第六十話:妹とコタツ
少しだけ。一緒の時間が欲しかった。
それはバイト先での何気ない会話がきっかけだった。
「――いや、それはおかしい」
バイト先の先輩である菅谷姿が、鷹のように鋭い目で言った。
「私はお前を何よりも知っている。だからこそ言える。お前、それは間違っているぞ」
「……っ」
思わず後退りする。足が震える。
常々気付いていた俺の中の欠落。欠乏。欠陥。
それはすごく曖昧で言葉にするのは難しく、計り知れないものだ。
だが、神より神じみた彼女――菅谷姿はそれを間違えることなく、言語化できる。
正当よりも正解を。正解よりも正道を。正道よりも正義を。
何よりも正しすぎる彼女だからこその常識が、俺の無知を砕く。
膝が崩れ落ちそうになった俺だが、菅谷姿は優しく肩を支えて抱き起す。
「大丈夫。まだ間に合うさ。欠落だろうと欠乏だろうと欠陥だろうと。私が全て救ってやる」
「……姿さん」
この日、俺は自分の中にあった空洞を、少しだけ埋めることができた。
***
「……兄ちゃん。何、これ?」
その日、バイト先から帰宅した俺は、真っ直ぐに大きな荷物を抱えて自室に向かった。
ちょうど風呂上りだったのだろう、髪が生乾きのままの妹がそんな俺を不思議そうに見る。
寝間着である白いパーカーにハーフパンツを身に着けた妹は、俺の部屋の中央に置かれた異物をまじまじと眺める。
「見て分からないか? コタツだ」
組み立てた四角の黒いテーブルに、ダークブルーの掛け布団を重ねる。
大人が四人で入るにはやや小さいが、一人や二人なら十分なサイズだろう。
「いや、それは分かってるんだけど。どうしたの、これ。ウチにコタツなんてなかったよね?」
「買ってきた。税抜き5980円だ」
「いや、値段はどうでもいいんだけど。……なんでコタツ?」
「人生の欠落を埋めるためだよ」
「……はい?」
そう言って、俺は今日のバイト先であった会話を思い出した。
『今日、めっちゃ寒いですよね」
『そうだな。姿さんは寒いの苦手だから、家にこもってコタツで温まりたいよ」
『コタツですか……。そういや、俺は生まれてこの方、一度もコタツに入ったことってないんですよね』
『……は? いやいや。それはおかしい。少年、君は日本人か?』
『いや、まあ。日本人ではありますが、けっこうコタツに入ったことないって人多いと思いますよ? 最近は暖房もエアコンで済ませる人もいますし、床暖房もありますから』
『……少年。君は決定的に、日本人の冬の心が欠落している。いいか? 日本の冬と言えば、コタツだ。そしてミカンだ。ついでに幼女だ。私の毎年の冬は、コタツに入りながらミカンを食べながら全裸の幼女の胸を揉むことを通例としている』
『最後のだけは嘘でしょう。……え? 嘘ですよね? 嘘と言ってくださいよ』
『もちろん嘘だよ』
『嘘くせぇ!』
『どっちなんだよ、君は。まあいい。とにかく、誰が何と言おうと、君がなんと言おうと冬と言えばコタツだ。だが、それを知らない君は欠陥品だと行って言い。人間失格ならぬ人間欠陥だ』
『……っ』
『――君の欠落、私が救ってやろう』
「……てなわけで。コタツを買ってきた」
「いや、意味わかんない」
きっぱりと切り捨てた妹。だが、完成したばかりのコタツに足を入れてテーブルに顔を突っ伏す姿に説得力はゼロだった。
「兄ちゃん。コタツ、寒い」
「まだスイッチ入れたばかりだからな。すぐ温まるよ」
「ふーん。……お、温かくなってきた。あー、これいいね」
目を閉じて全身にコタツの温かみを感じる妹。……いやいや。
「出ろよ」
「やだ」
「帰れよ」
「やだよ」
「部屋に戻れよ」
「やでござる」
ござるって。
すっかりコタツに居着いて動かなくなった妹を見下ろして、肩をすくめる。
「お前、受験生だろ。勉強はいいのかよ」
「ここでする」
「寝る場所は?」
「ここで寝る」
「俺と一緒だぞ?」
「致し方ない」
致し方あれよ。
「……はあ」
コタツは魔性の家具だ。人を堕落させ、やる気、根性、活力の全てを吸い取る。
だからこそ、多忙な両親はこれを使うことを避けたのだろう。
とはいえ、だ。
「……ふにゅう」
瞼を閉じてコタツに憑りつかれ、まどろむ猫のように一息吐く妹を見て、
「……ったく。俺も風呂に入ってくるから。出てくる頃には、自室に戻れよ」
「やーだ」
***
「……予感はしていたけど」
案の定というべきか。
風呂から上がった俺が自室に戻ると、このかはコタツに入ったまま身体を横にして眠っていた。
律儀に俺がよく使うクッションを枕にして、健やかな寝息を立てている。
「おい、このか。風邪ひくぞ」
肩をゆするが、「んんっ」と声を漏らすだけで起きる気配はない。
時計を見れば夜の十一時。まだ眠るには早い。
俺が寝る頃に起こして部屋に戻せばいいか……。
「……はあ」
俺は小さくため息を吐いて、妹の対面のコタツに入る。
「足、邪魔」
「んんー」
折り曲げていた足を少し退かせた俺は、コタツに入って課題で出ていた数学の問題集を開く。
このかの寝息を聞きながら数式を解いていると、不意に妹の手が俺の足に触れた。
見れば、このかはいつの間にか姿勢が変わってやや斜めに身体を傾けていた。
「寝相、わる……」
何かを探すように俺の足をさする彼女の手を退けるために、俺はコタツに左手を突っ込む。
「くすぐったいって」
このかの手に触れると、条件反射なのかぎゅっと俺の手を握り返してきた。
「……」
「……」
「お前――」
……いや、別にいいか。
どちらにせよ、誰かに見られることなんてないのだから。
俺はそのまま片手をコタツの中に入れたまま、ペンを走らせた。
「……コタツは誰だって魅了される、ねえ」
――ほんの少しだけのつもりだったんだけどな。
本編ってなんだっけ。




