第五十五話:女心と新しい服
愛を知らない者ほど、愛を語りたがる。
年の瀬が迫った12月の月初め。
俺の通う高校はそこそこの進学校なので、最上級生の受験モードに、学校全体がどこか緊張した雰囲気が漂い始めていた。
そんな静電気のようなピリついた空気に当てられてか、いつからか二年生の俺達も、休み時間の話題は決まって進路のことで持ち切りになっていた。
「お前、受験はどうするんの?」「俺は就職かなー。勉強したくねーし」「私は絶対専門! 美容師になるんだー」
熱く夢を語る者。冷たく現実を悟る者。無計画に自分を見ない者。
昼休みの喧噪は、どこかファンタジーじみた現実から、現実じみたファンタジーへと移り変わっていた。
千差万別に中途半端に成長した同級生の人生語りから逃げるように、俺は早々に昼食を済ませて、席を立つ。
「――えーっ、お前じゃ国立は無理だって! おん? どこに行くんだ?」
話の途中で輪から抜け出そうとした俺に気付いたクラスメイトが、首を傾げて言う。
「ああ。ちょっと飲み物買いに」
「おー、じゃあ、俺の分も頼むわ。コーラよろしくー」
コインを受け取って、俺は教室から出てロータリーにある自販機に向かう。
「進路、ねえ」
未来を語ることは素晴らしい。だけど、どうも俺はそれに同調するのは苦手らしい。
いつものように、上辺だけの会話と関係を装えばいいのだが、どうにもこの手の話題には感情が出てしまう。
「……眩しいのかな。それとも……」
嫉妬、なのだろうか。
「あれ、兄君だー。どしたの、こんなところで?」
自販機のあるロータリーに着くと、そこにはポニーテールの女子生徒がいた。
笹倉桜。
サッカー部のマネージャーで、誰とでも隔てなく接する天真爛漫な優等生。
そして……俺のカノジョでもある。
「ちょっと飲み物を買いに来てね」
「そっか。うん、そうだよね。自販機の前で、飲み物を買う以外ないもんね。もしくは季節やメーカーごとの自販機の写真を集める、自販機マニアくらいかな。あ、もしかして、兄君自販機マニアの人!?」
「いや、勝手に俺を変なマニアにしないでくれ。っていうか、変なマニアっていうなら――」
俺は彼女が手に持っている飲み掛けの飲み物を指さす。
「笹倉さんの方が、マニアックだと思うぞ」
《本絞りナマコジュース》とブラックコーヒーより黒いパッケージに白文字で書かれたペットボトルに口付ける笹倉さんは、可愛らしく小首を傾げた。
「え、これ結構美味しいんだよ? なんていうか、海の味を感じるー的な。多分、海水より海を感じれると思うよ」
どうしてそこまで海を感じたいのかは知らないけど、彼女が満足しているならいいか。……いいのか?
「……じー」
「なに?」
ジュースから口を離した笹倉さんが、俺を半眼で見つめる。可愛い。じゃなくて。
「ふふっ。教室の空気に耐えられなくて、逃げ出してきたって顔してる」
「……」
ドンピシャだった。そんなに分かりやすい顔をしていただろうか、俺。
「分かるよ。私も同じだもん。中学の時もそうだった。進路なんてクソくらえだーって毎日思ったから」
「……へえ。てっきり、すぱっと決めそうな感じだけど。ギリギリまで悩む方?」
「んー。というか、中学の時は進路どころじゃなかったって感じかな。精神的にも、家庭的にも」
「ふーん」
「興味なさそうだね」
「うん」
「あはは。はっきり言うんだね。うん、そういうとこ、好き。大好き」
付き合ってから、笹倉さんは俺への好意をオープンに伝えるようになっていた。
俺の親友にして、笹倉さんと同じサッカー部の七神直人が言うには、元から積極的に好意を示していたようだが、俺が関心を持っていなかったので記憶にないだけらしい。
なんなら、肩車やお姫様抱っこまでしていたと。……何があったらそんなことになるのか知らないけど、よくまあ俺もそんなビッグイベントを忘れられると感心する。
「カノジョの過去とか気にするのが普通だと思うけど、兄君は気にしないんだね」
「女の過去を気にするほど、男の器が小さくなるって言ってたぞ」
「誰が?」
「バイト先の先輩」
「へー。カッコいいね」
「変態だけどな」
そう呟くと、背中から冷たい汗が流れた。
噂話をすると、くしゃみが出ると言うが、菅谷姿の噂話をすると殺気を感じるらしい。
もしくは、盗聴器が何かでこの会話を聞いているのかもしれない。あの人ならやりかねない。
「私は、気になるけどな」
「……何が?」
ジュースを飲み終えた笹倉さんは、空いたペットボトルをゴミ箱に捨てる。
「兄君の過去。中学時代に何があったのか」
「……。大体のことは、知ってるんじゃなかったっけ?」
「うん。七神君から聞いた程度だけど。でも、七神君も絶対に言わなかったことが一つだけあるんだ」
「聞きたい?」
「……やっぱりいいや。楽しい話じゃなさそうだしね」
どうだろう。今なら笑い話にできそうな気もするけど。
元から喜劇から始まった話だ。誰かの観点からすれば悲劇かもしれないが、当事者からすれば喜劇以外の何ものでもない。
別に秘密にしているわけでも、隠そうとしているわけでもない。
ただ、何となく。誰も聞いてこないだけで、俺も自分から言わないだけで成り立っている。
徳川埋蔵金みたいだな、とさえ思っている。埋まってる場所は分かってるのに、掘っちゃダメみたいな。
流石にスケールの違いはあるけど。
「それはそうと、兄君。私ね、新しい服、買ったんだ」
話を変えるように、笹倉さんが言った。
……えーっと、俺はなんて答えればいいのだろうか。
なんだか期待しているような目をしているし、何か気の利いたことを言えばいいのだろうけど、どうにも俺にはその類のセンスは皆無だ。
言葉に詰まっていると、《世界は私の仕事で出来ている》こと、俺の脳内の菅谷姿が現れて言う。
『なんだ少年。こんなことでウジウジ考えるな。女が服をアピールする時はこう言えばいいんだ。――今夜俺のベッドの上でその服を脱がさせて欲しい――ってな!』
変態だった。
いや、俺の脳内の姿さんがそうだっただけで、現実の本人がそういうわけでは……いや、言いそうだな!
頭を振っていると、俺の脳内に《全人類アホ代表》こと七神直人が現れて言った。
『新しい服、いいな! 今度俺にも着させてくれよ!』
アホだった。
いや、流石に女装癖はないんだろうけど、俺が新しい服を買うと、いつも「へー、これいいな。なあなあ、俺にも似合いそうだからちょっと着てもいい?」と勝手に試着するから強く記憶に残っているのだろう。
まともな奴はいないのかと目頭を押さえていると、《食用のパンツが欲しい》こと妹の後輩、久々野空子が脳内に現れて言った。
『ウンニャラダンスを踊りましょう! ぬるへへへっふっほーっ!』
異次元だった。
いや、もう少し人間らしい会話が出来たと思ったけど、どうやら俺の脳内の久々野ちゃんはこれらしい。哀れだ。
仕方ない、俺の周囲の人間で代弁は出来なさそうなので、残念ながら自分の言葉でなるべく当たり障りのないことを言おうとしていると。
脳内にいる妹が現れて、つまらなそうに言った。
『兄ちゃん。女の子はね、デートする前に新しい服を買うのが常識なんだよ』
……。
「ん? どうしたの、兄君? ずっと黙ってるけど?」
「……あ、いや。なんでもない。そっか、新しい服か」
「うん。可愛いの。モコモコしてるんだ」
「じゃあ、明日は土曜日だし、どっか買い物でも行く?」
「え、いいの!? うん、行く行く! やった、デートだっ!」
正解だった。すげーな、俺の脳内の妹。
『いいってことよブラザー。今夜は飛び切り熱いキッスで、祝福しようや』
脳内の妹が、コーヒーシガレットを咥えて笑う。あ、バグった。仕方ない、全部リセットしよう。
ブルブルと頭を振って、脳内の知人人格をデリートする。
ぎゅっと俺の両手を握った笹倉さんが、俺を見上げて微笑む。
「じゃあ、明日ね。絶対だよ。うわー、何着ていこうかな。兄君と付き合ってからの初デートだもんなー」
「新しい服を着ればいいんじゃない?」
「やっぱり最後はホテル行くだろうし。よし、新しい下着も買っちゃおう。脱がせやすいように、パンツは紐のやつにして……」
「いや、ホテルになんか行かないから。っていうか、その決意を俺に聞かせるのはギリギリアウトじゃないか?」
「よし。今晩は念入りに剃っておこう」
どこを、とは流石に言わなかった。
それから昼休み終了の予冷が鳴るまで、笹倉さんは俺が聞いているにも気付かずに、ずっと自分の世界に入ってデートのシミュレーションを語るのだった。
***
「ただいまー」
「おかえり」
その日の晩。久しぶりに妹より早く帰宅した俺は、リビングでゆっくりと本を読んでいると、妹が紙袋を持って帰宅した。
「遅かったな」
「うん、ちょっとね。駅前に新しい洋服屋さんが出来たって聞いたから、友達と行ってきたの」
「余裕だな、受験生」
「たまには遊ばないと、やってられないからね」
受験ノイローゼとは無関係な妹は、鼻歌混じりに買ってきた服が入っているだろう紙袋を俺の座るソファの横に置いて、キッチンに向かう。
無言で紙袋に視線を送っていると、キッチンで冷蔵庫から牛乳を取り出して飲むこのかが意地悪そうに言う。
「なに、兄ちゃん。私の買ってきた服、興味あるの?」
「まあな」
「……」
一瞬だけ大きく見開いたこのかが、「ふーん」と小さく頷く。
「……ま、見せないけどね。兄ちゃんには、絶対」
「あっそ」
「……」
その後、風呂から上がったこのかは、いつもの部屋着とは違う、見慣れない猫耳パーカーを着ていたけど。
俺は何も言わなかった。
今年最後の更新です。
自由なままに執筆し、奔放なままに続けてきました。
来年もよろしくお願い致します。
よいお年を。
正月は特別短編を投稿予定です。




