第五十六話:妹と兄の過去話
見方を変えたところで、味方は変わらない。
これはカノジョとの会話の一片だ。
「思うに、私はね。休日に映画を一日中見られるというのは、ありふれた幸福なのだと思うのだけれど。だけどしかし。その幸福は、限りなく天文学的に低い確率で成り立っていると思うんだよ」
――思うに。
これはカノジョの口癖だ。
棒付きのロリポップキャンディを舐めながら続ける。
「だって考えてもみてごらんよ。まず、映画を見るための知性が必要だ。それに映画に対する好奇心と知識も。それと、一日映画を見るための時間の余裕、映画を見るためのお金、環境、一日映画を見ていても誰にも咎められない空間。それとポップコーンとコーラが必要だろ?」
最後のは必要十分だと思うのだけれど、話の腰を折るのも躊躇われたので言わなかった。
「色んな条件が重なって、その幸福が成り立っている。これは確率にしてみれば、とてつもなく低いことになるだろう? 思うに、私はこの世の中の全ての幸福は儚いと思うんだよ」
確率論を追及すれば、キリがないことは知っている。
俺も、そしてカノジョも。
だからこそ、カノジョが言いたいことはきっとそうではないのだろう。
本質は別にある。
そして、俺に本当に告げたいことも。
「ねえ、相棒君。つまりはね。あなたと私が恋人になったのも、思うにとても低い確率から成り立っているんだよ。それを知っていて欲しい」
カノジョは、腰まで届くほど長い銀色の髪を肩の辺りで掴んだ。
彼女が俺のカノジョである一つのポリシー。
付き合い始めた頃に言った、彼女の約束。
――相棒君。あなたと私が付き合っている間は、私の髪の毛はあなたに切ってもらいたい。あなたの手で、私を変えて欲しい。
「思うに。私は一度だってあの子に勝てたことはなかったのかもしれない。あるいは、私はただのきっかけだったのかもしれない。それでも、私はあなたが好きだよ。多分、ずっと。永遠に。死ぬまで。死んでも、来世でも。だからね」
彼女の右手には、文具のハサミが握られていた。
俺のではない。彼女のでもない。
それでは、誰のだろう?
俺はふとそんなどうでもいいことを考える。
ジャキンと。
鈍い音で、おざなりな音で、枯れた音で、崩れた音で、不気味な音で、破滅の音で。
長い銀色の髪を、まるでクモの糸を裂くように切り捨てるのを、眺める。
「別れよう。私が思うに。君の愛は、屈折しすぎている」
そう言って、《スーちゃん》――須王スミビは、口に含んでいた棒付きのロリポップをかみ砕いた。
***
建前をなくせば、人間関係は崩壊するとは、誰の言葉だっただろう。
前兆をなくせば、人間の理性が崩壊するとは、誰の言葉だっただろう。
遠慮をなくせば、人間の感情が崩壊するとは、誰の言葉だっただろう。
思い出せないけど、きっと誰の言葉でもいい。
当たり前のことを、当たり前のように言っただけで、誰が言ったかどうかなんて関係ないから。
それでも、きっと目の前の生意気な後輩である彼女には必要な意味だろう。
「そういえば、兄先輩って中学時代に何かあったんですか?」
12月。
世間で言うところの恋人たちのお祭りであるクリスマスが1週間前に迫った平日。
冬休み前の期末テストの勉強のために、アホの擬人化である俺の親友、七神直人と学校帰りにファミレスに立ち寄ると。
たまたま、女子会をしていたという妹たちと出くわした。
正確には、俺の妹、その同級生である加賀美・カトリーヌ・カグヤ。
そして。妹の後輩であり、俺の天敵。絶対絶命ガール、久々野空子である。
「……。あのさ、久々野ちゃん。わざわざ離れた席に座ったのに、なんでこっちの席に移ってくるのかとか、俺の頼んだパスタを勝手に食べてるんだとか、地獄を具現化したような見るからに飲んだらヤバそうなミックスドリンクをどうするのかとか、いろいろと突っ込みたいことはあるんだけど」
何よりも優先すべき事項を言った。
対面に座っていた俺と七神は、妹達に押し込まれて、俺と七神が同じ席に座り、対面に中学生組が座った。
「マジで。テスト勉強しないと、こいつの冬休みが終わるんだよ」
始まる前に終わる。終わる前に終わっている。終わりがないほどに終わっている。
七神は親の仇を眺めるような目で、正面の久々野ちゃんを睨んだ。
「そうだ! 俺は今からこいつがヤマを張ったところを頭に叩き込んで、赤点を避けないといけねえんだよ! 今回も赤点だったら、俺の冬休みの課題がマックスハートで増やされちまうんだよ! だから、ほら、チューボーはどっか行け!」
「まあまあ。そこのアホが赤点を取って、冬休みの宿題を増やされたところで、私や兄先輩には関係ないじゃないですか」
「んだとーっ!? ……まあ、関係ないか。うん、そうだな。確かに!」
「アホですね」
「アホだろ」
納得するなよ。毒舌を吐いた久々野ちゃんですら、若干の不憫さを感じ始めている。
「いやいや、久々野ちゃん。でもさ。やっぱ友達が崖に捕まっていたら、手を差し伸ばすだろ? 落ちても俺達には関係ないとは言うけど、それじゃあ目覚めが悪い」
「兄先輩……。優しいですね。私だったら、迷わず崖に突き落としますけど。地球上から二酸化炭素が減る量が少なりますし」
「二酸化炭素が減ったら、地球温暖化も落ち着くもんな!」
「……アホですね」
「……アホだろ」
可哀そうになるくらいのアホだった。
「まあ、それはそれとして。私は中学時代の兄先輩のことを知りたいんですよ」
好奇心に正直な子だった。流石、久々野ちゃん。自分と愛する人以外への遠慮というものがない。
というか、俺にさえ遠慮はない。
「……久々野ちゃんの辞書に脈絡の文字がないことは知っているけどさ。それにしたって……」
どういう気分の変化だろうか。
いつもなら、少しだけ遠回りしてくるものだけど。
今回はストレートもストレート。直接にして直近にして近道してやってきた。
俺はチラリと対面に座る妹を見る。
「なに、兄ちゃん」
「……いや」
妹は何も言わない。
本来ならば、後輩である久々野ちゃんを止めるのはこいつの役目だ。
中学時代の話……ともなれば、こいつも無関係ではない。
いや、無関係の話をすればいいのだけれど、久々野ちゃんが求めているのは、そういう話ではないのだろう。
根本にして、根幹。
俺と妹のことを、久々野ちゃんは知りたがっている。
「清算ですよ」久々野ちゃんは言った。
「今年も終わるじゃないですか。そして来週にはクリスマスです。聞きたいことは、今年中に聞いておこうかと思って。私、やり残したことがあったっていうのが一番嫌いなんです。だから、清算です」
「誰の?」
「兄先輩の」
俺のかよ。
まあ、あってるけど。
「……」
俺は一口だけドリンクバーのジュースを口に含む。
清算、ね。
「まあ、いいよ。別に隠すことでもないし」
「ほんとですか! やった! 兄先輩の中学時代の性癖が知れる! ひゃっほう!」
「いや、それは話さないけど。っていうか、久々野ちゃんが知りたかったことってそれかよ」
「こいつ、中学時代はシャツの下に着た水着が好きだったよ。なんか、濡れて透ける水着はただの水着と違ってエロいって言ってた」
まさかの隣の親友からの暴露だった。
「……へー」
妹からは冷たい視線。寒いのは、冬だからではないはずだ。
「あー」
通路側に座る加賀美ちゃんは、何故か納得したように頷いていた。
案外、彼女とは熱い握手が交わせるかもしない。
「じゃあ、それは今度、このか先輩に着てもらうとして――」
「着ないけど」
「またまた」
「気が向いたらね」
着るのかよ。妹の手のひら返しが早すぎる。
「それはそうとして、兄先輩の中学時代の話、聞かせてくださいよ」
「それ、私も聞いてもいい?」
ふと、通路側から声がしてそちらに視線を向ける。
「やっほ、兄君。それと、妹ちゃん達」
ドリンクバーのコップ片手に、笹倉桜が立っていた。
まるで、最初からそこにいたかのように。ごく自然に、風景に溶け込んでいた。
「えっと。確か、兄先輩のカノジョさんでしたっけ。来週、別れる予定の」
久々野ちゃんが小首を傾げながら、笹倉さんを見上げる。
「いや、なんで破局を予言してるんだよ。別れねえよ」
「そうだよ。だって、まだ私、兄君とエッチしてないもん。だから、多分クリスマスにすると思う。初体験デビュー」
指でVの字を作る笹倉さん。
「……いや。流石にそれは分かんないけど」
そもそもクリスマスの予定も未定だし。
ごすっと、右わき腹に七神の肘が当たった。ぐりぐりとねじ込むように突いてくる。
「……しね」
親友の嫉妬は中々に痛かった。
と、同時に。
「……」
げしっと、対面の妹の足らしきものが俺の足を踏んだ。がしがしと、何度も叩くように踏んでくる。
「……」
これはなんだろう、する時は私も呼んでねってアピールだろうか。
撮影係でも買って出てくれたのだろうか。流石に映像に残す趣味はないので、混ざりたい時だけ呼ぶようにしよう。
きっと、呼ぶことはないだろうけど。
「というわけで、どーん」
七神の隣に押し込むように無理やり座った笹倉さんは、「あ、気にしないでね」と手を振った。
「私もたまたまファミレスでクラスメイトと勉強しに来ただけだから」
「そのクラスメイトを放置していいんですか? 兄先輩のカノジョさん」
「うん。崖から落ちかけているのを後で知るくらいが、ちょうどいいと思うんだ。訃報は寝て待てって言うでしょ?」
「あー、言うな」
「言わない」
納得した七神に突っ込む。
「なるほど。崖の下りから聞いていたわけですか。中々気配を消すのがお得意のようで。私達、友達になれそうですね」
「無理だと思う。私、兄君の迷惑になる子って、全員嫌いだから」
「なるほど。友達になれそうですね」
「くーちゃん。ちょっと黙ってね」
加賀美ちゃんがポンと久々野ちゃんの肩を叩くと、ビクンと怯えたように小さくなった。
……加賀美ちゃん、か。この子はなんだかつかみどころがないっていうか。
「それじゃ。続けていいよ、このかのお兄さん」
「あ、ああ」
この子はまた別格の存在だ。菅谷姿とはまたベクトルの違う。異質の存在。
本来、俺とは邂逅すべきではない、人生で交差することのない、存在。
全員の視線が集まる中、俺は小さく息を吐いた。
別になんてことはない。
聞かれたら話すし、聞かれなかったら話すことでもない。
当時、それなりに話題になったから、知ってる奴は知ってるし。
知らない奴は、「ふーん」で興味をすぐになくす程度のありふれた話題だ。
ただの中学生の英雄譚。
壊れた中学生の悲劇と喜劇。
いつもと変わらない。
例えるなら、おやつに取っておいたプリンを食べられたみたいな。
例えるなら、対戦ゲームで負けてしまった時みたいな。
例えるなら、朝のトイレが長くてイライラしてしまったみたいな。
そんな、ありていの。
よくある兄と妹が仲が悪くなったきっかけ。
俺と妹が互いを意識し始めた、一つの些細なきっかけを。
俺はつまらなそうに話すことにした。
「思うに、私は裸よりもはだけた浴衣にこそエロさがあると思う。ようはエロとは足し引きではなく、かけ算なんだよ。ただの性欲ではなく、ロマンを求めるからこそのエロだ。つまり、思うにそう考えるとなれば、世の中の男がロリに興奮するのは性欲ではないと思うんだ。なぜなら、本来ならば女性的である巨乳に焦がれるのは性欲であり、ロリに求めるのはロマンでありエロではないかと思うんだけど、相棒君はどう思う?」
「興味深いな。よし、その辺の話をもっと語ろう」




