第四十九話:妹とラベンダー
綺麗は汚い。
汚いは綺麗。
さあ、あなたはどっちの人間なんだろうね?
「あ、キツネ!」
果てしないほどに何もない道をバイクで走らせる俺の耳に、妹の声が響く。
俺はインカム越しに「え?」と答えて、三百メートルほど先の道路に何やら小さな影を見つける。
ギアを四速から三速に落として、ゆっくりとバイクの速度を緩めていくと、果たしてその影の正体はすぐに分かった。
妹が嬉しそうに指を差した先には、確かに一匹のキタキツネがいた。
キタキツネはバイクが近づいても道路を跨ごうとせずに、ジッと小さな目でこちらを見つめている。
北海道のキタキツネは人が近づいても逃げることは滅多になく、警戒心が薄いと聞く。
退く気配がないため、仕方なく三十メートル手前でバイクを停車させると、妹がバイクを降りようとしたので制止の声を上げた。
「待て。キツネに触るな」
「え? なんで? あんなに可愛いのに」
唇を尖らせる妹に、俺は続ける。
「北海道のキタキツネはエキノコックスっていう寄生虫を持ってるんだよ。だから触っちゃダメなんだ」
「そうなんだ……。うう、あんなに可愛いのに……」
「動物が見たいなら、明日に旭山動物園に連れてってやるよ」
「うーん。やっぱいいや。別に動物が見たいわけじゃなかったから」
「あっそ」
キタキツネは俺達が会話をしている間も、呑気に道路の中央で欠伸をしていた。
長い尻尾を垂らして道路にペタリと寝転がる。
「……でも、流石にここで寝てたら危ないよ」
「そうだな……」
仕方ない。本来、ここまで干渉する必要はないのだけれど、このまま車に轢かれてしまう可能性を残して通り過ぎるのも心地悪い。
俺はバイクのクラクションを長めに鳴らした。
すると、びっくりしたキタキツネは不機嫌そうな顔でこちらを睨みつけると、道路の反対側の林に逃げて行った。
申し訳ない気持ちになるが、轢かれて死ぬよりはマシだろう。
「あんなに可愛いのに、触っちゃダメなんだね」
「そうだな」
「あんなに可愛いのに、触ってもらえなんだね」
「そうだな」
「可哀そうだね」
「そうだな」
俺は頷く。
それでも、俺は。
――「どっちが?」とは言わなかった。
***
祖父さんの葬式はすぐに終わった。
残された祖母さんはどうするかという話にはなったけれど、子供の俺達には関係がないと、俺より三つ年上の大学生の従姉と、まだ幼い従姉妹達の相手をしていたら気が付けば話は決着していた。
葬式の後、一泊することもなく、すぐに飛行機で帰るという母さん達と話して、俺と妹はフェリーのチケットの都合上、明後日までは北海道にいることを伝えた。
「学校には忌引きで休むことを連絡してあるから大丈夫」
そう言うと、母さんは嘆息して三日間の宿泊代のお金を俺に渡してきた。
だいぶ疲れているせいか、それとも俺を信頼しているのか。
それから少しだけ俺は母さん達と話すと、母さん達は祖父さんの家を出た。
「あのさ! にーに!」
「この姉とこの後、どっか行くんでしょ?」
「いーな! いーな!」
「私達も連れてって―!」
葬式の意味もよく分からない幼い従姉妹達は、ただ静かに長時間正座されていたせいでストレスが溜まっていたのだろう。
それを爆発させたかのように、俺の両腕を引っ張って駄々をこね始める。
すると、妹が「ダメだよ」と従姉妹達を引き離す。
「これは、兄ちゃんと私の駆け落ちなんだから」
「ちょっ」
何を言い出すのかと妹を見ると、彼女はニヤニヤと小悪魔のように笑っていた。
「……へーえ? あたしのこのかに手を出すなんて、やるねえ?」
「……あ」
背後を振り返れば、そこには魔王のように微笑む従姉の姿があった。
この人も久しぶりに会ったけど、だいぶ大人っぽくなった。
系統で言えば菅谷姿のように変態だけど有能という、幼い頃からの俺にとって非常に親戚連中の中では特に厄介な存在である。
それでも久方ぶりに会った彼女は、数年後の妹を見ているかのようだった。
元々顔立ちや雰囲気が似ているせいで、どうもこの人は苦手だ。
逃げようとする俺の腰を掴んだ従姉は、「にゃっはっは」と笑いながら玄関から居間の方へ引きずり始める。
「ちょっとお姉さんとお話しよう。なに、痛いことはしないよ。気持ちいいことをするだけさ。そうそう、一度、男の処女ってやつを奪ってみたかったんだよね」
「あ、ちょっと! おい、何変なこと言ってんだ!? っていうか、パンツを下ろすな! 子供が見てるだろ!」
「おーっ! にーにのパンツ! にーにのパンツ!」
「にーにの、ちょっといいとこ、見てみたい! へい!」
「おい、なに年端もいかない子供に変なコールを教えてんだ、ババアっ! あ、ちょ、ごめんなさい! 俺が悪かったです! すんません!」
――その後のことは、あまり思い出したくはない。
とにもかくにも、北海道の用事は終わった。
後は、ただ本土に帰るまでの時間を潰すだけとなった。
俺は背後から車が来ていないことを確認し、ニュートラルに入れていたギアを一速に戻して、バイクを発進させる。
再び真っすぐな果てなき道を走り始めると、インカム越しに妹が呟いてきた。
「……お葬式、あっという間だったね」
「……そうだな。祖父さんとは元々疎遠だったから、しょうがないと思うけど」
棺桶に入った祖父さんの冷たい顔を見ても、何の感情もなかった。
「でも。――家族、なんだよね」
「そうだな。家族、だな」
「……家族だけど。ずっと離れて暮らしてたら、あんな気持ちになっちゃうのかな」
ぎゅっと俺の腰にしがみつく妹の手が強くなる。
俺は祖父さんの顔を思い出そうとするが、何故か思い出せなかった。
つい昨日のことなのに。家族の顔なのに。
俺は少しだけバイクの速度を上げる。
何かを振り払うかのように。何かから逃げるように。
「……どうだろうな」
俺には、分からない。
***
「へーえ。やっぱり有名なだけあって、綺麗だね」
メロンと熊と合わせたゆるキャラの町を抜けて、北海道でも著名なラベンダー畑にやってきた俺達は、そこで軽く昼食にすることにした。
「兄ちゃん。ラベンダーって紫以外にもいろいろあるんだね」
見れば、確かに紫以外にも赤や黄、オレンジのラベンダーが色鮮やかに咲いていた。
まるで子供のようにはしゃぐ妹の後ろ姿を眺めていると、自然とスマホで写真に撮っていた。
「あ、兄ちゃん。今、撮ってたでしょ?」
「ダメだったか?」
「ダメじゃないけど……」
眉を寄せた妹は、「あ、すみません。写真お願いしてもいいですか?」と近くにいた同じ観光客のおばさんにスマホを渡す。
「ほら、兄ちゃん」
「ああ……」
ぐいっと俺の腕を寄せて、二人で写真に撮られる。
なんていうか、気恥ずかしい。
家族ならば。
兄妹ならば。
ごくごく当たり前なことなのに。
おばさんは妹のスマホを返しながら、
「はい。撮れたかどうか確認してね」
「ありがとうございます! ……はい、大丈夫です!」
「ふふっ。仲いいわね。お幸せにね」
手を振ってお土産コーナーに向かったおばさんを見送り、俺と妹は顔を合わせる。
「……なんかあのおばさん。勘違いしてそうだな」
「勘違いじゃなくせばいいんじゃない?」
「どういう意味だよ」
「さあね? ほら、いこ。お腹空いちゃった」
昼飯はホットドックとカレーだった。
ラベンダー畑を眺めながら横に並んで食べていると、不意に妹が尋ねてきた。
「そういえば、兄ちゃん。彼女さんとは文化祭の後、連絡どうしているの?」
俺はカレーを掬うスプーンを止めて、隣の妹の顔を見る。
「なんだよ、藪から棒に」
「いや、なんとなく。そういえば、謹慎中は一度もウチに来なかったなあ、と思って」
「付き合い始めたのもつい最近だしな。わざわざ家に上がらせることもないだろ」
「ふうん。で?」
……なんだか、随分強めだな。
さっきの勘違いの影響だろうか。それとも、ずっと俺に聞きたかったけど、聞くタイミングがなかったのだろうか。
俺は「別に。メールで連絡は取り合ってるよ」とさらっと流す。
「へえ。別れ話とか?」
「なんで別れる前提なんだよ」
「だって。妹をナンパした人を、問答無用で殴った彼氏だよ? いつ自分も殴られるか分からないじゃん」
「俺の彼女、お前をナンパするのか?」
「ちーがーうっ!」
いや、知ってるけどさ。
俺はカレーを一口食べて、息を吐いた。
「別れるならそれでもいいよ」
「あれ、けっこうあっさりだね」
意外そうに俺を見つめる妹。
「もしかして、遊びで付き合ったとか? うわー、さいてー」
「それはない」
むしろ、遊びでなら俺は誰も付き合わないだろう。
遊ぶ暇があるなら、バイトをする。
付き合い程度なら、顔も名前も憶えない。
それを把握して、それを承知の上で。
――笹倉桜は、俺を選んだ。
そんな彼女だからこそ、俺は受け入れた。
「……少なくとも。俺は、あの子を大事にしないといけないと思う。他の人とは違うからこそ、このまま別れるとしても、ちゃんと別れないといけないんだと思う」
自然消滅だけは、ありえないからこそ。
俺は笹倉桜と向き合うべきだ。
そうでないと、俺は前にも後ろにも進めない。
……進まなくてもいいやって言えば、また菅谷姿に怒られるんだろうな。
「……ふうん。ま、別にどうでもいいんだけどね。兄ちゃんの彼女のことなんて」
「まあ、お前にとってはどうでもいいだろうな」
「うん。どうでもいいよ、今はね。来年、私も兄ちゃんと同じ学校に通うし」
そう言えば、久々野ちゃんから聞いたっけ。
妹の進路のこと。改めて、本人から聞くのは初めてだけど。
「そうなれば、きっと。否応なく変わらないといけないから。……私も。兄ちゃんもね」
「……そうだな」
小学校。そして中学校。
俺と妹は二つ歳が離れているせいで、同じ学校に通ったとしてもわずかな時間でしか共有できない。
それでも、俺と妹は同じ学校にいることで、少なからず心の変化が起きている。
小学校……。思い出すことのことでもない。
中学校……。思い出したところで意味はない。
そして、高校……。
「……やっぱ。このか、他の学校に行かないか?」
「なんで」
「お前の成績なら、他にもいい所行けるだろ? ほら、テニスの名門とか」
「好きなところに行けるように頑張ったんだから、好きなところに行かせてよ」
「……」
「……だからさ。待っててよ」
俺は答えない。
代わりに、ラベンダー畑を眺めながら言う。
「そういや、さっきあそこの売店でラベンダーのソフトクリームが売ってたな。後で買ってやるよ」
「いや、それはいいんだけど。兄ちゃんさ――」
何かに気付いたのか、このかは吹き出すかのように笑う。
「うん、分かったよ。ありがと」
◆北海道の危険な野生動物
クマ:野生レベル 竜
エゾシカ:野生レベル 鬼
キタキツネ:野生レベル 虎
リス:野生レベル リス




