第五十七話:妹と過去―中編―
信頼を失うのは一瞬、取り戻すのは一生。
では、信頼を得るのはどうすればいい?
それは、靴紐が解けていつか足下をすくわれて転ぶと同じ。
小さな歪みは、やがて大きな歪みへと変わっていく。
ある日。妹は膝を怪我して帰宅してきた。
聞けば、帰り道で転んだのだという。
女子とは言え、小学生だ。帰宅途中に鬼ごっこでもやって、焦って転ぶなんてことは、俺にもあった。
だからその時は、「ふうん」と聞き流した。
――だが、その翌日。
いつものように、俺の家で当然のように遊びに来ていた須王スミビが我が家同然の如きソファに寝転がってテレビを眺めていると。
珍しく俺達より帰宅が遅かった妹の「ただいま」という声に後ろを振り返る。
「お、遅かったね。このちー。何々、居残り掃除でもしてきたのかい?」
「……」
「このちー?」
キッチンで夕食の準備をしていた俺は、何事かと思いリビングのドアの方を向くと、そこには暗い表情を浮かべた妹が立っていた。
まるで感情をドブに捨てたような、太陽を黒く塗りつぶされたかのような表情に、俺が一歩近付こうとするよりも早く、スミビが妹を抱きしめた。
「どうしたー? 何か学校で嫌なことでもあったのかい?」
「……。なんでもないよ。スーちゃん。ちょっと、テストの点数が悪かっただけだよ。それより、ゲームしよ?」
「うん。じゃあ、今日は二人用のゲームでもしようか。パッチワークって知ってるかい?」
妹の暗い表情も一瞬で、スミビが抱きしめた後はいつもの妹の朗らかな顔に戻っていた。
夕食を終えると、いつものようにスミビは妹にアメを一つあげて、「それじゃあ、そろそろ帰るよ」と言った。
俺は「また明日な」と言って玄関先まで送りだそうとすると、腕を奪われて俺の耳元に囁いた。
「……ちょっと付き合えよ、親友」
「……。悪い。コンビニで牛乳買ってくるついでに、スミビを途中まで送ってくるわ」
「うん。分かった。またね、スーちゃん!」
妹は訝しむ様子も見せず小さく頷くと、とてとてとリビングに戻っていく。
それを見送ると、俺とスミビは顔を合わせて自宅を出た。
「……で、何か用か?」
自宅から少し離れた公園のベンチに移動した俺達は、自販機で買ったコーヒーを飲みながら口を開いた。
「用事なんて一つに決まっているだろう? 思うに、君の妹のことだよ」
「……何か?」
「君だって気付いているんだろう?」
「だから、何を」
「……はあ。彼女のランドセル、少し傷が付いていた。昨日はなかった傷だ。それも刃物による切り傷だよ」
「……」
「ここまで言って分からないのかい? このちーは、イジメ――」
「――知ってるよ。だから?」
俺の毅然とした態度に、目を丸くしたスミビは、小さく舌打ちをして言う。
「っ。だったら。なんでそれを無視するんだい? 彼女は君の妹だろう?」
「ああ。そうだよ。妹だ」
「見過ごすのかい? 彼女の今の状況を。無視するのかい? 彼女の今の危機を」
「……あいつは、認めないよ」
俺は手の中の缶コーヒーに視線を落とす。
「イジメは弱いモノがされることを知っている。何か自分に劣っている、欠損しているからイジメられるということを知っている。それを他人に助けを求めるのは、逃げることだといことを知っている」
「逃げて何が悪い? 逃げることで助かるなら、そうするべきだ」
「……逆に聞くが。スミビ。お前は逃げられるか?」
「……なに?」
視線を上げて隣の銀髪の少女を見つめる。
「その容姿と性格で、他人から敬遠されていたお前だって。髪を黒く染めて、今時のアホ丸出しの頭脳に切り替えて、『マジやばい』『それな』で会話が完結できる人間になれば、俺が話しかけなくてもクラスには溶け込めた。だけど、お前はそうしなかった。なんでだ?」
「……それは」
「そうまでして、自分を偽りたくなかったからだろ?」
「……っ。だけど、それとこれとは別だろう?」
「同じだよ」
「違う」
「同じだ」
「違うよ。だって、このちーは。私より強くはないから」
強いとか、弱いとかの話じゃないと思うんだけどな。
だけど、彼女にそれを言ったところで理解はされないだろう。
須王スミビという人間は、個が強く、意思が固く、それでいて人生に柔軟だ。
妹は真逆。個が弱く、意思が脆く、人生に不器用だ。
それでも、妹は自分を捨てないし、諦めない。そこに強さはない。あるのは、自分だ。
自分をなくせば、きっと何もかも終わってしまう。それが怖くて、そっちの方が怖くて、恐ろしくて、逃げ出せないだけだ。
「私はこのちーが好きだよ。だから、このちーを虐める人間は絶対に許さない。社会的に抹殺してあげる」
そう言ってベンチから立ち上がったスミビは、コーヒーを一気飲みして、ゴミ箱に捨てた。
「社会的に抹殺って……。何をするつもりだよ」
「今時、何でもできるよ。君が兄として何もやらないなら、そこで指をくわえて見ていればいいよ。だけど、君が兄として何もしないのであれば、君と私の関係も、これで終わりだろうね」
暗闇に銀色の髪をなびかせて公園から立ち去ろうとする彼女の背中に向かって、俺は気だるげに声を投げる。
「なあ、スミビ。お前、本当に俺のことが好きなのか?」
「好きだよ。何もしない君も好きだけど。壊れかけている君がいよいよ壊れてしまったら、好きになり続けられる自信はないってだけさ」
「……あっそ」
兄として俺ができること、か。
俺は少しだけ考えた後、引きずるようにして妹のいる自宅に戻った。
***
「おかえり、兄ちゃん」
「ただいま」
帰宅した俺は、リビングで膝を抱えるようにしてソファに座ってテレビを見ていた妹の隣に座った。
「……なに?」
「……聞いても、お前は認めないだろうな」
「ん?」
「お前、イジメられてんの?」
ポトリと。妹の手からテレビのリモコンが落ちる。
「なに、言って……」
「ああ。分かってる。別に、根掘り葉掘り聞く気もない。俺が一方的に質問するだけだ」
「……」
「質問1。相手は同級生か? それとも上級生か? はたまた担任とかの教師か?」
「……」
妹は無言でリモコンを拾って、テレビのチャンネルを切り替える。
「質問2。そいつは男か? 女か?」
「……」
妹は答えない。肯定も否定もしない。
「質問3。お前をイジメているのは、個人か? 集団か?」
「……」
妹は認めない。無視を続ける。
「……なるほどな。最後の質問だ。俺の助けはいるか?」
「いらない」
即答だった。
「そうか」
俺は小さな妹の頭を一度だけ撫でて、自室に向かった。
――今思えば、この日こそ。俺が決定的に壊れた日なのかもしれない。
あるいは、須王スミビに出会ったことを、一生後悔した日だったのかもしれない。
その日の夜は、驚くほどぐっすりと眠れたのだけは、未だに覚えている。
更新頻度を上げたいのですが、一気に書くと終わっちゃいそうで、のろのろと書いてます。
自由気ままに続けますので、それで良いならどうぞ。




