番外編:舞台袖の雑談
誰に対しても優しい人はいない。
その時点で、自分を優しくできてないのだから。
「笹倉はなんであいつのことが好きなんだ?」
私は彼の言葉に、少しだけ瞼を薄めた。
こじんまりとしたサッカー部の部室の小さな窓から、茜色の光が差し込む。
だけど、私は別に眩しくて瞳を閉じたわけじゃない。
ただ単純に、その質問は私にとってすごく苦いことだから。
苦くて、歯がゆくて、痛くて、切なくて。
――直視するのが難しかったから。
放課後のサッカー部の練習が終わり、道具や部室の掃除などのマネージャーの仕事も片付いたところで、ようやくパイプ椅子に腰掛けて一息吐いた頃。
「あれ、笹倉。まだ残ってたのか」
「そっちこそ。まだ残ってたんだね、七神君」
七神直人君。サッカー部のムードメーカー。ポジションはゴールキーパー。
そして、私の好きな人の親友でもある。
派手な金色の髪にサムライヘアーの髪型は、初対面なら確実に避けてしまいそうな風貌であるけれど、彼の性格を知っていれば一周回って可愛らしく見えてくる。
なんだろう。小学生の頃、他の人と同じなのが嫌で、ランドセルにたくさんキーホルダーを付けるみたいな。
人とは違うことをしたい、そんな年頃なのだろう。
彼も……私も。
「私の方は、ほら。今日は一年生のマネージャーの子が委員会で来れなかったから。マネージャーの仕事、私ひとりでやらなくちゃいけなくって。七神君は?」
「俺は自由の女神像のプラモを部室に忘れてな」
「……ああ、あれ。七神君のだったんだ」
部室の掃除をしていたら、椅子の下に自由の女神像があったから、なんだろうと思ってたけど。
「そうそう、授業で使ってよ」
自由の女神像を使う授業ってなんだろう……。美術かな?
七神君は備品の入った段ボールが積まれた上に置かれた女神像を見つけて、嬉しそうにカバンの中に入れた。
「お、あったあった。これで次の数学の授業を乗り切れるぜ」
「数学で使うの!?」
まさかの数学だった。え、何に使うの?
「なんだよ、笹倉。自由の女神を使う授業って言ったら、数学以外に何があるんだよ?」
「いや、美術とか? っていうか、数学以外で使うものだよ、普通は!」
「そうか? 結構便利なんだぜ、自由の女神像。こう、数学の授業中に問題を当てられる時とかあるだろ? そういう時に自由の女神を掲げてこう言うんだ」
カバンの中から自由の女神像を出した七神君は、両手で女神像を天井に向けて言った。
「――数式の答えなど、現世の平和に比べれば些細なこと。さあ、尊くて儚い平和が恒久的であることを、皆で祈りましょう……と」
「七神君、変な宗教でも入った? それとも危ないお薬でも吸ってる?」
「そうすると、先生も『あ、もういいぞ七神。授業が終わったら職員室に来なさい』って無事に問題からスルー出来るんだぜ!」
「無事じゃないし、後で絶対怒られてるでしょ、七神君」
「いや? なんかすっげー、相談とか悩みに乗ってくれたけど? 『若い時は色々小さなことで悩むだろうけど、間違った道に進んだらいけないぞ』とは言われたけど」
「絶対変な勘違いされてるよ、それ」
私はいつも通り、アホなことを真面目に語る彼に辟易とする。
「……それ、もしかして兄君から教えてもらったの?」
「お、よく分かったな。そうそう、勉強しないでも授業をやり過ごせるいい方法がないかを聞いたら、貰ったんだよ」
最早それは、兄君がアホなんじゃないだろうか。
いや、七神君に教えるためにアホを言ったというのもあるだろうけど。
「……笹倉、やっぱあいつのことになると、笑うんだな?」
「え?」
そう言われて、私は自分の口元が自然と綻んでいるのに気付いた。
好きな人のことを考えるだけで。好きな人のことの話題になるけで。
私はすぐに笑顔になってしまう。
七神君は、自分の頬を触る私をまっ直ぐと見つめて、言った。
「笹倉はなんであいつのことが好きなんだ?」
私は彼の視線から逃げるように、膝の上で結んだ手に目を落とす。
「何度目だろうね、この質問」
ほんと、何度目だろう。こんなに苦い気持ちになるのは。
自分では言うのは大丈夫だけれど、他人に言われるとちょっとだけ苦しくなるのは。
……負い目?
「……さあね。分かんないや。最初はそういう気持ちじゃなかったんだけどね。私と兄君の関係性は、他人じゃないところから始まってるから」
きっと彼は知らない。知る気もないだろう。
彼は過去を過去として見ていない。
彼は未来を未来として見ようとしない。
彼は現実を過去として諦めているからこそ。
彼は現実を遠くない未来だと知っているからこそ。
私を、深く知ろうとは思わないだろう。
「あいつは、笹倉のことをただの物好きだと思ってる。自分を好きになったのも、何かの勘違いだと思ってる」
「だろうね。私もそう伝えたし」
だからこそ、今、私と彼は付き合っている。
不安定な感情で、不安定な関係性だからこそ。
私達はアンバランスな立場を維持できている。
――彼が文化祭で暴行事件を起こした時も。
私は驚きこそしたけれど、それ以外の感情は抱かなかった。
いや、それは嘘だ。
驚きの中の隠れた感情。
納得と安堵だ。
「実を言うとね。私は兄君が暴行事件を起こした時、ホッとしたんだ」
知らない彼を知れたこと。
私の知りたかった過去を知れたこと。
彼の根源にある思い、感情、〝彼女″への気持ち。
「……最近、俺の知らない笹倉とよく会うな」
「うん。私も最近、知らない私によく会うんだ」
私と七神君はくすりと笑う。
気が付けば、すっかり窓に差し込んできた夕日の光は消えて、外は夜の帳が降りていた。
部室の電気を点けて、私は着替え用のカバンを担いで椅子を立ち上がる。
「そろそろ帰るよ。弟がお腹を空かせてるだろうしね」
七神君の隣を抜けて、部室を出る――出ようとして、
「笹倉」と呼び止められた。
「今、あいつが何をしてるか知ってるか?」
「えっと、法事で北海道にいるんだって。妹ちゃんも一緒に」
「帰ってくると思うか?」
「帰ってくるよ」
私は断言する。彼はそんなに弱い人間じゃない。
逃げることに躊躇わない人なら、私はきっと彼を好きになろうとは思わなかった。
弟とは違うからこそ。私は彼に興味を抱いたんだから。
「そっか。でも、いつかは言うんだろ?」
「どうだろうね? 小学校の時、妹ちゃんをケガさせたクラスメイトの姉なんて、興味ないんじゃないかな」
「あいつは興味はないだろうな。でも、このかちゃんはどうだろうな?」
「……どうかな。案外、大丈夫じゃないかな」
「根拠は?」
「私と弟、仲が悪いから」
「……笹倉。俺、笹倉のそういうところ、メッチャ好きだ」
「ありがと」
私は、大嫌いだけどね。
「……ところで、その女神像ってどうやって手に入れたの?」
「あいつからもらった」
「……へえ」
「他にも、ダビデ像や不動明王のプラモも貰ったぞ」
(……兄君、なんでそんなマニアックなプラモ持ってるの!?)




