたことが竹千代にバレ、ぼこぼこに殴られている。




