28.酒井忠尚挙兵
永禄5年春の田植えの時期、今川氏真は三河での相次ぐ敗北に憤慨していた。大原義鍾を派遣して防備に当たらせるも松平家が攻めてきた際に病にかかりまともな対応ができなかったと聞いて鞠を蹴り上げて怒りを露わにした。
しかしながら真宗本願寺派の蜂起の知らせを聞いて小躍りして本願寺派に使者を送ったが直ぐに和議が締結されてつけ入る隙間を失う。名を家康と改め今川家との関係を完全に断ち切ったことで、東三河の今川派の国人共は松平家に対して戦々恐々としていることがありありとわかっていた。
夏に入り松平家の東三河侵攻は鳴りを潜めていたが今度は遠江で松平家の忍を見かけているとの報告を受けた。報告したのは、氏真から距離を置き大原義鍾に変わって伊賀藤林衆を束ねる長となった瀬名氏詮からであった。松平家が東三河を飛び越えて遠州に手を出し始めていることを知ると氏真は即座に遠江国人衆への支配強化を朝比奈泰朝、三浦正俊、松井宗恒らに命じた。次いで駿河に下向している公家共を呼び出し、蹴鞠や歌に興じつつ北條、武田との関係強化を働きかけるよう依頼する。氏真にとって公家とは権威とそれによって他国より優位に立つ為の駒と考えており此れを活かすために公家の遊びや風習を学んでいたのだ。
そして秋になってようやく武田家との関係改善の兆しが見え始めた。武田からの正式な使者を受け入れ同盟の継続を確認する書状を受け取った。
永禄5年10月11日、駿河今川館。
「武田無人斎に不安なる動き此れ有り」
武田の使者から受け取った氏真は使者を丁重にもてなした後に諸将を集めた。大原、松井、朝比奈を除いて今川家の有力家臣がほとんど集まった。寵臣を遠ざけ古くからの家臣を重用するように切り替えてからは軍議に多くの者が集まるようになった。それは満足しているのだが、三河どころか遠江にまで松平の息が掛かりつつあることが気に入らなかった。加えてこの書状である。氏真は父が引き取った武田家前当主をどうにかしたかった。そのことについて家臣らの意見を求めた。
朝比奈駿河守信置が最初に発言する。
「恐れながら。彼の者は度々京に上洛し幕府や朝廷と懇ろにしておるそうです。いっそのこと幕府に語り掛けて適当な職を与えて在京させるのは如何でしょうか?」
駿河の隠居領で不穏にされるよりかはましであるがその費用はどうするか…氏真は武田家からその費用を徴収したかった。
「御屋形様の申す通り、金がかかり申す。ここは甲斐に送り返すべきに御座る。
駿河守に対抗するように関口氏幸が意見を述べる。が真っ当な意見ではない。武田との盟約を継続させたいのに無人斎を送り返せば不興を買うのは誰でもわかる。氏真は氏幸を無視して他の者に意見を求めた。だが誰もが京へ追いやるのが最もと口を揃えた。
「ではその方らであの男を京へ送る費用を捻出せよ。儂は他国の者なんぞにこれ以上銭を出せぬ。今まで一体幾ら使われたと思う?」
「恐れながら、我らにも財を出す謂れは御座いませぬ。」
「何を言うか、あ奴を京へと申したのは其方らではないか。意見はせども銭は出さぬ…何時から其方らは儂の命を蔑ろにできるようになったのだ?ないのならば寄子から徴収せい。何のためにお主らに寄子をつけておるのだ?…ちょうどよいではないか?遠江などで不穏な動きを見せておる国人共に誰が主であるかをわからしめよ。」
氏真の高圧的な命令に家臣一同は平伏するしかなかった。今日の御屋形様は機嫌がよろしくない。此処はおとなしく従い荒波をたてないでおこう…そんな風潮で一同は主の前から辞した。
主君への不満は当然その側近への文句へと繋がる。今の氏真の場合元々の側近を遠ざけ重臣らの子らを新たな小姓衆として仕えさせており彼らへの不平不満は自分たちにブーメランとして返ってくることを理解しており、矛先は瀬名氏詮に集まっていた。彼も氏真から遠ざけられた元側近ではあったが伊賀藤林衆を抱え氏真と裏で繋がっていることは周知であり、重臣どもは氏詮の屋敷へと押し掛けた。
氏詮は押し掛けて来た重臣らを丁寧に応対した。
「皆々方のご意見は分かり申した。しかしながら此処は大人しく従い下さるようお願い致す。かと言って寄子から徴収すればそれこそ国人衆の蜂起になりかねません。皆々方の懐から供出なさいませ。某は奉行衆に掛け合い、皆々方のご負担を軽くできるように致しまする。」
氏詮の畏まった態度に一同は怒気を削がれ、できるだけ費用を少なくするよう念押しして氏詮の屋敷を去っていく。一人残った氏詮は付きたくもないため息を何度もついた。自分の献策でかつての譜代衆が氏真の下に集まるようにはなったが、実情は求心力のない氏真対実績のない元側近対忠誠心の薄い譜代という構図になっておりその調整役の位置に自分がいる。今川家再興のために暗躍したいのに、そのために配下に藤林衆を取り込んだのに一向に活動ができないことにいら立ちを覚えていた。
一方、松平家では次の蜂起に備えて着々と準備を進めていた。岡崎城内に保管されていた古い証文をひっくり返して、先代が約定した寺社を洗い出して家臣に監視を命じた。加えて本願寺派を信仰する家臣も割り出し、緩やかな監視の目を付けた。本證寺に付いた家臣については赦免としたため、石川数正の謹慎も解き政務に復帰させている。そして今川からの横やりが入らぬよう遠江の国人衆に家康の名で文を送り内通を呼び掛けた。隋空には遠江の国人衆がどのくらい反応するかはわかっていた。前世の知識と二俣で暮らしていた知識とで反応を示す相手は読めていた。井伊氏、飯野氏、天野氏あたりが反応を示すはずと読んでいた。そして奥三河の有力国人である奥平定能にも文を出し、寝返るよう説得を始めた。だがこちらの反応は鈍かった。
そんな中、隋空は岡崎城から呼び出しを受け衣服を整えて城へと向かった。隋空の予測は総持尼寺の籠城解除を何時行うのか、東三河への侵攻はいつ再開するのか…そんなところかと考えている。登城すると鳥居元忠の案内で軍議の間へと案内された。下座で待っていると石川家成、鳥居忠吉、松平重吉が入って来て中座の位置に座る。そのあとから家康が榊原康政を引き連れて入って来た。家康の顔はむすっとしていた。隋空は笑いを堪えた。
気が短く調略を苦手とする殿の事だ…恐らく先に書いた文の結果についても問うて来るであろう。
そう考えていた隋空は恭しく平伏した後表情を改めて家康に向いた。
「お呼びにより参城致しました。御用とは何で御座りましょう。」
「……遠江の調略にお主が絡んでおると爺らから聞いた。相違ないか?」
「はい、相違ござりませぬ。」
「だのに未だ成果が見えずと聞く。爺らに聞いても「問題ない」の一言で済まされよくわからぬ。お主からもどうなっているのか聞きたい。」
隋空はちらっと鳥居忠吉を見た。忠吉は隋空の視線に気付かぬ振りで外を見つめている。食えない爺様だと内心で毒づく。
「されば…」
隋空は座り直して状況を説明した。今川直臣の寄子として在地の国人らに送った文についてはその国人らを直接引き入れるためのものではなく、そのやり取りを今川方に疑心を招き遠江の諸地域に不穏な動きを作ることによって三河に兵を送り込めないようにするためのものである、よって成果が見えるのは早くとも年明けくらいであろう。殿は内なる動きに注視されたし。
隋空の説明を受けた家康は考え込んだ。何故にそのような面倒な手順で進めるのか?それは遠江衆の忠義を得んが為。今川家からの派兵など危機的な状況に陥ってから松平家を選択した者は、手紙一つで松平家に付いた者よりも裏切る率は低い…辛辣な手法での調略だがそうせざるを得ない理由が松平家側にあったのだ。
それは軍事組織である。今川家と違い寄親寄子制度などなく、家臣の多くが横並びで家康の配下にいるため、多くの兵を組織することができず、一部が瓦解、寝返りなどすれば直ぐに周辺に伝播する。隋空は松平家の軍事組織を強固なものにするために忠誠心の厚い国人を多く配下に迎えたいと家康に説明した。
「わかった。其は此処に居る石川も鳥居も理解しておるのじゃな。」
家康の声に二人が肯定する意味で頭を下げる。得心のいった家康は先ほどまでの不機嫌な顔をどこかに捨ててしまった様子で総持尼寺に避難したままの鶴の様子を聞き倒した。隋空は辟易としながらも熱心に聞く家康を哀れに感じ、事細かに様子を報告した。
果たして隋空の目論見通り、遠州では寄親と寄子の間で諍いが起こる。井伊直親が今川家によって謀殺されるという事件が起こる。これにより遠江衆は動揺し今川家はこれの対応に追われた。
永禄6年1月10日。
三河で想定外の出来事が発生する。三河の上野を領していた酒井忠尚が突如として反旗を翻した。岡崎城下に人質として住まわせていた妻子を連れ出して上野城に立てこもった。
知らせを受けた隋空は丁度隣にいた長坂彦五郎に「誰?」と聞いた。彦五郎は笑いつつも酒井忠尚について説明した。
酒井左衛門尉家に連なる者だが、松平家には仕えず早々に織田家と通じて半独立領主として上野に居を構えていた。一時、広忠との戦に負けて臣従したものの桶狭間の戦以降に岡崎に戻って来た家康からは距離を置いていたそうだ。
「何故謀反を?」
隋空の問いに使者は首を振る。次いで彦五郎に視線を向ける。
「殿の配下に居ることが嫌だった…としかわかりませぬな。」
彦五郎の答えに隋空は考え込んだ。自分の知識データベースの中に「酒井忠尚」という名前はない。つくづく自分の知識のなさを呪う。そうなると解決策は何が良いのか手探りで進めるしかない。総持尼寺の護衛を彦五郎と服部半蔵に任せ、隋空は家康の待つ岡崎城に向かった。
岡崎城は戦支度の真っ最中であった。小姓らに甲冑を着させている家康を見つけ声を掛ける。
「酒井の件、聞いたか?」
「はい、ですが酒井殿の挙兵の理由がわかりませぬ。お心当たりは?」
「知らぬ。左衛門尉の話では一族の中でも変わり者で宗家からも距離を取っていたそうじゃ。儂も会うたことがない。」
家康の答えに隋空は考え込んだ。酒井本家からも離れ松平家に人質だけ出して出仕していない…形式上では松平家臣を装い、実態は独立した状態で、挙兵のタイミングを図っていた?隋空にはそのように見えた。
「上野へは使者は送られましたか?」
「いや……必要か?」
「はい、問答無用な姿勢を示せば殿の評判に関わります。先ずは使者を遣わし相手の要求を聞いて対処頂きますよう。」
「ならば…小平太!」
家康は榊原康政を呼んだ。廊下で控える小姓衆の中から一人が飛び出して家康の前に跪いた。
「儂の使者として酒井忠尚に会うて来い。忠尚の謀反の意図を得て参れ。」
「畏まりました!」
康政はすぐさま出て行った。上野城は岡崎から遠くない距離にある。日が暮れる前に康政は戻って来た。隋空の予想通り、酒井忠尚は岡崎松平家の風下に立つことが我慢できずに挙兵したことが分かった。
「何故…今頃兵を揚げたのだろうか?」
家康は隋空に尋ねる。
「これ以上待っていても自分と手を組む輩はおらず、殿の周りはゆるゆると人が増えているからでしょう。…誰かに唆されて「今なら勝てる」と思い込んだのやも知れませぬ。」
隋空の回答は康政と家成の視線を釘付けにした。
“誰かに唆されて”
もしそれが真実なら唆した相手は一択しかない。今川家である。しかし氏真はこの手の謀略には疎く配下にも太原雪斎のように知略に富んだ軍師も二人の記憶にはない。
「……誰かに唆されたのであれば、それは誰なのでしょうねぇ…。」
呟くように出した隋空の言葉は家康にも聞こえ、康政と顔を見合わせた。
「ですが、今は兵を揚げた酒井忠尚をどうするかを考えましょう。敵はこの岡崎のすぐ側です。小平太殿の話ではこちらに兵を直ぐに向けることはないようですが、警戒は必要でしょう。」
「籠城の準備は心配御座らぬ。隋空殿の指示で整っておる。二百程度であれば直ぐにでも動かせる故、今宵、夜襲を仕掛けるのは如何か?」
康政は兵権を持つ家康に確認した。家康は首を振った。
「相手は我らの奇襲に備えて自城で構えておるのではないか?」
これに隋空が相槌を打つ。
「その通りに御座います。敵も夜襲には備えておりますでしょう。」
「では如何なさるおつもりですか?」
康政はむっとした表情で隋空に聞き返す。
「松平家の強さを知らしめるのが寛容です。ここは兵力を整え堂々と正面から攻めかかるべきでしょう。」
言われた康政は考え込んだ。それを見て家康は康政に兵力について聞く。
「どれほど整えられるか?」
「は…城内の兵二百と大久保殿、本多殿、酒井殿の兵を集めれば千ほどになるかと。」
康政は岡崎城の近くを領する家臣の名を挙げて答えた。家康は大きく頷く。
「では直ちに戦支度をせよ。儂が率いて成敗してくれるわ!」
家康の熱のこもった言葉に康政が感嘆の声をあげた。
「直ちに支度致しまする!」
「石川衆は留守居を命ずる。…与七郎にも言うておけ。」
「はは!」
こうして家康は久しぶりに甲冑を着込んだ。松平家康と酒井忠尚の戦が始まる。
奥平定能
今川家家臣。周辺の情勢に合わせて織田家、松平家、今川家と臣従先を変えている。桶狭間の戦いでは今川家の先鋒衆として松平元康と行動を共にしていたが、義元敗死を知って自領に引き籠る。形式上は今川家に属して三河の情勢を見守っている。
井伊直親
今川家家臣。遠江井伊谷の有力国人だったが桶狭間の戦いで当主直盛が討死してからは勢力を落としつつあった。今川家の支援によって勢力を維持していたが松平家との内通の疑いを掛けられ、その嫌疑を晴らすべく弁明のために駿河へ向かう途中で暗殺される。
酒井忠尚
松平家家臣?広忠の代に重臣として活躍するが、広忠死後は岡崎松平家とは距離を置いて今川家寄りに立っていた。松平家独立後は表面上は臣従していたが独立する機会を伺っている。




