第五十二話:妹の後輩とおっぱい
さあ、語ろう。
久々野空子という少女は、一言で表せば壊れたラジオである。
首元で二つに結んだ長髪と大きな瞳が特徴的な可愛らしい顔立ちは、どこか小動物を思わせる。
天真爛漫にして天衣無縫の性格は、誰を相手にしてもきっとその態度は変わらない。
妹の後輩にして、俺にとって天敵とも言える人物。
女子中学生特有のマシンガントークに、根も葉もない噂をあたかも真実のように吹聴する道化。
話題が伏線も躊躇いもなく、瞬時に切り替わる。
天気の話をしていたと思っていたら、マッコウクジラのうんちくの話になり、最新のゲームソフトの面白さに変わり、やがて最近出た一番でかいウンコの話に終着する。
チャンネルが忙しく移り変わるより速く、切り替わるその様はまさに。
――壊れたラジオである。
「――そんなわけで、兄先輩。どうしたらおっぱいって気持ちよく揉めるんですかね?」
そんなわけも、こんなわけも、どんなわけでもなく。
秋の紅葉の匂いが強く感じる十月の中旬。
北海道から帰宅して三日が経った土曜日の昼に、俺は久々野ちゃんから呼び出しを受けていた。
『兄先輩! 緊急事態で相談があります!』
と、昨晩に電話が久々野ちゃんから来た俺は、可愛い後輩のためだと思い、もちろん二つ返事で断った。
『やだ』
『そこを何とか! 今度兄先輩のお尻の穴の写真を撮ってあげますから!』
『なんでそれで俺が喜ぶと思ってるんだよ』
『え、じゃあ……私のお尻の穴ですか? いいですけど、変態ですね、兄先輩』
『お前にだけは言われたくないわ』
『もう! しち面倒くせー問答は嫌なので、明日の十二時に駅前のカフェに来てください! 来なかったら私、死にます』
『……分かったよ』
『やったーっ! 絶対ですよ!? ふぅーっ! 嬉しすぎて死にそう!』
『結局死ぬのかよ』
そんなやり取りがあった約束の日。つまりは、今日。
俺は台風でも接近しないかと願ったが残念ながらの秋晴れの快晴に恵まれてしまったので、仕方なく二度寝からの三度寝を繰り返し。
俺は久々野ちゃんと合流をした。
そして注文をして席に着いて開口一番がこれである。
「……帰る」
俺は持ち帰り用にしてもらったホットコーヒーのカップを掴むと、席を立とうとして腕首を掴まれた。
「なんで帰るんですか!? 私の悩み相談は!?」
「ブタにでも食わせちまえ」
「ひどっ!? っていうか、お持ち帰り用の容器にしてもらったのはこのためですか! 注文した時に変だなー、おかしいなーと思ったんですよ!」
わーきゃーと騒ぐのが流石に他の客の迷惑になると思い、仕方なく俺は浮かせた腰を戻した。
「分かったよ。聞く、聞いてやる。……で? なんだっけ?」
「え、いやだから。どうしたらおっぱいって気持ちよく揉めるんですかね?」
聞き間違いじゃなかった。
俺はカップのコーヒーを一口含み、眉字を寄せて正面に座る久々野ちゃんを見る。
「……あのさ。もうちょっとマシな相談はないの?」
「え? 気持ちよくおっぱいを揉むコツのこと以外に、マシな相談ってあるんですか?」
「あるだろ」
「ないです」
言い切りやがった。
「っていうか、兄先輩。ひどいじゃないですかー。北海道に行っていた間、私、毎日メッセージ送りましたよね? それなのに毎回既読スルーで。ホント、私じゃなかったらぶち切れですよ?」
「既読してやっただけありがたいと思えよ」
久々野ちゃんからは確かに毎日のようにメッセージが来た。
だが、その内容は思い返すのもくだらないことばかりなので、出来れば記憶メモリから消し去っても支障がないくらいのものなのだが、あえて列挙するとすれば。
『連絡ください』『変な形の雲を見つけました』『無視しないでください』『トノサマバッタってまずいですね』『このか先輩の寝顔の写メが欲しい』『生理終わりました。やっふー』
……最後は俺に伝えることだろうか。家族である妹も俺に言ったことがないぞ。言って貰っても困るけど。
「……ぶー。まあ、その件はもういいです。トイレの水に流しましょう」
普通の水に流せよ。
「そんなことより、今はエマージェンシーでこっちの悩みの方が大切なんです!」
「……チョコレート抹茶ラテを笑顔で食べながら言っても説得力が皆無だけどな」
久々野ちゃんの口元に付いた抹茶ホイップを紙ナプキンで拭いてやると、くすぐったそうに「むひひ」と笑う。キモいな、こいつ。
「っていうか、エマージェンシーってなんだよ。今度、保健のテストでおっぱいの揉み方のテストでもするのか?」
「そんなわけないじゃないですか。完全にプライベートの話ですよ。私の愛の証明につながる話です。女同士なので身体で繋がることは出来ませんが」
最低な下ネタだった。
「愛の証明ねえ? なんだよ、女子中学生のくせに倦怠期とか?」
「いえいえ。キティ先輩とはもうラブラブですよ。受験勉強をする先輩を眺めながらお股を濡らすくらいには、ラブラブです」
……それはラブラブなのか? よく分からない。
「まあ、ラブ度は大丈夫なんですが、身体の関係というか。兄先輩が知っている通り、私、夏休みにキティ先輩と初体験をしたじゃないですか」
「いや、当然のように言われても初耳なんだが」
「え? 嘘。なんで知らないの?」
「タメ語になるくらい、何故そんな驚く」
「え、そま? やばたにえんなんだけど。うわー、メンブレだわー。マジ卍、生類あわれみの令ですよ」
「今さら女子中学生を思い出したかのように若者言葉を使うなよ」
しかも微妙に古いぞ。
「ごほん。失礼、取り乱しました。社会史の一般常識だと思っていたので、つい」
「妹の後輩が恋人とセックスしたかどうかを、本能寺の変や鎌倉幕府の開府と並べるな」
「照れますね」
「褒めてねーよ」
会話が成立しない。というか、成立しないようにしている気がしてならない。
久々野ちゃんは「むーっ」と唇を尖らせて、「じゃあ、改めて」と何を改めるのかは知らないけど、背筋を伸ばした。
「私、初めてした時から一度もキティ先輩とヤれてないんです。だから、キティ先輩をその気にさせるために、気持ちいいおっぱいの揉み方を教わりたいんです」
やっと本題がスタートした。出来ればスタートしたくはなかったけど、終わりそうになかったのである意味良かったと思う。……思うことにしよう。
俺は溜め息混じりに肩をすくめる。
「経緯は分かった。でも、なんで俺なんだ? 胸の気持ちいいかどうかは、揉まれる側……女子の方が分かるんじゃないのか?」
「いやー、自分で揉む時と揉まれる時で気分というものが違ったりして。ほら、自分で耳かきするより、他人にされる方が気持ちいいじゃないですか?」
「……あー」
俺は自分でしかしたことがないから分からないけど。妹が耳かきを俺にされる時はすごく気持ちよさそうな顔をしているな。
「それと同じで、揉む側にもちゃんとした揉むテクニックがあると思いまして。それで兄先輩にご教授願おうと」
久々野ちゃんは空中で両手をわきわきとさせる。うーん、黙っていたら可愛いんだけど。
いや、黙っていても変態だからどちらにせよ、残念な子だな。
「いや、そう言われても……。俺もそんな経験あるわけじゃないし」
「えーっ!? 兄先輩、このか先輩のおっぱい、揉んでないんですか!?」
「揉むわけないだろ、妹のおっぱいを!」
つい大声で反論してしまった。
ちらっとこちらを見る視線があったが、すぐに逸らしてくれた。多分、冗談か何かだと思ったんだろう。
「え、じゃあ、何しに北海道に行ってたんですか?」
「葬式だよ。妹のおっぱいを揉むために北海道に行くって、どんな発想だよ」
「でもでも、お葬式が終わってから、二日くらいこのか先輩と二人で旅行してたんですよね? で、泊まる場所も一緒だったわけで」
「……まあ」
「それで、何もなかったんですか?」
「なかったよ」
「ほんとに?」
「ああ」
「……。ま、いいです。えー、じゃあ、このか先輩ストレス溜まりまくりですね」
「……は?」
ストレス? 何のことだ?
「いや、だって。キティ先輩達って受験じゃないですか。だから毎日勉強していて、多分けっこうストレス溜まってると思うんですよ。部活もなくなっちゃって、身体もなまっていそうですし」
そう言えば、妹も加賀美ちゃんも運動部だったっけ。
俺が高校受験をする時には、とっくに部活から離れていたからそういう身体を動かしたい衝動みたいなのはなかったけど。
つい最近まで運動部で汗を流して、急に勉強漬けになると、確かに久々野ちゃんの言う通り、そういうこともあるのかもしれない。
「それで、一番のストレス発散って運動じゃないですか。で、ついでに気持ちよくなれれば一石二鳥ですし。だから、揉もうかと」
「その連想はおかしいけど、筋は通ってるな。……んー。でも、加賀美ちゃんって、揉むほどあるのか?」
妹の同級生の裸体を想像するのは、流石に気持ち悪いけど、確か加賀美ちゃんは小学生と見間違えるくらいの幼児体型だ。
ペターンやストーンと言った擬音が似合いそうな胸部を思い浮かべると、「あー」と何故か久々野ちゃんが目を閉じて渋めに頷いた。
「そうなんですよ。私も大きい方じゃないですけど、キティ先輩は無ですからね。壁です。あれはあれでいいんですけど」
「じゃあ、揉むよりも撫でる方が気持ちいいんじゃないか?」
「撫でる? 胸を?」
「フェザータッチっていうかな。こう、指先で細かく触れるんだよ」
俺はカップのコーヒーに優しく触れる。
「ほほう。それって気持ちいいんですか?」
「さあな。でも、揉めないならこうすると良いと思う」
「……それは、兄先輩の経験談ですか?」
「さあな。ただの雑学かもしれないぞ」
「……ふーむ。ちょっと試してみます。ありがとうございます。有意義な悩み相談でしたね」
「最低な悩み相談だったと思うぞ」
……にしても、ストレスか。
妹も結構溜まっているんだろうか。
俺と久々野ちゃんはカフェから出て、駅前通りを歩いていた。
「お土産にケーキですか。兄先輩もこのか先輩には甘いですね。ケーキだけに!」
「くだらないこと言ってると、奢らないぞ」
久々野ちゃんが最近クラスで話題になっているという洋菓子店に案内してくれた。
そこで俺はチーズケーキとモンブランを、久々野ちゃんへのお礼にショートケーキを買った。
洋菓子店の自動ドアを抜けると、すれ違い様に高校生ぐらいの女性客が入ってきた。
目を引くくらいに長い銀色の髪をしていた。
「……」
「兄先輩? どうしたんですか? 別にこの時代、銀色の髪なんて珍しくもないでしょ? 私は初めて見ましたが」
「いや。昔の知り合いに似てる顔だな、と思って」
「え、兄先輩が覚えてる顔、ですか?」
まるでツチノコが空を飛んでいるのを見つけたかのように、大きな瞳を開いて俺を見上げる久々野ちゃん。
「なんだよ。俺がまるで人の顔を覚えない人でなしみたいじゃないか」
「ええ、まさに。その通りだと思ってます、はい」
当たってるけど、どうしても反論したい気分だ。
「にしても、兄先輩が覚えてる顔ですか」
「いや、でも人違いかもしれないしな」
「人違いじゃないかもしれませんよ?」
「……怖いこと、言うなよ」
「怖い人物なんですか」
後ろを振り向けば、すぐに確信が持てるんだけど、何故かこの時の俺は振り向きたくはなかった。
何かが終わってしまいそうな、何かが変わってしまいそうな気配がしたから。
まだ停滞を望む俺の心がそうさせたのか、よく分からないけれど。
俺と久々野ちゃんは駅に向かって歩き出した。
……絶対に後ろを振り向かないように。
「それでは兄先輩。また遊びましょうね」
「やだ」
俺と久々野ちゃんは駅前のロータリーで別れて、俺は自転車で帰路に就く。
「ただいまー」
玄関で靴を脱いだ俺は、リビングに入る。
そこには、テーブルでイヤホンを付けて問題集とノートを開いてペンを走らせるこのかの姿があった。
勉強に集中するために音楽でも聴いているのかと思ったが、すぐに「おかえり」とこのかが呟いた。
俺はケーキの入った箱を冷蔵庫に仕舞いながら、
「なんだ、音楽聴いてたんじゃないのか?」
「……」
無言。無視、ではなく普通に俺の声が届いていないようだ。
俺の声に反応したのではなく、俺の気配で声を出したかのような。
「……」
俺は少しだけ考えて、言った。
「勉強、どうだ? また分からない問題があったらいつでも聞きに来いよ」
「……」
無言。
「お前は数学のケアレスミスが多いからな。気をつけろよ」
「……」
無言。
「ストレスが溜まったら、いつでもお前のおっぱい、揉んでやるから」
「……っ」
消しゴムが飛んできた。
だが、このかは俺の方を一度も見ないまま、テーブルに向かって勉強をしている。
……ストレス、ねえ。
「差し入れでケーキ、冷蔵庫にあるから。後で食べても良いよ」
時系列が今に追いつきましたが、多分年内で完結は無理なので、年はまたぐと思います。
平成最後の作品がこれでいいかは分かりませんが。




